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なにかに一生懸命になることは、より大きな枠組みでの真剣さに相反する(前編)【おじさん小学生の譫言vol.26】

ので、やるなら自覚的にやらなきゃな〜という話。

他者から見えるものは痕跡である

何かにひたむきな人の姿に心打たれること。そこには主体性に関する一種の倒錯がある。

ある他者が艱難辛苦を乗り越えた姿、あるいは乗り越えようとする姿を、わたしが美しいと思う心、さらに自らもそのようでありたいと思う心は、同時に、わたしがそのように美しいもの自体にならんとする主体性を、いったん保留しなければ成立しない。

「憧れは理解から最も遠い」とはよく言ったもので

「そのようでありたい」と思う心は、厳密にはまず「そのように(見えるようで)ありたい」という心である。

そこから、どのような具体的な物理行動が必要であるかを逆算し、割り出したロードマップに向けて自分を矯正することが感情と現実に関する経験から、実現可能かどうかを評価することまでを含む場合もあるだろう。

主体的な内実がどのようであるかと、それがどのように他者から見えるのかが、明らかに違うことについては論を俟たないし、その差異が、誰の目に見えるように表現されるものでもない。

とはいえ、主体と客体の間に齟齬があること自体が問題なのではない。具体的な物理的新規行動だけが、わたしの生活世界を変容させる以上、新たな行動から得られる経験は有用になりうる。

問題は、「そのようでありたい」によって併発する2つの歪みである。というか…えーっと…

やっぱりこれも、しつこい言い回しになるのだけれど、歪んでいること自体が問題なのではなく、その歪みを個人や社会が無自覚に前提としてしまうことが、ありていに言えば「わたしの『うまくいかなさ』」を生み出す根源になるのだということを言いたい。

「本当に一生懸命なんだね!」

歪みの一つは「一生懸命さとは目に見えるものである」という崇拝である。まるでグラスから水が溢れるように、ある一定以上の一生懸命さやひたむきさがあれば、それは自然と周りの目に留まるものになるはずだ。という意味にもなる。

これだけで二重に歪んでいる。ある主体が発揮する真剣さ、ひたむきさは評価可能なものであり、また評価されるべきものである。という前提が、疑われないということがおかしい。

そして半歩先には「目に見えないのであれば一生懸命ではない」が待ち構えているし、「目に見え『さえすれば』一生懸命である」ということにも直ちにつながる。こういうことは小学生でも直観的にわかる(おじさん小学生が言うくらいなので信じてほしい)

投資家の立場なら合理的

いやしかし、何かが疑われないことがおかしいと言う以上、何かが疑われないことがおかしいわけではない可能性について疑わないのもおかしい。

「目に見える一生懸命さ」は歪んだ幻想である!などと言い捨てて終わることは、物事を考えることに一生懸命であるかどうか以前に、単に考えるのが下手だ。

「(少なくとも)目に見えるほどの一生懸命さ」というものを想定して、他者を評価した上で、具体的な物理行動を行う必要がある社会的な場面は多々ある。ということを書き添えなければフェアではないだろう。

それは他者に対して出資者として主体的に判断する時である。

自ら資する場面というのは、財産・金銭についてとは限らない。応援するという感情を抱いたり、その人のために時間を割くという行動もまた、広い意味での出資である。

やりたいのにできない

だから、一生懸命な人を応援したい!という人が「一生懸命に見える人が好き!」と言うことまでは、何の問題もないというか、歪んでいるからといって、その偏愛を糾弾するような権利は誰にもない。

それが「だからお前も(俺も)一生懸命頑張れ」になるとおかしい。

「客観的な評価」を主体的に行う立場から転じて、評価される側になろうとする時に、評価のための前提を援用してしまうと論理に無理が生じてしまう。

そのことが、感情と論理の相反を生み出して、いわゆる「やりたいのにできない」が発生する。

こんなにやりたいことがあるのに行動に移せないのはどうして?それは目の前の行動が、一生懸命であるという評価に即座に貢献しないならば行動するべきではない。という間違った前提に基づいた合理的判断のせいだ。

ということで歪みの一つは「(応援する側じゃなくて本人なのに)一生懸命さは目に見えるものだ」である。

もう一つは何か?というところで今日の譫言タイムは終了してしまったので、明日に続きます!


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