見出し画像

でち日報2023/03/06

4日に根詰めて作業した分、昨日今日の確定申告作業はゆるゆるだった。懸案も無事通過したので、心的負担もだいぶ軽くなった。寝る時心臓がキュッとしている感じになっているのでコーヒーを断つ。

ストレングスファインダーの安いやつをやったら、結果は以下の通り

1.着想
2.戦略性
3.内省
4.適応性
5.収集心

なるほどなと思えた。適応性以外は全て頭の中のことだった。収集し内省することで着想し、戦略によって適応する。そういう人生だった。

一方で、実行力に関わる項目がない。机上の空論で終わることがほとんどで、いかに実体を持たないまま展開していけるかが、大きな課題となっていた。というか、そっちに逃げていた。

他の一部の友人たちのように、武術や舞踏という身体性に接続されないのは、快楽のピークが着想にあるからかもしれない。

哲学は人格に影響するか?という話題を見かけた。もっと汎く言えば、抽象的思考を養うことは人間にどのような影響を及ぼすか?ということだと思う。

言葉遊びの域を出ないかもしれないけれど、おそらく性格そのものは変わらない。抽象的思考による多角的な判断は、同じ性格の人の「行動」を変える。これを人格で言うなら社会性、社会的人格への影響があるとも言える。というあたりが、落としどころなのではないか。

抽象的なことがそもそも好きな人間として、体を動かしてチームワークに与したい人がスポーツを選ぶように、俺は人文にふれることを選ぶ。それを他人に強要することもしたくない。他人が人文をどのように取り扱うかについても、あまり興味はわかない。

抽象的な思考に関わると、当然ある段階で、語ることによって毀損されるものの存在を想定する場面が生じる。ウィトゲンシュタインが言う「語り得ないもの」のレベルよりもっと卑俗的な、それを言っちゃあおしめえよ。という類いのものがある。

あるいは、その話題に自分が参加することが、その話題と自分とを毀損することが明確である、というようなもの。それらに対しては、まるで自分が透明になって存在していないように、言及しないということを、その見かけとは裏腹に、かなり確固たる意思をもって選ぶ。

怒りと憎しみに満ちた空間に「投票」したくない。余裕がないとか、興味がないとか、そういった態度とはまた違った、一切の不言及についての動機というものがある。その気配(気配のない気配)を、周囲の星の軌道だけから暗黒星の存在を算出するように、過不足なく推定すること。これを抽象的思考は当然に要求する。

収集し、内省し、着想を得て、戦略的に適応する。しかし環境に働きかけたり、リーダーシップを発揮することはない。いや、まったく無くはないけれど、そのような現世での振る舞いは抽象的思考そのものの快楽に隷従する。

では個人的な快楽の頂点である粗雑な空論を、どのような回路で(戦略で)社会環境における客観的な価値創出に接続出来るか?その過程でどれだけ、脳内で完結しない要素(コミュニケーションや訓練)を除外できるか?

その手がかりを収集して、内省によって組み替える。生まれたチープな異形を愛でる。回路に組み込んで外世界に走らせてデバッグする。その時採用される論理やルールには再現性がなく、他人に読み取りやすく翻訳されたものではありえない(たとえばこうした日報のように)

デッキの骨子が見えた。間違っていても何らかの様式が想定されれば良い。行動の中で前提が増えることは省力化につながる。省力化されると試行回数を増やせる。

カフェインに頼らずに、弱火でそのデッキを回していくことを日常にしたい。疎かにしがちな身体性に対して、まずは負担を減らしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?