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偽偽ょっ記

モノに自分の名前を付けるのにちょっとした憧れがある。

小学校のころ、よく母とクリスマスにもらった家庭用プラネタリウムを見ながら星の話をした。もし新種の星を見つけたら、自分の名前を付けられる。小さかった僕には話があまりに壮大過ぎてあまりピンとこなかったが、すげえと思った。同じ名前の星が僕が死んだ後も宇宙にポツンと浮かんでいる、すげえである。その感想は多少語彙力が増えた今でもすげえの一言でしか表せないロマンがあるのだ。一番望ましいのはやはり彗星だろうか。
これからずっと先の未来、ニュースで
「今日60年ぶりに地球からnoe彗星が見れます!」
なんて流れた日には僕はあの世でも鼻が高いだろう。

ただ、自分の名前を付けるのにも少し嫌な面もある。例えば、それが病名の場合だ。新しい症状を発見した場合もその発見者の名前を付けることがあるそうで、身近なものだとバスケ部がよくなるオスグッド病なんかが挙げられる。僕も中学の時に両足オスグッドに苦しめられ、
「ほんと嫌だ、オスグッド」「まじで無くなれよオスグッド」
などとぶつぶつ言っていた覚えがある。しかし、この言い方だと天国のロバート・ベイリー・オスグッドさんもまるで自分に言われているみたいでなんだか気分が悪いだろう。これは極端な例にしても、自分の名前がついたモノに多くの人が苦しめられているというのは、その苦しみから救おうと尽力した人からするとどう映るのだろうか。
「noe病で一週間入院してしまって」


なんだか僕が悪いことしたみたいではないか。新種の病気を発見しても自分の名前を付けるのはやめといたほうがよさそうだ。
ただ、もしかしたら自分が見つけた星から何百年も先の未来、宇宙人がせめてきて、地球を侵略するかもしれない。星もやめておいたほうがよさそうだ。

この文章は穂村弘さんの「にょっ記」の彗星の話をもとにしています。

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