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でち日報2023/02/05

デカフェ明け

あんまり進捗は出せなかったが夜にデリダの読書会とウィトゲンシュタインの読書会をハシゴした。てか俺はなぜこんなに哲学に関する予定や本を必死に詰め込んでいるのだろう。でちお君を抱っこで寝かしつけながら直示表現についての議論を聞きつつ、ふと我に返る。

意味によって包含しきれない世界(非-意味の世界)では真剣に誇張抜きに死ぬ可能性がある。死がはびこる輪郭を持ち得ない無限の領域から、ときおり吹き付ける凍てつく風に刺されたり怯えたりしながら生存のためのエコノミーを労働する傍ら、単に把握できないだけで意味世界の内側ではあるらしい領域、これを意味不明の領域として、取り扱い方法を持たず取り扱うことはできる。

ということは「運」は意味世界の内外を貫通する点において「美」にまつわる性質を帯びていることにならないだろうか?それが何を「意味」するのかは全然なんにもわからんですが…

「でちさんは本を読む段階は終わっている」と複数人に言われており、言われたことを気にしながら結局本を読んでいる。

「お前読書向いてないぞ」ということの婉曲表現なら(同意するし)まだいいとして、それでもし本当に何らかの機会損失が起きているのだとしたら、ちょっと嫌だなと思う。

一方で、他人に対話的に関わることが、他人にカレーメシを贈る以上に良いことなのかは疑わしい。本を読んで、贈与して、それくらいが身の丈に合った対外コミュニケーションの経路なのではないか?と思う。

言うてカフェインで気分が高揚すれば余計なことをし始めるので、どうせ丁度いいのではなかろうか。もちろん自分からではなく、相手から指名された場合においては、喜んで時間を割いているし。

わからん。とにかく散漫としている。考えても仕方のないことと、考えるだけで結果に天地の差が開くこととが併存していて、それらを見分けようとしているうちに一日が終わっている。

これは幸福なことかもしれない。

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