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歪んだ世界を言語化で歪み返して相殺する【おじさん小学生の譫言vol.25】

「わたし」の感覚のかたちに歪んだ世界に、別の間違い方を衝突させて補正すること

しなくてもいい言語化をする意味

自分の作品がダメで、しかしどこがどうダメなのか(どう直せばいいのか)分からないという友人の話を聞いて、申し訳ないとは思いつつも、これは面白い問題だなと感じてしまった。

このバズツイを思い出した。こんな風に、何かに必要な技術や知識は、必ずしも言語化されなければいけないわけではない。

その上で、言語化するということは一体何を我々にもたらすのか?ということを考えた結果、その主な役割は「歪み返す」ことなのではないか?と思った。

科学は間違ったまま有用である

というのも、たまたま自分の興味のある本に「西洋科学が根本としていた態度への批判」みたいなものが多くて、

「科学的」なるものが前提としている客観性や限定的な条件は(今日においても)宗教のごとく絶対視されているけど、それっておかしいよね?という話に触れる機会が多いからかもしれない。

しかし、その「間違った」科学的態度によって、近代以降あらゆる産業がメチャクチャに、それはもう人類の生存を脅かすほどに、発展したということも事実である。

だから科学的な態度というものが、厳密には正確でも絶対的でもないということは、当然批判されるべきではあるが、だからといって役に立たないどころか、むしろ、その不正確さをもって人類に貢献したのではないか?ということを考えている。

論理も間違ったまま有用である

「科学的」なものと同じ効用を持つものに「論理的」なものがある。

両者は重なる部分もあるのだけど、どちらも個人の感覚を離れて、別なものを基準に操作していく性質のものである。

その時採用される、別な基準も、やはり正確なものではない。論理が取りこぼすものはいくらでもあるし、語りえぬものについては沈黙しなければいけなかったりもする。

しかし、物心ついた頃から唯一の手がかりにしていた「わたし」の感覚の歪みを相対化するためにならば、十分機能する場面がある。

「わたし」と別の基準をもつこと

「わたし」の感覚や性質がもたらす、ものごとに対する部分的な誇張や軽視は、自覚しただけで霧散するものではない。しかし、その特徴を客観的に評価することで、歪んでいること・狂っていることの悪影響を最小化することは可能である。

「私は疑心暗鬼に陥りがちな人間なので、今私が『絶対に相手に嫌われている』という感覚に苛まれていること自体は事実だが、同時にその感覚が、相手との関係性を正確に言い当てていると断定する判断材料は十分ではない」

よくある

たとえばこのように述べることを可能にするものは論理である。つまりメタ認知とは、「わたし」の感覚を離れるために他なる基準を採用することなのかもしれない。

絶対王政の廃止

論理でも科学でも、他人の意見でもなんでもいいので、「わたし」の感覚ではない基準を採用するということは、それまで絶対的だったり、最も重要視されていた「わたし」の感覚を玉座から引きずり下ろすことでもある。

そこに侮辱や苦痛を感じることはある。「わたし」の感覚を否定することが、「わたし」を否定することとどう違うのか?ということも論理の領域に属するからだ。

しかし、その感覚こそが「わたし」に圧政を強いて苦しめる暴君であるならば、いったん退陣していただくのも一つの手である。

もちろん、「わたし」の感覚は完全に消し去ることもできないし、その感覚でしか分からないものもある。あと論理に比べて圧倒的に速い。

だからそれぞれの基準の短所を補い合うことができる。一人でできなければ、感覚と論理の分業は、個人と個人の分業をもって代替することも可能だろう。

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