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100人いたら100通りの子育て取材みんな違ってみんなイイ      №.4 吉田 恵さん

 久しぶりの快晴で十勝らしいお天気の日、今日の子育て取材を受けてくださるのは吉田恵さんです。恵さんの長女さんも夏休みということで、玄関で迎え入れてくださいました。

100人いたら100通りの子育て取材は「おかあさんのがっこう」の学校祭魅力プロジェクトとして100人のお母さん達を取材させて頂く企画です。
おかあさんのがっこうの詳しい活動の様子は以下をご覧ください。


ちょうど一年前、茨城県から北海道の帯広市に移住された恵さん。移住されてまもなくの頃、様々な学びの場で何度かご一緒し、いつも素敵な笑顔でお話ししてくださるのが印象的でした。恵さんは助産師の仕事をされています。思い切って仕事を辞めて、北海道に家族で移住されたことを以前聞いたことがあったので、今日はお仕事や子育てについて聞きたいと思っていました。


助産師になるまでのいきさつからお話してくださいました。
恵さんが子どもの頃、伝記を読むのが好きで、ナイチンゲールの本を読んだ時にとても感動し心に残ったそうです。

ちょうどその頃、恵さんがまだ小学一年生位だった時に叔母さんが41歳という若さで病に倒れ亡くなった時、まだ4歳と幼い従弟が母親の死を理解出来ず、棺の中でかくれんぼをしていると思っている様子を見て、恵さんはこの子はまだ死を理解できないのだなと心に残っていたそうです。

遺骨になり帰ってきたときに、ようやく死を理解し泣き出したそうで、人が亡くなることはなんて悲しく辛いことなんだと初めて人の死を身近に感じる出来事だったそうです。叔母さんが闘病している時に看護師の仕事を間近に見て将来は看護師になりたいと思ったそうです。


恵さんが小学五年生の時、お母さんが腎臓病で入院し、手術室に送り出す役割を恵さんが一人で行うという出来事があったそうです。その時、お母さんが手術室から無事に帰って来ないのではないかと心配だったそうで、その様子を見ていた看護師さんが恵さんに「お母さんはちゃんと無事に帰ってくるからね」と安心させる言葉がけをしてくれ、患者さんだけでなく、その家族の心もケアしてくれる姿に触れ、将来の看護師像は家族を含めてケアが出来るそんな人になりたいと思ったそうです。


恵さんのお母さんは恵さんを産んだ時のことをよく話してくれていたそうで、「子どもは宝だよ」と何度もおっしゃっていたそうです。もともと腎臓が弱く、子どもを妊娠出産できる体ではないと医師から伝えられていたそうで、それでも子供を授かりたいと願い恵さんとお姉さん二人のお子さんに恵まれたそうです。

小柄なお母さんが3800グラムの大きな赤ちゃんだった恵さんを自然分娩で産んだそうで、その時の産科の医師が「よく頑張ったね、大したものだ」とお母さんを褒めてくれたそうです。


「お母さんはきっと褒めてもらえて嬉しかったんだと思うんですよね。中卒で何か自信のない母が産科のお医者さんから褒めてもらえたことが、大きな自信になったんだと思うんです。その時、母親が楽しく育児をスタート出来る関わりの出来る人になりたいと思ったんです。」とお話をしてくれました。


子どもの頃からこんなにはっきりと将来を思い描いていた恵さんにただただ感心しました。


海外で働く青年海外協力隊への関心が小学校高学年の時の国語の教科書の題材で読んだ無医村のお話がきっかけだったそうで、そのような所で働くには救命救急の技術が必要と感じて看護師資格を取得後、救命救急では最先端の医療を施す病院に勤めたそうです。


勤め始めて配属になったのは救命救急ではなく、心臓血管センターだったそうで、高度な医療で助かる命の喜びとは裏腹に高度な医療を望まない患者さんの本音にぶち当たることもあり、医療とはいったい誰のため、なんのために必要であるかを模索する時期だったそうです。


その後、旅でカンボジアを訪れた時に、現地の人々の幸せそうな笑顔に触れ、この国の人々が、高度な医療を受けた時に本当に幸せになるのだろうかと疑問を感じたそうです。


「遠くに住む人々を幸せにしたいと願っていたのは私自身が行きたかっただけではないかと気づき、遠くの人のためではなく、近くの周りの人を幸せにするための仕事をしたい」とその時に思ったそうです。


医療が介入することで、本来もつ人のニーズを満たすことを邪魔してしまうのではないか?


学生の時の実習で受け持った患者さんが病名を告知されずに亡くなったことを目の当たりにし、医療が人を幸せにするのか否かを深く考えたそうです。


そして、30歳の時、助産師の資格を取得し、大学病院の産科に勤務します。


そこで、出産を終えたお母さんの出産に対する満足度が、医療者側とお母さん側では違うことを知ったそうです。マニュアルに沿った産科医療が本当にお母さんと赤ちゃんの幸せなお産になるのか疑問を抱いた恵さん。

「陣痛が始まるとマニュアルに沿って固形のものを口にしてはいけないって信じられないでしょう?」と、リスク回避優先の産科医療を振りかえって下さいました。


その後、自分が理想とする助産師を目指すべく産科クリニックに転職された恵さん。
そこでは熱心な厳しい先輩の下、「一からたたき上げるよ」との厳しさの中、どれだけお母さんが自分と赤ちゃんの力で頑張って産むことが出来たと思えるか、助産師の介入の程合いを学ばれたそうです。


自然分娩で産みたかったお母さんが緊急に帝王切開になり、のちのちまで後悔の想いを抱く人がいることなど、育児のスタートをきる時にどんな想いでスタートさせるかでその後の育児にも影響があることを感じたそうです。


33歳でご結婚され、助産師の仕事にもますます意欲的に取り組んでいたころ、妊娠がわかり、働き始めたばかりの職場、休んではいられないというプレッシャーの中で仕事を続けたという恵さん。自然なお産の勉強をするべく、まんまる助産院という助産院を訪れたり、ご自分の安産のためにも探求されたそうです。


そして35歳で長女をご出産。自身の勤めるクリニックで出産し、とても安産だったそうです。余計なことを考えず、ただただ自分の身体と向き合う時間、声を上げたいときには声を上げる、野生に戻るそんな感覚で産むことができたそうです。


ただ、産後がとても辛かったと話されました。産後、赤ちゃんの体重が思うように増えず、ミルクを足そうとすると先輩の助産師さんから叱られ、とても苦しかったそうです。
「助産師なんだからと叱られ、本当に産後うつ状態でした。その時の記憶があまり鮮明でなくて。」と話される恵さん。

その時をどう乗り切ったのか聞いたのですが、きっと一生懸命にもがきながらも何とか頑張っていたのでしょう。仕事に復帰されてからは、仕事で力を発揮し、自分を取り戻したそうです。


「そのころはパートナーシップも悪くて、夫婦の価値観が違いすぎて、本当に離婚を考えたりしました」と話してくださいました。
育児でいっぱいいっぱいの時に、ご主人から北海道への移住計画を持ち掛けられ、自分の仕事のこともあり、なかなかお互いに理解し合うことが難しい時期だったそうです。


「そんな両親の様子を感じたのか、娘がわたしはお父さんともお母さんとも一緒にいたいって言ったんですよね。それで北海道へ行くことを決心しました。」
一時は北海道に移住することに不安でしかなかったといいます。ちょうど、恵さんのお父さんが死の間際に「恵は北海道に行くのがいい」とおっしゃたそうで、その言葉も後押しになったようです。


「北海道に来て、一番楽しんでいるのは自分かもしれません」と笑う恵さん。
茨城にいるときは娘さんのアトピーの治療に対して、夫婦で意見が分かれ、治療の選択肢があまり無いように見えていたといいます。「夫はステロイドは使うなと言うし、ぐじゅぐじゅしている娘の肌を見ると可哀そうで、一時だけでも薬を使おうとしたり、他の選択肢が見えませんでしたが、十勝に来ると色んな選択肢があって、その経験をした人とも出会えて、今はだいぶん綺麗になりました」


北海道への移住に関して、今の恵さんからはとても想像できない葛藤があったんですね、北海道に来て、恵さん自身が生き生きとされていることをとても嬉しく感じました。


最後に助産師としての今後の展望をお聞きすることができました。
「助産師として開業することも思い描いてはいますが、まだ十勝に来たばかり。十勝の助産師とも繋がりを作りたいと思っています。今、総合病院の産科病棟に勤めていますが、退院指導をさせてもらってます。お母さんと赤ちゃんがお家に帰ってから、スムーズに子育てのスタートをきるお手伝いをしています。」


恵さん自身の経験からも、完全母乳にこだわったりせず、お母さんが頑張りすぎて辛くなるような子育てにならないような関わりを助産師さんの立場からされているそうです。
「子育てに正解はないですよね。一時はアレルギーを起こさないように離乳食を遅めにスタートさせることが推奨され、最近は乳製品へのアレルギーを起こさないためには早めのスタートが推奨されたり、その時その時の研究で言うことが変わってくる。答えはないのだから、お母さんが選んだり、決められるやり方で良いのだと思います」と話してくださいました。


教科書があるとその通りにしなくちゃと振り回された記憶が私にもあります。経験がないとどうしても参考にするものが欲しくなります。そんな時、助産師という専門家からもっと楽に力を抜いてねと寄り添ってもらえたらどんなにか新米お母さんの心を楽にしてくれるかと思います。


子育てのスタートをきる時に楽しく始めることができるよう、寄り添ってくれる助産師さんに出会えるお母さんは幸せです。そして、ご自身が経験したからこそ、産後、苦しい子育てにならないような関わりをしてもらえたら、お母さんが笑顔で過ごすことが出来ると思います。


幼いうちから死を身近に感じ、ご家族の闘病生活で感じた患者家族の気持ちを理解され、今は新しく産まれてくる命とその命を守り育むお母さんをサポートする助産師さんとしての恵さんは、ご自身の経験を一つ一つ大切にされて今に活かされているのですね。
いつも温かな素敵なその笑顔でこれからもお母さん達をサポートしてくだいね。
恵さん取材ご協力本当にありがとうございました。

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※写真はおかあさんのがっこう職員の松村友香里さんが撮影


吉田 恵さん プロフィール
新潟県出身 看護師か学校の教師になりたかったそうですが、看護師の道へ。30歳で助
産師の資格を取り、助産師となる。
5歳の長女とご主人の三人家族。

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