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Meet Me at MoMA

”Meet Me at MoMA"は、それまでの知識偏重の鑑賞教育に対する反省からMoMA(Museum of Modern Art:ニューヨーク近代美術館)で1980年代後半以降で開発された一連のプログラムを発展させ、2007年から2014年にかけて開発されたプログラムだ。

The History of The MoMA Alzheimer's Project

その副題は、 "Making Art Accessible to People with Dementia"であり、認知症の当事者とその介護者のための教育プログラムということになる。

認知症については、洋の東西を問わず「何もできない」「何もわからない」という偏見(Stigma)が根深く、絵画鑑賞へのアクセスビリティが、ある意味、無言のうちに制限されているという状況が存在する。

認知症には、社会的偏見に加え、その社会的偏見が当事者自身の内部に投影されてしまう状況が発生しており、認知症の当事者は、社会的という外からの偏見と自らの内側からの二重の偏見に苦しむ。

”Meet Me at MoMA"は、認知症の人々やその介護者を支援する美術館、介護施設、その他のコミュニティ組織が利用できるリソース開発を進めようというMoMAらしいアプローチだといえる。

プログラムの様子は、英語だが、下記のサイトの動画を見て貰うのが一番よいかと思う。

Meet me(MoMAのメインページへのリンク)

プログラムの様子を示す動画

個人的には、この"Meet Me at MoMA"に、《対話型鑑賞》の本質が見られると思っている。目の前にある絵に対してそれぞれが思い思いに感じたことや見えたと思うことを語る。そのことによって、認知症であることと介護者であることという立場による従来の固定的な枠組みの関係性を越え、絵をみるそれぞれの人自身が立ち上がってくる。そこに"Meet Me"という名称の思いがあるのではないだろうか。その名称はまた、絵画は究極のコミュニケーションツールでもあるという、MoMAらしい主張へとつながっている。

目の前にあるものがすべて。それは古典的な絵画の鑑賞法とは異なる。《背景を理解し、もっとわかりたい》という思いは人として自然なものだが、それは、まま「わかりたいという病」へと変質してしまうことを思えば、このプログラム、”Meet Me at MoMA”が私たちにつきつけてくることは、ある意味、《訂正可能性》を我々に求めるものと言えるかもしれません。


2018年に国立新美術館で、国際シンポジウム「アート、記憶、高齢化:アートを通した“認知症フリンドリー社会”の構築」が開催された。

https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/18346

英国・アメリカ・オーストラリアの先進事例が紹介された意欲に満ちたシンポジウムだったが、正直なことをいえば、日本の美術館関係者の反応はどこか薄いものだと私は感じた。

一方で、一緒にシンポジウムに参加した知人の佐藤雅彦さんはとても強い印象を受けていた。シンポジウムが終わった後、「ちょっと話せるかなぁ」と駅までの途中にあった喫茶店で、1時間ほど、佐藤さんは自身が感じたことを熱心に話してくれた。

「岡田さん、本当に今日の会でイギリスの人が言っていたことは大事なことなんだよ。絵を見るということは、人として当たり前の権利だって言っていたでしょ。本当にそうなんだよ。絵を見たいとか、演劇を観に行きたいとか、そういう当たり前のことは、人としての当然の権利なんだよ。それが認知症だからという理由でなんとなく制限される、介助する人の都合や好みに引っ張られる。それは違うと思うんだよ」 そんなようなことを佐藤さんは言っていました。

"Meet Me at MoMA”のような取り組みは、あらゆるアクセシビリティに関しての問いを投げかけます。コミュニケーションの媒体としての絵画の新たな役割にも光を当てる。知識の重要性が別の大切なものを覆い隠してしまう可能性を提示してくる。

"Meet Me"に関するプログラミングガイドは下記のサイトからもアクセス可能だ。認知症であるということが与える視点は、見方を変えれば、私たちに新たな視点をもたらすものかもしれない。認知症というものが私たちに指し示すもの、それはひとつの訂正可能性の契機なのではないか。少なくとも私はそう思っている。

”Meet Me: Making Art Accessible to People with Dementia"

訪問していただきありがとうございます。これからもどうかよろしくお願い申し上げます。