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おじさん小学生の読書メモ23回目

遅く起きたが、当初の予定通り読書からルーチンを始めた。読書メモを投稿できそうな感じになるまで読む。

哲学を存在論から価値(倫理)論に転換させようとしたレヴィナス

どうやらそういうことらしい。他なるものとの関わり合いについて「享受」と「労働」、「所有」という言葉を使って語っている。「道具」におけるハイデガーとの対比、昨日のエレメントと合わせて簡単な図示ができそうな気がしつつ、もうちょっとちゃんと理解してからのほうがいいような気もする。

所有・労働、そして価値論となれば、やっぱりマルクスをかじっておいてよかったというか、かじった程度じゃどうにもならんという感じもある。

自分の興味のある分野において、誰がキーになるのか?という問いについては、多分贈与論やらマルクスやらを横断的に論じているゴドリエなんだろうな〜と思う。帯広図書館にはゴドリエがマルクスについて書いた本があり、一回借りたけどあんまりよくわからなかったのが、今ならもうちょっと読めるような気がする。

普段遣いしたい古語

昨日の作業通話でちょっと話題に出たので、また万葉集鑑賞事典を読んでいる。「なにしかも、もとなとぶらふ」という表現があり、これは普段から使いたいなと思った。意味は「なんだってそんな、無闇に訊いてくるんですか?!」である。逆ギレしている。

何年か前に見たニュースで、市の除雪が行き届いていないことに怒っている住民(年配の女性)が「憤懣(ふんまん)やる方なしですね」と言っていたことに感動した記憶がある。

ウィトゲンシュタインちょっと読む

ウィトゲンシュタインはかなり早い段階から、論理定項は存在不可能であるということに勘づいていたようだ。それは論理自体を規定するものは論理外になるというアイデアに集約されて、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という有名な言葉になるんだけど、その勘所の鋭さというのはクールだなと思った。

本を読みながら思ったこと

本を読みながら別のことを考えてしまう。毎回その霧を払い除けながら活字を追うのだけど、今日はその脱線も読書そのものにまつわるものだったので、ここに記録しておく。

ある人が、本をよく読み、その内容を理解して文章にしていた。が、その内容は支離滅裂で、言葉の意味も印象と感情のために隷従されているにすぎず、さらに同じ文章の中でも変化するために、他人に伝わるものがなく、伝わったとしてもそれは一時的な印象と感情に過ぎないことが予想された。

翻って、それは自分の読書と読書メモと何が違うのだろうか?自分が理解したと思い込んでいること、何かを感じ取ったということが、他人(未来の自分を含め)にとって何らかの意味や効果をもたらすのだろうか?

Evrenoteというツールの整理をしていて、数年前に自分が書いた文章を読むと、暗澹たる気持ちになることがある。当時は何かの天啓を受けたような印象・感情を抱いていたことが、うわずった文面から読み取れる。しかしその内容は、本当に取るに足らない、くだらない、かといって読んで気持ちの良いものではない。

それを一生やることになるのだとしたら、先の支離滅裂な人と自分に何の違いがあるのだろうか?何も違わなくても良いと思えるなら、それはどうしてか?そこに客観的な論理はあるのか?あるいは他者のまなざしに耐えうるだけの整合性があるのだろうか?

そういうことを、詳に解説できない時点で推して知るべしである。ただここにあるのは一種の「模様」であり、そこに何かを見出すことができるかどうかは他なるものの眼差しの中にある。と言えば聞こえがいいのかもしれないが、本当に無責任で投げやりな態度だけがそこにある。

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