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最後に政治家を縛るものは何か?

<差別を止めない南部の法に抗議した1965年「セルマ行進」>
 2014年にアメリカで公開された映画『グローリー/明日への行進』(原題"Selma" )は、公正なる政治をぎりぎりで守るものが何であるかを我々に突きつけます。
  アメリカ建国のはるか以前、17世紀から続く人種差別を「違憲」と断じたのは、かの1954年の連邦最高裁の「ブラウン判決」でした。白人と黒人を分離する南部の学校に「分離したら不平等です」と言い渡したのです。
 以後、翌年のアラバマ州における「バス・ボイコット事件」などを経て、アフリカ系アメリカ人への差別撤廃と地位向上を目指す公民権運動は堰を切ったようように活発化し、63年の「ワシントン大行進」、そして暗殺されたJFKが残した、強力な「64年公民権法」へと結実しました。
 しかし、どれだけ法が制定されても数百年積み重ねられてきた差別的現実を一夜のうちに変えることはできません。その苛立ちは、公民権法成立直後にロサンゼルスやニューヨークで大規模な黒人暴動が起こったことでも明らかでした。
 南部黒人にとっては、州権を盾に明白に違憲である州内ルールを通じて黒人の政治参加を阻んでいる諸制度(投票登録を実質的に不可能にさせる「識字テスト」、「人頭税」、「保証人制度」)をはっきりと禁ずるような、より強力な投票に関する法が必要でした。
 運動の主導者M・L・キング牧師はそうした要求を、なおも黒人差別の熾烈な南部アラバマ州セルマから州都モンゴメリーまでの約90キロにわたる、黒人による非暴力的行進によって訴えようとしました。
 いわゆる「血の日曜日」と呼ばれる65年3月の州警察と民兵による黒人への暴力的弾圧と、それによる黒人青年や東部から駆けつけた白人牧師の殺害事件は、全米三大ネットワークに乗って全米の良心的市民に伝わりました。
 なおも遠い南部で公然と行われている「アメリカ人によるアメリカ人への差別と暴力」を前に、全米の世論は騒然とし始めました。そして、この事態を知りつつも何ら具体的な対応をしないリンドン・ジョンソン大統領に、仲間の流した血であがなった世論を背負ったキングは、より強力な投票法の立法を迫るのです。

<ジョンソン大統領を追い詰めたもの>
 しかし、大統領ジョンソンは、厳格な三権分立の運営と、なお頑迷に保守的価値観を固守する南部上院の民主党との「プロフェッショナルの折衝」を通じて、漸進的に問題解決を図ろうとします。キングの切実なる訴えに対し、「マルティン、わかっている。しかし今は待て」、「その前に通せる法案が先だ」と、交渉の現場にある政治家の論理でキングを説得しようとします。それはジョンソン自身が保守的な南部テキサスの民主党の重鎮として、長い経験から議会対策の難しさを熟知していたからです。
 今この瞬間も進行している黒人の苦悩を背負うキングは敢然として「いえ。待てません。大統領」と突き放します。「アラバマ州のセルマでなされている違憲行為の酷さを、暴力なしに訴えたアメリカ人が命を落としているんですよ」と静かに述べて、大統領を正面から追い詰めます。

 「合衆国憲法に明白に反するアラバマ州政府の蛮行が放置され、完全に違憲なやり方でアメリカ人の基本的権利がないがしろにされているのに、それを正せと言う者に『待て』と言った大統領として、貴方は歴史に永遠の名を残すことになります。本当にそれでいいのですか?」。

 利害調整の政治と普遍的正義の狭間で苦悩するジョンソンは、葛藤の末、結局キングの要求に応え、アラバマ州知事ジョージ・ウォレスを呼びつけ、自分がキングに問われたことを今度はウォレスに突きつけるのです。

 「ジョージ。アラバマを牛耳っているのは君だ。明白に違憲である州政府の行為を許し、問題解決に少しも動かなかった知事として、歴史に永遠の名を刻むことになるが、それでいいのか?」。

 しかし、ウォレスは毅然として返します。
 「べつにかまわんさ( I do not care.)」。

 しかしジョンソンは、ウォレスにはっきりと言い返すのです。

 「私は嫌だ。憲法に反する事態を放置した大統領として歴史に記録されることにはとうてい耐えられない」と。

<本当に守られるべきもの>
 政治とは、あらゆる手段を通じて多様な利益を統合し、政治的、社会的合意を法作成によって表現する営為です。そこには時として正義や真理を脇に置くような権謀術数もあり、「寝業」、「裏交渉」、「ログローリング(貸借合戦)」など、人間の持つ清濁併せ呑む行為が行き交います。
 マサチューセッツの大金持ちの息子JFKにとっては異文化である、古き南部を知り尽くすジョンソンは、世界はある日突然変わるわけではないことを、叩き上げの大人、保守的な政治家として知り尽くしていました。
 しかし、行政府の長として大統領になり、亡きJFKの後をついで選挙で圧勝し、世界最強の軍隊をベトナムに50万人も送り込んだ政治家は、百戦錬磨の政治戦術と処理のノウハウを知りながら、キングのまっすぐな政治的圧力に対して、最後は「憲法の規範」に従ったのです。
 それを人間の道理の言葉へと翻訳すれば次のようになるでしょう。

 「どのような事情があろうと、利害を超えて、それだけはだめだということがある。それをやったら我々は(立憲主義を守るべき政治家)終わりだ」。

 政治は、「あらゆる善意と真実と歴史をなぎ倒して世界を前に一歩進める必要がある」と判断された時、何ものにも配慮することなく悪魔と手を握ることすらある営為です。
 しかし、それは相応の正当な理由があってのことです。「今は、憲法を踏みにじる必要があるほど切迫した状況であり、議会でのおしゃべりをしている間に我々が破滅するような急迫的危機がある」と、人々をおしなべて説得することが条件です。
 でも、もしそれが果たせないと判断するなら、最後の最後の縛りとは、「いくらなんでも、それはできない」という統治エリートたちが党派や利害を超えて無条件で共有すべき「規範」です。
 いかに先進的な政治制度を導入しようと、どれだけの支持を集めて政治権力を把握しようと、どれだけの議会における多数を暫定的に保持しようと、そして政治家個人がどれだけ私的怨念と野望を抱えていようと、やっていいことと悪いことがあるのです。
 億を超える人間の運命と生活、100年先の子孫に決定的な影響を与える可能性のある判断において、「それはいくらなんでもできない」という規範は、我々の最後に残された安全ネットなのです。そして、それが省みられなくなった時、立憲主義を基礎とする我々の民主政治は終わります。

 「それはできないし、やってはいけない」という最後の縛りがなくなった時に失われるのは、法の安定性、長年積み重ねられてきた法解釈、政治における言論の知的尊厳だけではありません。手放してしまうのは、最後まで言葉を通じて、人々が理不尽に命を落とすことがないように他者を動かそうとする「政治そのもの」です。
 この縛りを受けるのは、永田町の政治家に留まりません。霞が関のエリート官僚たち、我々が置かれた状況を人々に正しく伝えるメディア・エリートたちも、この縛りを受けるのです。言わずもがなですが、有権者もです。

 私たちは、「いくらなんでもそれをやったら終わりだ」という最後の約束事の縛りの感覚を、どれだけ広く共有しているでしょうか?
 あらためて、焦土と化した日本の政治の風景の最中、このことを思わざるを得ません。

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※この論考は、たくさんの問題を放置したまま安保法制が強行採決されんとしていた5年前に(2015年07月05日)ハフィントンポストに投稿したものを、あらためて2020年版へと加筆修正したものです。
 政治の衰弱、政治の崩壊が目前に展開している今日、それに歯止めをかける、私たちがどうしても共有しなければならないセンスを喚起するために、改めて投稿しました。
 個人的には、立憲的規範をもっと強靭なものにするための(デタラメな政治家のデタラメな解釈を許さない)改憲が必要だとする立場ですが、ここで言おうとしたことは、「最後の最後の頼みの綱は制度やシステムそのものではなく、そこに自らが縛られねばならないとする信念である」ということです。
 その信念が統治に関わる者たちから失われた時、政治は砂上の楼閣となるだけではなく、暗黒を再生産する奇怪なるマシンへと堕していくでしょう。 
 この世には「べつによくね?」では済まないものがあるのです。 

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