イルカ

私が飼育員として担当したイルカの満腹中枢はぶっ壊れていた。

2018年 春
私は千葉県のとある水族館に就職し、イルカショーの運営を行う部署に配属された。
要はイルカの飼育員だ。

イルカは賢い。
ネットやテレビでも再三言われているように、どうやら人間の言葉が分かるらしい。
芸もとても上手く、どうしたら人間が喜ぶのか分かっているみたいだった。

とりわけ、ハルカと名付けられたイルカは特に賢く、芸が上手かった。

就職が決まり、見学のために訪れた際に見たショーでのハルカの芸は圧巻だった。
美しく、ダイナミックなジャンプは思わず息をのんでしまうほどで、他のイルカたちとは一線を画していた。

それでいてハルカはとても賢く、人になれている。
水槽の前に並んだ子どもたちを驚かせるように死角となっている下からせり上がるように泳いでみせ、あらゆる観客の表情を緩めてみせた。

そんな賢く芸の上手いイルカは今年の一月に水族館へやってきたばかりらしく、同じように新入りの私はハルカの担当飼育員になった。

ハルカは明らかに他のイルカと違っている。

ハルカの芸は他のイルカよりも上手く、その上手さは先輩飼育員の多くが認めるほどだった。

また、ハルカは他のイルカ以上に賢いのでどうしたら餌がもらえるのか分かっているようだった。

その賢さに気がついたのは夏のことだった。

その日はとても涼しく、この夏は例年以上の冷夏らしかった。

いつものように13時45分より始まったイルカショーは夏休みという事もあり、盛況だった。

イルカショーの中に天井からつるされたボールをジャンプして鼻先でつつくプログラムがある。私とハルカはそのプログラムを担当することになっている。

ボールはとても高い位置につるされており、このプログラムの先代であるイルカよりも50㎝ほど高い位置につるされている。
先輩から聞いた話だとハルカのボールの位置は歴代のイルカのなかでも指折りの高さらしい。

私とハルカの時間が始まる。
ハルカは私のジェスチャーでボールをつつくジャンプをする事を理解した。
ぐっとスピードを出してジャンプへの助走を始める。
薄い波を立たせながら猛スピードで旋回して、ボールの下に向かいハルカが跳ぶ。
パシャッと気持ちの良いしぶきを上げて跳んだハルカはラッセンの絵画のように美しいフォルムでボールをつつき、大きなしぶきを上げて着水する。
着水と同時に聞こえる感嘆。
わっと沸き起こる拍手。
沢山の笑顔。
ハルカは最高のパフォーマンスを見せた。

私はご褒美の鰯を投げ渡し、次のプログラムを担当する飼育員に目を向けた。
すると、ハルカは私の指示なしに猛スピードで泳ぎ始めた。

さっきと同じように助走をつけて、跳ぶ。
跳んだと思うと頭を下に向けるようにひねり、尾びれでボールを蹴りつける。

さっきの技よりも高難易度の技だ。
この水族館のような田舎の水族館ではまず見る事ができないような技。
有名水族館でも一部のイルカしかできない技だった。

観客の歓声が起こる。
私と先輩は動揺していた。

ハルカは満足そうに私の足下に来て、キュイと鳴く。
観客を沸かせる圧倒的な芸を披露したハルカに、私は思わずご褒美を与えていた。

すると、ハルカは再度私の指示無くジャンプをして見せた。
もちろん観客は喜ぶ。

喜ぶのであれば餌を与えなくてはならない。
動揺し、マニュアルにない行動をとるイルカに唯一できたことは技に対する承認だけだった。

ハルカは止まらない。
何度も何度も技を繰り返す。

私も止まることはできない。
何度もご褒美として餌をやる。

ハルカは芸をすると餌をもらえるというシステムに気づいていた。

そして

ハルカの満腹中枢はぶっ壊れていた。
いくらでも餌が食べたいと思ってしまうのだ。

ハルカの上手な芸に観客もはじめは盛り上がっていたが、いつしか見飽きてた。
盛り下がる観客席を見向きもせず、ハルカは跳び続けた。

ハルカにとって重要なのは観客の笑顔ではなく、自分を満たす餌だった。

しかし

ハルカの満腹中枢は機能していない。
ハルカがどんなに跳び続けていても、ハルカが満足することはない。

ハルカは自分を満たすことはできない。

それならば

ハルカの中で満たすべき事を変えなくてはならない。

ハルカにとって有意義なことは自分を満たすことではなく、他人を満たすことであると認識を変えることができればハルカは救われるかもしれない。

しかし

どんなに賢くてもイルカは動物。
生存本能に従い、食べることを優先することは至極当たり前だ。

ハルカは跳び続け、観客席は空っぽになった。

私は止めることができず、それでもハルカは跳び続けていた。

餌をあげるのをやめても跳び続けていた。

満たされると信じて跳び続けていた。

ハルカは美しく、ダイナミックなジャンプを誰のためにもならないまま
ずっとずっと続けていた。


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