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おかしな教祖とおかしな信者

アンケートご回答ありがとうございます。
つくづく自分が変わることのほうがいかに簡単かと思い知らされますよね(汗)。おかしなことを言うひとも、それをびっくりするくらい信じてしまうひともこちらからどうこうすることはできませんよね〜。私のあらためての実感です。noteで書くだけというささいな活動ですが、この1年の結果、体感では数%くらいです。それだけでも気づいた方がいるだけ、わたしのほうが感謝という気持ちです。

理屈でも感情でも明らかに変な人(教祖)。
でもそんなの全然気にしなくていいんです、というのが分かりました(笑)。
どのようなコンテンツがひとの気を引くかは熟練のワザがあるのでしょう。理屈があっていなくても、感情的に反感を買いそうな人格でも、お客を取得できているという意味では遥かに私なんかより能力が高いと思います。

教祖一人変えるのは難しいのと同じように、それを信じる人をどうこうというのも全くに近いほど無力です。どうこうなんて傲慢ですけども。

ペナルティ、呪い、普通そんなこと言いませんよね。
「普通」ってなんだ?と言われるでしょうけども、それを説明しなければならない時点でもう会話にはならないでしょう(汗)。

たしかに
「◯◯したらペナルティが与えられる。」
→「それを破ればペナルティが発動する。」
そりゃ筋だけは通っています
ただ、そもそもなんでペナルティなんて発動するのよ!?という前提を問わなくなっているのがびっくりなんです(笑)。
信じたい気持ち、嫌われたくない・見放されたくない気持ち、あるいは、一緒に悪趣味を楽しむ気持ち、選ばれた存在でいたい気持ち、いろいろなものが渦巻いていると思います。
ただどれもこれも私には黒い煙のようなイメージしか湧いてきません。

これをどう呼ぶかは分かりませんが、「悪」やら「邪」・「闇」と言っても言いんじゃないかと思います。また、一方で世界の理からすると、「正」「善」「光」があれば必ずその反対の存在が発生するとも思っています。
なので消えることもないのかなあと達観もあります。
こちらが光を意識するということは、闇があるからであり、闇がそもそも存在しなければ光を考える必要性もなくなるといいましょうか。
そう考えると物事の両面に過ぎないのかと虚しくなることもあります(笑)。

話がとびすぎましたが、直観的に「ヘン」な人たちです(笑)

こないだ読んでた本で付箋をはっておいたところがあります。
一部を切り取ってもあれなんですが、ぴったりだなと思いました。

私が言いたいのは、宗教は数ある憎しみの源の一つだということだ。憎しみの源なら、だれもが知っているように、ナショナリズム、人種差別、性差別など、多くのものがある。これらの信念体系には、すべて宗教と共通点がある。それは、自分はある排他的集団の一員であると考える人に優越意識を与えるということだ。宗教が生み出す憎しみの根底にはそれがあると思う。

上記の書より

宗教というより宗教団体としておいたほうがよいかもしれません。囲い込みとか集団とか、特定のものになると碌なことがないですね…と個人的には思います。必ず排他的になるので。サニワメソッド・ワールドにはまさにそれが如実に現れていると思いませんか(汗)
教祖にも信者にもそれがあるのでしょう。人間の業ですよね。

教祖は全能ではないにしても何らかの能力は本当に持っているかもしれません。しかし明らかにそれで溺れているようにしか見えません。どう見るか、これもひとつのスタンスに過ぎないのでしょうけど、やたら他罰的なのと、新しい造語の連発、師匠の用語の横取り、歴史の真相解明を目指している割に保守的には見えません。何故そのようなスタンスで多くの支持者が得られるのかは気になります。ルサンチマンと破壊欲が背景にあるでしょうか。

追記です。
「まともな対話がない」ですよね…。
合わなければ対話の前に「罰則」です。

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