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おじさん小学生の読書メモ33回目

図書館に借りた本を全て返したので、家の本を読んでいく。

「儀式論」にちょうど個人的な興味についてのヒントが書いてあった。最近考えていたのは「メタ認知ができない人は、それをどうやって獲得するのか?」ということだった。

メタ認知、自分が他者からどのように映っているのか。そういった感覚は、おそらく訓練によって獲得できるが、本人がメタ認知を、重要で必要なものだと思わなければ獲得することはできないだろう。という話を昨日まで友人たちとしていたところだった。

そこに「儀式論」で引用されていたエリアーデの文章が目に留まる。ここでメタ認知の有無と呼んでいたものを、認識領域における「大人」と「子供」の差であるとし、その二つを分つものが、ある種の儀式(イニシエーション)であるとしたら?

認知上の死と再生を繰り返す、あるいはそれを繰り返し訓練することによって、外なる領域へ認知を拡張すること、それが成人として成員に参加することの条件になるならば、メタ認知を獲得しないまま社会的に青年を過ぎた個体は、その良し悪しを抜きにして、まず幼形成熟(ネオテニー)であると言えるのではないか?

儀式と、それをパッケージした儀礼が確立した社会というのは、それだけ安定した社会である。そこに伝染病やら何やらの異常事態が発生し、結果的に儀礼によるイニシエーションを経由できなかった幼形成熟個体が増加し、能力を犠牲にして可塑性を優先することで、前例のない環境に適応しようとすることは、何か理にかなっているような気もする。

そしてもう一つの興味は、望ましい分野の活動を「脳死麻雀」にする方法だ。

結論から言うと、それは「儀式」を作るということであるかもしれない。

というか、色々と順序が逆で、まず、私たちが遊戯的なるもの(麻雀・ビデオゲーム)に夢中になるのが、そもそもなぜなのか?という話になる。

一つの理由は、何事かへの熱中を通じて、私たちは「集中化した時間」に突入できるということだろう。

生活世界に流れている直線的な時間を離れ、忘我状態に陥るとき、そこには個人的な因果関係を消失した、古代と現代を区別すらしない、典型と構造が支配する神話的な時空が発生する。

…というのはちょっと言い過ぎだけど、もしこの表現が脳死麻雀の何らかの要素をとらえているのであれば、その時空を意図的に、望ましい活動において発生させることを目的とすることが可能なのではないか?

そして、それを可能にする装置が、反復を前提にした特定のフォーマットを備えた、ある種の儀礼なのではなかろうか?

そしてその観点から、自分がやっていることの儀式性、反復を前提としたフォーマットの固定について見直すことで、神話的時空へのアクセスを、巧妙にお膳立てされた驚異的発明であるところの遊戯を経由してではなく、個体としての偶発的有限性に基づいて形成された個人的な興味の拡張と増幅によって実現させることができるのではないか?

というか、そういうことが社会において、既に別の名前で設計・実現されてきたのではないか?

お察しの通り、デカフェ明けに半額だったエナドリを飲んでいるので、相当ラリっているが、この感覚を一過性のものにせず、支離滅裂でもいいからここに形として残すこと、ゴミを出しておくことが、後で何かの役に立つかもしれない。と思って書き記した次第です。

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