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おじさん小論文09−2−3「学習についてその2(動機について3)」

 前回の投稿のコメント欄で、なかそねさんとの問答があり、3つの発見があった。

発見1:動機の分類を間違っていた

 まず、以前の記事で実施した動機の分類が間違っていた。内発的動機とは、それ自体を目的とするもの、やりたいからやるものを指すということだ。自分の中に目的があるものとして、誤用してしまっていた点を、なかそねさんに指摘してもらった。

発見2:内発的動機による活動が一切無い

 そして、その定義でいくと、自分の行動や活動に、内発的動機によって行われるものが、生命の維持以外には一切無いということが分かった。

 小学生活動やコミュニティへの関わり、読書やビデオゲームに至るまで、全てがその活動自体を目的としておらず、何らかの効果を期待するものだった。生計や帰属意識を充足させるための手段や、その手段を獲得することをねらいとしており、「それをやりたいからやる」ということができない。

 ということは、自分だけの「それをやりたいからやる」を追求していく妖怪のような人にはなれないということだ。裏を返せば、何もしなくていいのなら(マズローの欲求ピラミッドが満たされてしまえば)、何ヶ月も食って寝るだけの生き物として過ごすことができる。そういう時期が確かにあった。

発見3:お金のことを考えられないのは、内発的動機が無いからではないか

 内発的動機を持たず、外発的動機によってしか活動ができない人間は、何らかの欠如によってのみ活動することができる。ということは、この構造が、満たされてしまって何もできなくなることへの恐れを引き起こしているのではないか?

 なかそねさんの指摘通り、現在は有り難いことに、自分の好きなことをして、コミュニティにおける一種の役割を担うことができている。また、衣食住にも困っていない。マズローの欲求ピラミッドでいうと、

自己実現の欲求 ○
承認の欲求 ○
社会的欲求 ○
安全の欲求 ✗
生理的欲求 ○

という状態になっている。ここでいう安全の欲求とは「生計を立てられるか」という金銭上の問題である。

 過去に色んな活動をしていた時、この「生計」の問題に取り組み始めた途端、活動が瓦解してきた。もしかするとそれは、安全の欲求が満たされてピラミッドが完成した途端、何もできなくなるということに勘付いていたからではないか?

 内発的動機を持っている人間ならば、他の階層の欲求を全てクリアできたとしても、まだ活動を維持することができる。それは「自己実現の欲求」だけがまだ満たされていない状態とも言える。

 しかし私は、自己実現の欲求をそこまで鋭利に保つことができない。「自分が納得するまで」という感覚が無い。やったらやった分で満足してしまって向上心が無い。

 だから物事をより良くしようと思えるのは、それが外的動機に対して不十分である時だけだ。そして外的動機として不十分になりえるものが、生計しかないのであれば、活動を維持するには、その生計が満たされるということを忌避する必要がある。

 目の前にぶら下げたニンジンは、しかし口元に届かないようにしなければいけない。

ならば、どうする?

 ではどうすれば、欲求を満たした上で活動を維持できるだろうか?

 ひとつは、内発的動機を膨張させる方法を探すことだ。純粋に内発的動機による行動というものは一切無いが、内発的動機を「含む」行動ならあるかもしれない。それを単一の動機に足るレベルまで引き上げることは出来ないだろうか?

 そして、そのための実験を行うために、なかそねさんの指摘の通り、まずはピラミッドを完成させる必要があるのだとしたら、欲求を充足させて、何もかもがどうでもよくなって倒れる直前に、踏みとどまって何事かを試みることができるだろうか?

 それとも、欠乏を抱えたまま何事かを(外発的動機のために)行うことによって、内発的動機の膨張を試みることが可能なのだろうか?

 今はそういうことに興味がある。しかしこの興味も、結局は外発的動機を満たすためのものに過ぎず、その行為(興味を満たすこと)自体を欲望するものではない。

(本文54分)

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