人間・この劇的なるもの 日記2023 3月5日

今まで、自分はあらゆる可能性を想定して生きてきた。自分が今したものより面白い返答、自分が今持っているより持ちえた知性や技術、自分が今今生きているよりもありえた面白い人生。そうして全て想定することで、自分は明晰に生きていると感じていた。つまり、どうやっても知りえないことを知覚できるという前提で生きてきた。そうしてあらゆる可能性を想定できる自分を肯定して生きてきた。

自由ということ、そのことに間違いがあるとではないかと福田恆存はこの本の中で言う。

つねに人は自分がなにものかに欠けており、全体から除け者にされているという自覚によって、初めて自由や個性に思到する。が、このなにものかの欠如感が、ただちに安易に転化され、弱者の目には最高の美徳であるように映じ始めるのだ。
 最初は、誰もが全体から離脱に不安を感じる。つぎに自分を除け者にする全体に対して不満をいだく。さらに、彼は全体の批判者として立ち、個性の名において全体を否定する。脱落者から優越者への道はあらゆる心的過程の最短距離を走る。が、ひとたびこの里程標を越えると、彼は自己の優越性を保持するため際限もなく優越者であり続けなければならなくなる。(中略) 自由の出発点に立った以上、私たちは永遠に全体の批判者でなければならぬ。こうして私たちは孤独になるか、特権階級の座席に坐り込むかせねばならなくなるのだ。

私たちは自由という観念を絶対的な価値基準とすることで、部分として全体に参与することが不可能になってしまう。筆者は自由を信奉した人々の例として、浪漫主義者を挙げている。浪漫主義者は無限に自由な主観というものを想定する。無限に自由な主観は絶対者すらをも自分のうちに取り込むために自己は万物に対して批判しうる優越性を持つことになるのだ。浪漫主義者はそうした自己に陶酔する。だが、その陶酔感は長くは続かない。なぜなら、「信じるに足る自己というのは、何かに支えられた自己」だからである。結果的に自由という観念がもたらすのは自他に対する信頼感の喪失だけである、と。

全く、その通りだと思う。何かがおかしい。その感覚はつねに自分の中にもあった。では何がおかしいのか、それはやはり自分が無限に自由であるという想定である。

筆者は無智でありながら全体に参与しているという、その感覚が重要なのだという。

ソクラテスがその対話法に用いたアイロニーも、つまりは無智を仮面にすることであった。それは論争において敵を誘い寄せるという効果的な方法でもあるが、また自分にとっても真実に到達するための最短距離の道でもあった。かれは全体を知ってはいなかったが、無智ではなかった。彼は全体というものを知りえぬということを知っていたのであり、無智という段階にとどまっていなければ全体をつかみえぬことを知っていたのである。

本当に、目が覚めるような思いだった。今まで自分もそういう誤解をしていた。絶対に分からないものをわかるためにもがいてきた。自分はあらゆる可能性を内包しているものだと思っていた。だが前提が間違っていたのだ。個人は皆部分としてしか全体に参与することはできない。そんな、当たり前のことを自分は理解していなかった。今まで本を読んできたのは今日のためだったのかもしれないと思うほどに衝撃的な体験だった。


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