社会にむかって蛮勇をふるう【でち映画2023/06/06「殺し屋ネルソン」】
そんなに言うなら
Audibleで蓮實重彦さんという人の「ショットとは何か」という本を聴いていると、「殺し屋ネルソン(Baby Face Nelson)」という映画を激推ししていて、今ではYoutubeでしか観られないというので、そんなに言うならと観てみた。
当初、主人公のダミ声が印象的だな〜と思っていたらリメイク版(↓)を観ていた(カラー映画な時点で気づけ!)こういうところが自分の間抜けなところである。
何言ってるか全然わからん
気を取り直して本編を観たところ、まずリメイク版では聞き取れた英語が、白黒版では聞き取ることができない!
おそらくウィットに富んでいるであろう彼らの会話を、ただちに理解できないことに自分で腹を立てる。会話の意味がわからないと、自然と構図や表現に意識が行くが、それは渋々のことで不自由極まりない。
微妙だったわ
とにかく観終わったぞ。ラストシーンは印象的だったものの、全体として、そこまで特別に良い作品と思うわけではなかった。
なんというか、ミッキー・ルーニーという俳優のキャラが立ちすぎていて(これ以上ないというくらいBaby Faceな人なのだけど)ネルソンという主人公を「どこか憎めないヤツ」というキャラデザインにしてしまっていることに…そ、それはどうなの?という感想を抱いてしまった。
リメイク版のネルソンは全然違うキャラデザだったのも、もしかしたらそういうことを問題にしていたのかもしれない?
激推しの意味とは
それよりも「ショットとは何か」で、蓮實さんが語っている上映当時のシチュエーション、彼が多感な時期に、期待せずに観た「殺し屋ネルソン」に度肝を抜かれたという個人的な体験。その中でたとえば、序盤の主人公とヒロインのキャロリン・ジョーンズとの短い逢瀬について、熱っぽく語ること、そのこと自体に、自分は興味をもってしまう。
その後も「ショットとは何か」を聴き進めていくにつれて、蓮實さんの他の作品についての語り口にも言えることだけど、ここにあるのはもしや「作品そのものの良し悪し」という問題ではないのではないか?という気持ちが強くなってきた。
個人と公共
作品について、感想を述べることは、前提として極めて個人的な視座から行われる。若き日の蓮實さんが打ち震えたのも、自分が40歳手前で自宅PCからYoutubeで雑に鑑賞してみて「そんなか?」と思った体験も、他の誰にも代替することのできない個人的な体験である。
で、そんな当たり前のことに、どうして気が向いているかというと、ことさらネット空間という「公共」において、作品の良し悪しをこのように述べることのエチケット性に疑問を抱いた。ということでもあるからだ。
言い過ぎだと(お互いに)分かっている
暴言といって差し支えないほど、蓮實さんの映画評は褒めるにしてもけなすにしても、主張の強い内容である。
それを鵜呑みにすることは難しいし、本人も「◯◯として知られている…といっても、そう主張しているのは世界で私だけですが」などと、明らかにツッコミ待ちみたいな発言を平気でやってのける。
つまりこここには「オレがそう思ったんだからそうなんだよ!」という理不尽な態度と、それを「まああんたがそう思ったんならそうなんだよな(あんたの中では)」と受け取めてみせる側の態度、さらにこれらを、何の了解もなしに暗黙に成立させること。が現れていると勝手に解釈できる。
最近あるよね
ある時代までは当たり前過ぎて誰も言うことのなかったものが、今、状況が変わってきて、改めて言わなければいけない。ということが起きていると感じる。炎上のリスクに怯えながらものを言わなければいけないと、誰もが思っている時、ゲームのルールが違う空間を想像するためには、そうではないものを糾弾するのとは違う態度が求められる。
こういうこともまた、映画の作品のように良し悪しが問題なのではない。現代のゲームのルールに違和感を覚えるということは、政治家がパーティで連帯感を出すために、リスクのある発言をして笑いを取ることと、さして変わらない世代感でもある。
いや、ここで「良し悪しではない」と言うのも卑怯だな!もっと正確に言おうとするならば、蓮實さんに代表されるような、いわゆる丁々発止の態度は単に「ソーシャルネットワークサービス向きではない」ということだ。
そして、SNSに向いていない世界はつねに、SNSの外に広大に広がっており、それを自らの倫理感に取り込もうとするSNSおよびインターネットの力とその担い手の力み(りきみ)も、然るべくして存在する。
ネルソンもそうじゃね?
さて、そうした蛮勇を、ドメスティックな関係に向けるのでなく、社会全体に向かって振るうこと、それを無謀なものにしない程度の知性・感性を備えること、それほど強靭なものを求めること、これは半ば暴走気味にパブリック・エネミーと化したBaby Face Nelson本人の態度に重なるものがあると言えまいか?
アル・カポネに歯向かって、デリンジャーと手を組んで、アメリカ全体を巻き込んで蛮勇の限りを尽くし、そして刹那的に死んでいった。そうした反社会的な態度は、SNS向きではないどころか、一周してヒールとしての魅力を帯びてくる。それがBaby Face Nelsonをモチーフにした作品がいくつもあることにあらわれているのかも知れない。
何いってんだってな
いや、冷静になると、映画のセリフも聞き取れやしないくせに、そこまで大風呂敷を広げるのは、実に恥ずかしいことだと分かっている。
それでいて「ショットとは何か」の後半で殺し屋ネルソンの話題が再び出てきた時、はじめてラストシーンの「2発の銃声」の意味に気づく(もちろん、別に蓮實さんはその意味について具体的に語ったりはしていない)程度の知性では、「公」に向かってものを言うことすらおこがましい。
そうした自らの至らなさに言及するような卑屈さも見せずに、堂々とおかしなことを言うこと。そしてそれを、まず受け止めること。言葉を字面通りに受け取らないで「いられる」ということ。伝わりゃしないことを、わかりっこないまま聴いていること。そんなことを今更言わなければわからないということ。
破滅のひかり
したがって、こうして窮屈に息苦しく縮こまってしまいがちな時代に、どうしていいか分からずに暴れだす時、しかしその暴挙や崩壊に、ある種の知性が備わっていると、破滅したまま輝くことができる。ということを、言い過ぎの映画評と、やりすぎの主人公から、俺は勝手に見出したのでした。おわり。
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