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ライフハックとしての寂滅為楽、あるいは興奮の再デザイン【おじさん小学生の譫言vol.23】

東洋医学の人間分類のひとつに「滞(パワー有り余りがち民)」と「虚(パワー枯渇しがち民)」というのがあって、今回は「虚」の人向けの話です。

何に疲れているのか?

平日は音楽を聴きながらカフェインを摂って作業していると、だいたい夕方くらいにやる気が終わる。というか、強烈な「やらない気」みたいなものが充満してきて、あとはもうビデオゲームしかできない。

でもビデオゲームはそこから8時間以上できる。この違いは何か?

ビデオゲームはいわゆる脳死状態でできるから?しかし作業もまた必ずしも、ものを考え続けなければいけないものではない。表示と反応を繰り返すという点でいえば、別の時代の人から見て区別できるものではない。

できるかな?じゃなくてやるんだよ

ビデオゲームと作業(あるいは生活)の大きな違いは、「それをやるかどうか」を判断する必要があるかどうかである。

今こんな人に頼まれもしないテキストを作ってていいんだろうか?他の頼まれている作業を優先したほうがいいのでは?相手の連絡待ちになる種類のタスクを早い時間に済ませておけばいいのでは?

ビデオゲームはその判断を必要としない。やるのでやる。続いているのでやる。終わったのでまたやる。

このように、意識のある階層において「たたかう」一択でいられること自体がビデオゲームの快楽の一つなのかもしれない。生活で「やる」一択をやると不測の事態に対応できない。

だけど、不測の事態が起きない限りにおいては、「やる」一択であることは可能ではないか?では現時点では「やる」以外にどんな選択があるのか?

生活はカーソル操作が一番負担なビデオゲーム

まず「やらない」がある。それから「別なことをやる」がある。

「別なことをやる」を選ぶと、さらに別のウィンドウが開いて、そこから「やる」別なことを選ぶ。

しかし、選んだだけでは「やる」には至らない。そこからまた最初の選択画面に戻って「やる」とそれ以外の選択肢を選ぶことになる。

目の前のことに集中できていない状態というのは、この選択画面を延々と回っている状態に近い。多少別の細々としたことを「やる」ことで、なんとなく何かをやった気分になれるのは、この選択画面の操作による。

しかし、その選択には、実は作業そのものをやること自体と同等かそれ以上の負担が生じているのではないか?その証拠に、やるかどうかの選択の必要がないこと(ビデオゲームに限らず)の快楽は、やらなければいけないことが堆く積み重なっている時にこそ最大化する。

ならば、作業をゲーム化するというのは?それも得点制にするとか報酬があるとか、音と光で賑やかにするという意味ではなく、「やる」かどうかについて(社会生活と生存を脅かす不測の事態がない限りにおいて)一切の選択をしない。ということは可能か?

ではやってみましょう

ということで、この文章を書いている。いつもより時間がかかっているが、脱線せず、他の作業を先に済ませることもせず、ブレストを繰り返したのち本文の作成に入った。

その時、快楽はあるか?と問われると…快楽と言われてすぐにイメージできるような刺激と興奮は無い。

代わりに、そういったものが無いということの快さがある。当初の予定から逸脱する罪悪感と自尊心の磨耗、他人や社会に関する出来事に感じる不快、今ここで使い道のないアイデアの奔流…

いずれも色とりどりの刺激と興奮だったことが分かり、それが脳の中の何か有限なものを著しく消耗していたということに気づく。

幽かな庭

それは瞑想的な態度の過程なのかもしれない。文章を作ること、絵を描くこと、ゲームをプレイすること、どれも脳の機能を酷使しているものの、問題となる負荷はそこではなく、むしろ何事かを「やる」かどうかの選択に生じているのだとしたら?

それを踏まえたライフハック術も現実に存在する。GTDしかりTaskchuteしかり、そこには「やる」かどうかを判断しない(あるいは判断を集約し、それ以外の時間は判断しない)という思想がある。

「やる」のではなく「ある」。「作業」があるのではなく、「作業する私」がある。その枠組みの中で感情と思考が生まれることがあっても、そのこと自体に感情と思考を発生させ続けながら、さらに枠組みの中で動こうとするのは過酷であると理解できる。

目指すべきは寂滅為楽と呼ばれるものに近い境地かもしれない。そこから先に、自分が何に興奮するかを主体的に選ぶということがあり、そうしてようやく、この脳の中にある何か有限なものの浪費を抑えることができるのではないか?

みたいなことを考えて、文章にできたということの、この冥い喜びは、確かに他人の愚かさに眉を顰めてみたり、社会の理不尽さを誰かと慰め合うことの激しい興奮を前にすると霞んでしまうかもしれない。

しかし、「わたし」自身が霞なら?霞のように、弱さと不確かさで象られた一種の領域、幽かな庭の残像のようなものだったならば?

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