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ゼロコスト:承認欲求の裏にあるサンクコスト感を消すための自己完結性【おじさん小学生の譫言vol.33】

あ〜なるほど、これか〜となった。

報われて当然という感覚

ちょっと事情があって、普段とは違う描き方の絵を描いて投稿したので、ものすごく時間がかかった。

その後半でヒイヒイ言いながら、「ここまでしたんだから多少バズるやろ。というかバズらないとつらい」という感覚に陥った(実際、自分基準ではリアクションが悪くなかったのでホッとした)

これが世に言う承認欲求だとしたら、その裏にあるものは何だろうか?

承認欲求ではなく、不承認回避欲求

普段から何がしかを(こうして)投稿するたびに、同じような感覚になるわけではない。

そこには「これだけやったのに」が無いし、「頼まれてやったのに」も無い。この「〜のに」があると、承認と自分でみなせるだけのものが発生しないことで、身をしめつけるような苦しみが生じてしまう。

これを承認を求めようとする欲求というより、とにかく不承認を避けたい欲求と表現したほうがいいと思った。承認されてハッピーになるのではなく、「そりゃそうよ(こんだけ頑張ったんだから)」と安堵することを目指している。

既に満たされてから顕現する

もちろん、こうして他者からの「承認」を想定することは、普段とは違う力の入れ方をするときに効果を発揮する。

ただし、それを常とすれば、ただちに病む。やる気の前借りに利子がつくのは、こうした想定もカフェインも同じ仕組みなのだろう。

その上で、ではどうしたら無借金経営ができるか?と考えた時に、まず他者からの承認を必要としない形で活動することが求められる。

その裏には「これだけやったんだから」感、いわゆるサンクコスト感が発生しないという条件がある。というのが今回の発見・言語化だった。

自然と「見返りを求めない贈与」の型になる

それで思い出したのが、贈与論についての考察である。生活の中で贈与を実践する時に「やってあげた感」を抱いたり、または相手に感じ取られたりしてしまうと、その時点で受け手は、申し訳なさという負い目を精算できてしまう。

あるいはオートポイエーシスと呼ばれる、なんだかよくわからないが生命を基礎づけるらしいやつも連想できる。

つまり、はじめに活動の継続ありきで、成果は副産物(廃棄物)として排出されなければ本来ではない。ということだ。

贈与にしろ、承認欲求にしろ、なにかもっと根本的な構造に基づいて、生活の中に現れた一つの具体例である、という気がしてならない。

仕組みが分かった上で崩す!

さて、人間の強みとは、セオリーの構造を理解した上であれば、それを意図的に破壊することができる点だ。

無借金経営が理想だが、あえて率先して借金による設備投資を繰り返すことで、拡大していく企業もある。

当然そのための利子を払うことにも不満はない(高すぎるという不満はありえる)。構造を理解し納得していれば、それも必要なものだとわかる。

では生活における「借金」が承認ドリブンであるならば、その「利子」は何か?

それは「サボり」だと思う。無理のある動きをした以上は、反動を引き受けて何もできない時間が発生することを、認めなくてはいけない。

つまり、構造を理解して「利子」による負け試合の存在を受け入れることであり、これは生活における完璧主義と相反する。

完結しているのか?それとも借金しているのか?

ということで、自分が今どういった戦略を採用しているのか?が分かっていなければ、たとえば無理をしつづけて多重債務に苦しみ「やりたいことも満足にできない…」という事態に陥ることは明白である(陥ってました)

逆に完結「しすぎた」生活というのは、暇を持て余し、何をしたらいいか分からない生活という姿で現れるのかもしれない。

もしそういう暇な人がいたら、負荷を自分で選んで波を作り出すことは一つの手段だろう(「どこに負荷をかけるべきかが分かれば苦労しない」と言われるかもしれないけど…)


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