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ネオ中世に向けて、考えていること
(新しい記事投稿の仕組みを試しておるよ)
ポストSNSの季節にくわえる高楊枝
ここから先は、誰でも自由に出入りすることができない領域が、インターネットに広がっていく。完全に気の合う人とまではいかなくとも、他人を脅かしたり、極端に不快にしたりしない者同士だけで形成される、閉鎖的なコミュニティが乱立する。
乱立はいつの時代もしているけど、その乱立がさらに肯定され、人間関係の前提となる。だからmixiが復活する機運があるのかもしれず。
弾かれる条件
そこに参加できる条件は、集団によってそれぞれだけど、そこに参加できない人がどんな人かは分かる。
たとえば「閉鎖的なコミュニティに、参加できないことへの不満を顕にする人」だ。そのような人にも開かれたコミュニティもあるにはあるだろうが、そのような人の性質ゆえに、治安が維持されることを期待できない。
武士は食わねど
だからまず、満たされた個人として振る舞う。それは演技や詐称としてというよりは、自分に備わっているものに意識を向けて、既にある程度満たされているのだと気づくことで実現できる。
逆に自分の飢えにフォーカスしている限りは、それを一人で抱えたまま外側に発露せずに生きることになり、難しい。綺麗事ではなく実利において、そのようであると思われる。
寂しがることが悪なのではなく「私の寂しさの責任を取れ」と、喚くにしても睨みつけるにしても、そうやって他人に向かって要求する態度が悪なのだ…というのは言い過ぎで、それ自体はあんまり悪ではないけれど、そこに収奪や暴・権力の過剰という、悪の入り込む余地がはっきりとある。
何に向かって閉じるのか
ということを、閉鎖的なコミュニティを求め、あるいはすでに形成している人たちは、その動機レベルで理解している。こうしたことにまつわる客観性をもっていない人間、自らの有り様がいかなるメタメッセージになるのかを考慮し、行動に反映させることができない人間に対して、その集団は閉鎖されているのだった。
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