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おじさん小学生の読書メモ32回目

今日はちょっと番外編というか、図書館の本じゃなくて人に教えてもらった論文みたいのを読んでいます。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshuppan/38/0/38_107/_pdf

「メディア倫理学」というものを提唱したクリフォード・クリスチャンという人について書かれたもので、国際的に多様化しているはずの、国家というコミュニティそれぞれにおけるメディア・ジャーナリズムというものを、普遍的に基礎づける倫理とは何か?ということを言っているらしい。

その基礎は、人間の尊厳・真実・非暴力であるという。共同体におけるジャーナリズムの基礎なので、共同体の基礎であり、また共同体を形成する人間存在の基礎であるかもしれない。

でもちょっと引っかかるのは、国際的多様性によって、確かなものなどないという相対主義とニヒリズムが台頭したというのはわかるのだけど、それに立ち向かわんと普遍主義を掲げ、時代も地域も問わない普遍的な基礎を打ち出すという態度自体が、ちょっと感情的なのではないか?という点だった。

絶対に揺るがない、人間の、あるいは世界の基礎、そこから外れてはいけない真なる中心があるか?と訊かれれば、どちらかといえばそれは存在するとは思う。

しかし、その真なる中心なるものが、本当に言葉で言い表せるものか?

人間の尊厳・真実・非暴力は、真なる中心の備えた性質の一部であるか、その周辺をめぐる衛星のようなもので、究極的なものは不動であったとしても、それらが言葉にできてしまうこと自体が、相対的な対象であることの証拠になるのではないだろうか?

相対主義的ニヒリズムでも、絶対的な普遍主義でもなく、その間をとることを、ちゃんと指摘して評価されている人物を、寡黙にして知らない。なにか理由があるのかもしれない。

でも、そもそも、絶対的に普遍的なものはあるとして、しかし、それは「これである!」と指し示すことができるなんておかしくない?

「イデア」だってそうだ。名付けられることができる時点で、それは決して厳密に普遍のものではない…のではないの?

そして人間存在がよりよく生きることのために、そういう種類の矛盾に目を瞑って「真なる中心」を雑に捏造することが、相対主義の誤謬に比べて、どれくらい良いことなんだろうか?

などと、いろいろと他愛の無いことを思い浮かべることができるテキストは、その時点で非常に良いテキストである。紹介してくれた人に感謝!

とにかく自分が触れてきた分野ではないので(マクルーハンをチラッとよんだことがある程度)「あ〜アレね」と、自分の既存の知識に結びつけることができない。短い論文でも読むのにとても時間がかかってしまう。

しかしここでもヒュームの名前と経験主義の話題が出てくるのだった。だんだんとヒュームが近づいてきているのを感じる…

余談。昼食時にも本を読みたくなったが、図書館の本を汚すわけにはいかないし、そもそも本を食卓に乗せるのが面倒ということで、久々に携帯からKindleを読んだら、これがよかった。

何度も読み返しては読み終わらない「贈与論」なのだけど、内容が頭に入ってくることはあんまりなくて(もぐもぐ)、それよりも「本ではない活字情報に触れない」時間をもつということが重要なのかもな?という気がした。

SNSと読書の大きな違いの一つには「自分で情報の取捨選択ができる、または取捨選択のコストに差がある」ということだと思う。

もちろん、思いもよらない発見は、ランダムな情報の山から飛んでくることの方が多い。脈絡なく表示されたネットレシピに何度お世話になったことか。

しかし、ランダムな情報に「触れるかどうか」という意思決定の領域が、習慣的な反復によって狭まってしまうことは、必ずしも自分にとっては良いことではないようだ。

悲しいニュースに無力さを感じて打ちひしがれたり、人の愚かさにカンカンに憤りつづけたりして日がな過ごすのも非常に刺激的なことではあるのだけど、ちょっとそのためには気力体力に乏しい個体である以上、どこかの入力経路で強めにバルブを閉める必要があり、読書はそのための一つの手段になりうるという発想が、自分にとっては斬新だったのだった。

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