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許容できる・できないの差はどこから?【おじさん小学生の譫言vol.35】

昨日観た映画、つまらなかったんだけど「観てよかった」と思えたんだよな

ひさびさに映画鑑賞した

年間10本くらいしか観ない人間なので大したことは言えないが、最近やっと、つまらない映画を楽しめるようになってきた。

つまらないというか、自分に合わない映画というものがある。全ての映画がわたしのために作られたものでない以上、それは当然のことなのだけど

かつては、それで2時間前後ロスすることに憤っていた。その憤りが、映画を観ること自体を避けていた原因の一つかもしれない。

ということは、今どうして、つまらない映画を観ることを許せるようになったのだろう?

映画に期待する心がなくなった?ならば余計に観なくなるのでは?

映画に対する期待

おそらく、映画に期待するものが、「無くなった」のではなくて「変わった」のだと思う。

対価(時間と気力)にふさわしい興奮や感動を求めるのではなくて、映画そのものに対して、こうやって何事かを思うことができれば十分だ。

そういう姿勢になったのであれば、今の心境は説明がつく。

つまらないと気に食わないもの

理由はともあれ、映画について選り好みをしなくなったのだとしたら、他のものについてはどうだろう?

読書やビデオゲームは、既に大体そんな感じである。そもそもコンテンツにそこまでお金と時間をかけていないし、費用対効果を悪くするのはいつでも自分である(積d…ウッ頭が)その上で、食指が動けばそれに従う。

だから「つまらないと気に食わない」ものが自分にあるとしたら、それは何だろう?

と考えると真っ先に思いつくものがある。

他人だ。

なぜ他人を映画のように楽しめない?

自分が最も選り好みするものは、他人である。これだけ聞くとものすごく人聞きが悪いけれど、実際そうなので仕方がない。

他人との関わりに対して、極端に潔癖であると言える。一人受け付けない人がいれば、コミュニティそのものから離脱することも少なくない。

すると、どうして、合わない映画は楽しめて、合わない他人は楽しめないのか?ということが気になってくる。

費用対効果だけか?

映画を楽しみ切れていなかった時期のことを考えると、「他人に対してコストに見合ったものを期待しているのでは?」という仮説を立てることはできる。

しかし、コンテンツ同様に、他人との関わりに、そこまでコストをかけていると言えるだろうか?そんなに丁寧な暮らしをしているか?

そもそも、「見返りを求める」という観点での人付き合いが嫌で、今みたいな潔癖な姿勢になっていった経緯がなかったか?

あるいは、受け付けない他者でない限りは、喜んでこちらからコストを支払ってしまうのではないか?

となれば、別の理由がある。

向こうからくるかどうか?

一つは、対象からこちらに働きかけてくるか?という点かもしれない。

たしかに最新の映画だと積極的な宣伝広告などがあって、そういうものは一向に観る気にならない。旬を過ぎて、誰も話題にしないものしか観ないのだった。

他人は、不意に私へ働きかけてくる。自分に合った他人ならば、これほど嬉しいことはない。自分に合っていない他人ならば、これほど苦痛なことはない。

終わるか、終わらせるか

もう一つは時間に制限があるかどうかだろう。映画は完結するが、人間関係は続く。

だから人間関係は「自分で終わらせる映画」であるとも言える。ずっと観ていたい映画と、ただちに席を立ちたい映画があるというだけだ。なるほど。

数時間で終わるなら、不快にも楽しむ余地がある。

人間関係が「終わらない」と言っても、実際には断続的に意識に上ってくる状態を「終わらない」と表現しているので、実際に問題になるものは「意図しない反復と再現」といったところだろう。

最も強い刺激に毒されたくもない

とはいえ、他人への嫌悪の念ほど強い興奮もない。人を嫌いになって、その分、その人のことが気になり続けてしまうという現象は、刺激を求める人間の生理には適っているが、社会的な道理には反している。

そういった、それこそ「つまらない」刺激で満たされようとするくらいなら、その分の時間と気力で映画を観て、こんなふうに色々と思いに耽る方が自分に合っている気もしてきた。

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