あみ子に連れ出される 日記2024 2月28日

今日、初めて精神科の病院に行ってみることにした。今年一年間の休学をするために診断書をもらうためだ。精神科に行く前に少しだけADHDの症状などについて調べてみた。

ADHDには注意欠如と多動性障害という二種類があるらしい。どちらも心当たりがあるのだが、特に自分には特に多動性障害の傾向が強いのではと感じた。

自分は軽度のチック的な症状もあって、体がビクビクと動いてしまうことがあるので、心的な多動症と結びつかない動きもあるのだが、逆にチックの自覚症状と結びついて、急に変な動きをしてしまうこともあり、無意識に体が動くことと意識的に体を動かしてしまうことの差がとても曖昧だ。知り合いが近くにといるときは、自制心からかあまりそういうことにはならないのだが、たまに1人でいる時に変な動きをしているところを誰かに見られることがある。

また会話の中で、特にまだ不慣れな人と会話をする時、全く思ってもないような、倫理的に反することを反射的に言ってしまうことがある。英語のディスカッションの授業の時には今思うとすごくはちゃめちゃなことを言った。

こういう時に自分が周りにどんな印象を与えているのか僕は知らない。

伊藤亜紗さん著の”どもる体”という本の中で、吃音の人たちが連発の症状を発症する時、吃音の当事者の人はむしろ落ち着いていて、逆に聞き手の人の方が緊張に晒されているということが書かれていた。

職場に(吃音の)当事者がいて、恒常的に接する機会のある女性は「その人の連発が始まると、早く出ますようにと祈っちゃう」と告白していました。「祈っちゃう」ということは、連発が終わってほしいという思いの表れなのですが、同時に、「放っておけない感じ」「こちらの体が引き込まれる感じ」があると女性は話していました。この強い同調は「社会的なお約束」のレベルを超えてメッセージをじかに伝える力を持ちます。

  出版:医学書院 伊藤亜紗「どもる体」p.74

吃音という会話におけるエラーは、聞き手の人間を普段の”正常な”会話の外側に連れ出す。

あみ子も、こうした”外側”に連れ出していく存在だと思う。“こちらあみ子”のあみ子が特別なのは、小学生の女の子なのに、かわいくも、かわいそうでもないところだ。ほとんどのフィクションの中の小学生は、素直でかわいくて、かわいそうという役柄を着せられる。そんな小学生は、上手く加工されていて咀嚼しやい。しかし、あみ子には社会的な約束事が全く機能しないのでそうした役柄を演じることはできず、うまくかっこいい、かわいい、かわいそうといったポジティブな言葉に回収させることができない。

たぶんどんな人間も社会に適合できない側面を持っているが、自分の場合、そういう側面は自分の見えないところに押し込みがちになってしまってしまっていたような気がする。でもそういう側面がそれ自体肯定することも否定することもできないものとして自分の内側にも、外側にも、存在するのだと認めることは知性というものの一側面なのだと思う。


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