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おじさん小論文07 「義務と自主性について」

 前回の小論文に引き続き、自分の内側と外側の関係性について考えていきたい

 自分の内側にある「ビオトープ」に対して直に面する2つの空間、「コミュニティと「開かれた場」において、発表などの働きかけと、それに対するフィードバックが交わされる時、その根底には自ずと湧き上がる「内発的動機」と、他者の要求に応えようとする「外発的動機」が存在する。

 内発的動機がなければ義務は形骸化し、精神と感情が枯れてしまう。外発的動機がなければ内発的動機の「ムラ」に振り回されて、望ましい習慣付けや継続的活動を実現できないだろう。少なくとも私の場合はそうである(妖怪的な人は内発的動機のみで継続的活動をしていたりする)

 この2つの動機をバランス良く維持するにはどうしたらよいか?

 ひとつは今までの小論文でも度々登場した「メタ視点」を使うことだろう。つまり「2つの動機をバランス良く維持する」こと自体に対して、内発的動機を持つという方法である。

 しかし、そういったメタ的な内発的動機を抱えている自分も、実際のところはバランスがとれていない。例えば、この小論文を毎日提出したいと思いつつ、できないでいる。

 何が内発的動機で、何が外発的動機なのか、ということを確認することには意味があるかもしれない。小論文の投稿について考えると

(内発的動機)
・朝礼までの時間で、テキスト関係の作業を全て終わらせる習慣をつけたい
・自分の考えを客観視できる程度の文章にしたい
・文章がうまくなりたい
・新しい具体的行動を作り出す頻度を上げたい

(2020/08/02追記:なかそねさんのコメントにより、上記の分類「内発的動機」は本来は「それ自体を目的とする行為」であるとご指摘を受けました。まったくその通りで、ここでは「内在型外発的動機」と称したほうが妥当でした)

(外発的動機)
・毎日小論文を提出して、喜ばれたい・褒められたい
・新しい人や仕事とつながりたい
・小学生活動のバリエーションを維持したい

といったところか。

 そういえば、若干内発寄りになっているせいか「使えそうなアイデアがあるか」「納得のいく文章が書けそうか」という観点から、投稿を見送る日があることに気がついた。

 内容の質を問わないのであれば、極端な話、たった一文字何かを書いて投稿すれば良い。これなら毎日できるが虚しい。そこから自分を満足させる程度まで引き上げるコスト(資源)を、自分の生活(ビオトープ)から支払うかのかどうかが問題になる。

 その判断基準に、2種類の動機が関わってくる。意志と直観の強い人であれば、内発的動機だけでも後悔のない行動ができるだろう。自分の場合は、それでは心許ないので、外発的動機をもって、自らを律していく。

 この場合は、以前の「ブレスト」のように、最終的な形にならなければ途中経過としてでも提出するということを、ルールとして採用しておくことが良さそうだ。

 だから「うまくまとまらない」は投稿しない言い訳にはならない。小論文の体をなさないことが恥ずかしいのであれば、その回避をまた外発的動機として、次の文章づくりに取り組めばよい。

 ということで、今日は制限時間の中で、出来る限りの文章を作ってみた。ここからは実践として、どんなに悪文でもいいから、毎日投稿することを試してみようと思う。

 その結果、また滞りがあれば、喜んで、その「滞り」自体についての文章を作っていけば良い。と決めてしまえば、これは少しだけ気分が軽い。

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