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2020年10月26日の乾杯

今回は先日偶然二人が同じ回を観た木ノ下歌舞伎『摂州合邦辻』について、それはもうたっぷりと語り合いました。

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👨では今日も始めますね。演劇のおじさんと
👩お姉さんです。
👨えーと乾杯します?
👩そうですね、乾杯しましょう。
👨今日はSMIRNOFFのアップルがあるので。そちらは前から呑んでいませんでした?もしかして。
👩あ、一杯だけ呑んでましたね。あはは。
👨2杯目はなにを。
👩ビールです。
👨なるほど。では乾杯!
👩乾杯。
👨今日は、前回に続いてお芝居の感想を中心にということで。
👩そうですね。
👨今回の舞台は「木ノ下歌舞伎」あうるすぽっとで10月22日から26日まで上演していたものですね。
👩ロームシアター京都レパートリー作品「糸井版摂州合邦辻」を観てきました。
👨はい。私は、実は去年も観ていまして。去年は豊橋で観たのですけれどね。
👩今回は前回と比べると、25分くらい長くなっていると。
👨うん、そのくらい長くなっているかも。
👩増えていると。新曲の書き下ろしもあってということだったのですけれど。どう感じでした?全然違いました?前回と。
👨ラストのところもちょっと違っていたし・・・。休憩の後のシーンの印象もしっかりと厚くなっていたような感じがします。
👩ふんふん。なるほど、なるほど。全体的な雰囲気みたいなものは変わらないんですか?
👨まあ、もともと歌舞伎のコアがあるから、全体的なものがそんなにむちゃくちゃ変わっているわけではないけど、ただ、わかりやすくはなっている、とても。
👩凄く雰囲気の作品だった、ですね。私が観て、こう、なんていうんだろう、なにせちょっと長かったのでね、自分が覚えているところっていうのが、その、それぞれの思い出せる場所というか、記憶の部分というか、印象に残っているところは、たぶん人それぞれに全然違ったものになるとはおもうのですけれど。
👨あぁ、はいはい。
👩とてもこう、なんだろうなぁー。繊細なものだなと思って観ることができたので。組み合わさって、組み合わさって、繊細に組み上がったものだなぁと。そこに加筆されていたり新曲が入ることで、雰囲気が全然変わるのではないかと思ったのですよ。
👨なるほど。
👩そもそもの作品の力っていうのも。元々、作品が作られていたのは去年ですよね、それもきっと物凄い力があったのだろうから。揺らぐものではなかったのかもしれないですね。ということは・・・凄いなぁ。
👨去年豊橋で観た時って、たとえばちょうどあそこの、四天王寺の門前のシーンがあるじゃないですか。門前で弟に絡まれて、それが合邦に助けられて車を引いてきて逃げていくところ。その部分とかでもなんかきれいに流れるようになっていた気がする。前の時にはそこのところで物語がちょっとわかりにくくなったような気がしたのだけれど、今回はすっと流れて。まあ、私がその部分の顛末を知っていたからかもしれないけれど、もたつきは全く感じられなかったので・・。
👩観比べてみたいとおもいました。正直。どこがなくても、いかんと、思ったので。
👨なるほど。
👩曲は? 曲がね、要所要所に、随所随所に、長めの曲があって。そこが動きだとか、登場人物の心情だったり過去の気持ちだったりとかいうのを表していたりするのですけれど、その一曲一曲がとても長いんですよ。長目に作られているんですよ。長いとは感じないんですけれど、
👨はい、がっつりですよね。
👩がっつり、楽しめるんですけれど。で、その曲も増えていると言うことでしたが、どの曲が増えていたんですか?
👨ああぁ、私も正確にはそこはよく分からないのですけれど、でも、たとえば休憩が終わって最初の曲は前回観た時にそんなにガッツリではなかったような気がする。
👩なるほど、主人公の俊徳丸の・・あれ、あっていますか?
👨ほら、後半っておばあさんの編み物のシーンから始まったじゃないですか。
👩そうでした、そうでした。
👨編み物のシーン、私もちゃんとした記憶がなくて申し訳ないのですけれど、あったことはあったのだけれど、あんな感じだったかなぁっていう、
👩でも、新曲が増えているので。一曲増えているはずなのですよ。
👨ああ、
👩新曲書き下ろしってなっているのでおそらく増えているのでしょう。でもそれが凄く馴染んでいたからどうだったかなぁって。しかも一年前ですからねぇ。
👨コロナで記憶もそれなりにふっとんじゃいましたからねぇ。
👩ざっくり、私あらすじを読みますね。
👨あ、はい。
👩振り返りも兼ねて。

ロームシアターHPからの引用


摂州合邦辻

大名・高安家の跡取りである俊徳丸は、才能と容姿に恵まれたがゆえに異母兄弟の次郎丸から疎まれ、継母の玉手御前からは許されぬ恋慕の情を寄せられていた。そんな折、彼は業病にかかり、家督相続の権利と愛しい許嫁・浅香姫を捨て、突然失踪してしまう。しばらくして、大坂・四天王寺に、変わり果てた俊徳の姿があった。彼は社会の底辺で生きる人々の助けを得ながら、身分と名を隠して浮浪者同然の暮らしをしていたのだ。そこに現れる、浅香、次郎丸、玉手と深い因縁を持つ合邦道心。さらに、誰にも明かせない秘密を抱えたまま消えた玉手が再び姿を見せた時、物語は予想もしない結末へと突き進む。
(引用部分に問題があるようでしたらお知らせください)

👩そうなんですよね。言ってしまえばもうこれなんですよね。
👨そういう話なのですけれどね。
👩このあらすじどおりなんですよ。あはは、でもそこに、こう・・。偶然同じ日に観に行っていたので、終わった後にお話もさせていただいたのですがよね。
👨最初の感想の部分だけとっているのですよ。全部ではないけれど、一部だけ採れていますね、
👩そもそもこの作品を観たときに・・・そういえば私、木ノ下歌舞伎さん初めてみたんですよ。
👨ああ、そうなのでしたっけ。
👩そうなんです、観たことなかったんですよ。
👨ええ。
👩なんか噂にはずっと聞いていて、観たいなぁと思っていたので。で観て、これは今の時代の歌舞伎だって思いました。その、なんだろ、昔の歌舞伎って言うのは今の歌舞伎とは観ている人の感覚がきっと違っているじゃないですか。
👨はい。
👩歌舞伎が生まれた頃だったりとか・・・こう、過去ですよね、あの歌舞伎の会話が普通にわかる方々が観ていたわけじゃないですか。
👨はい。
👩それが文化になって。今の歌舞伎もすばらしいのですけれど、歌舞伎好きですから観にいくんですけれど、ただ、昔の歌舞伎は、そのなんだろ、誰が観てもわかるエンタメとしてのものではちょっとないのかなと思ってしまう。エンタメですけれど!今の歌舞伎。いろんなものがありますし、誰が観てもおもしろいというものも作られていますしね。歌舞伎の世界、歌舞伎役者の方々も、あの世界の方々も芸術に関して頭の柔らかい方々もいらっしゃる、で、歌舞伎で何ができるのかというか、その伝統を受け継ぎながら新しいものをというのは挑戦していらっしゃるじゃないですか。
👨はい。
👩ただこれは、それとはまた違うアプローチなのかなと。新しく文化を生もうとしていらっしゃるのだろうなというか、そう見えました。
👨木ノ下歌舞伎って、これは割と有名な話なんですけれど、作るときに役者の人たちはみんな、その歌舞伎自身があるじゃないですか。歌舞伎として上演するものってあるじゃないですか。あれを映像とかで観て所作まで含めて全部完コピしていたらしいのですよ。
👩ふあー
👨その、台詞回しからなにからね。
👩うんうん。
👨それを結局どこまで今に解き放つかみたいなのは演出家によって、杉原邦夫さんがやっているやり方とか糸井幸ノ介さんがやっているやり方っていうのはまた違ったりもする。たとえば木ノ下歌舞伎のレパートリーに杉原邦夫さんが演出した「勧進帳」っていうのがあって、その「勧進帳」なんかは表層が本当に物凄くパンクなのですけれど。本当にパンクに尖らせデフォルメしてもいるのですけれど、その深さが尖り方に変わってがっつり歌舞伎なのですよ、そこのところにあるスピリットは歌舞伎そのままに感じるのですよね。だけど、今回のやつっていうのは、スピリット自体は昔からのものなのだけれど、それをわかりやすいようにいろんなものをこう、尖りではなく現代風な色づけとして編み込んで多く取り込んでいる作品だとは思うんですよね。
👩うん。
👨その作品によって、また演出家によって同じ木ノ下歌舞伎でもいろんなテイストがある。
👩観たいですね、ほかのもすごく観たい。
👨糸井さんの演出ということで言えば、心中ものをこの前に1本やっているんですよ。
👩ほお
👨近松門左衛門の『心中天の網島』、でそれは、糸井さんの劇団であるFUKAIPRODUCE羽衣に日高啓介さんというすごく良い役者さんがいて、初演はロロの島田桃子さんと道行きをして。今回のお父さん役の武谷公雄さん、お母さん役だった西田夏奈子さんなんかも、あと、伊東沙保さんなども出ていらっしゃって、いわゆる木ノ下歌舞伎ファミリーみたいな方もまわりを固めて。で、それも、やっぱり最後の道行きのところは糸井さんの心に響く音楽に合わせてすごく美しいシーン、残酷だけれど美しいシーン、そして下世話で切ないシーンに作られていたのですね、道行きの先には醒めた現実のぞくっとくるような死がまっているんだけれど。なんだろ、なにかを下敷きにするそのしかた、歌舞伎って言うのは元々歌舞伎としてちゃんとあるんだけれど、でも木ノ下歌舞伎って言うのはそれを踏襲しながらもやっぱり今の語り口って言うのをその演出家に従って大事にするっていうことがあって、結果として生まれるものは歌舞伎でありつつ極めて現代演劇だとは思うんですね。それは、シェークスピアを演じるにしても、いろんなロミオとジュリエットというのがあるわけじゃないですか。それと同じことを歌舞伎でやっているとも思うんだけれど、そこから、多分歌舞伎を観るときには物理的にわかり得ないこと、だって、さっきおっしゃっていたように江戸の昔の価値観とか因習とかそうことってほぼわからないじゃないですか。たとえこれはこれこれこういうしきたりなんですよって言われたとしても、体に染みついてないからそれが・・、たとえば主従の関係とか言うのがあって、殿様に顔向けができないみたいな台詞がでてきたりするのだけれど、その感覚って頭ではわかっても直感の棚にはない。だから、ああいう風な形で、もっと柔らかく今風の匂いも織り交ぜて、厚みを持ってそこのところは作ってもらわないと真に理解できないとか。一言で語られることもたくさんの言葉や所作で、時には唄にまでして説明したりって言うのが糸井版木ノ下歌舞伎にはあって。
👩うんうんうん
👨だから、逆にわからなかったことの解かれたときのふくよかさっていうのも絶対にあって。
👩そうですね。
👨より強い印象が残るって言う感じはするのですよね。木ノ下歌舞伎もどんどん進化していて、最初に観た時にはやっぱり歌舞伎に一生懸命縛られつつという感じもあったのだけれど、だんだんそこからこう・・、最近のものはもう解き放たれて、より観る側が美味しく食べられるよう表現になって、だからこそ歌舞伎としての良さを受け取ることができる感じがする。その中で、やっぱりスピリットというか一番コアにあるものは歌舞伎、そこのところは絶対踏み外さない。
👩変わらない。
👨また、それを踏み違えてないのだということは、今回のものを観てもすごく思いましたよね。
👩ふんふん
👨そのこととは少し違うのかもしれないけれど、今回とても私がわかりやすかったのが、後半に出てきたでかい数珠玉の寓意なのね。それを豊橋でみたときにはあれが何を具象しているのかいまいちなんとなくぴんとこなくて。だからそれは宇宙なのかなぁとかいろんなことを考えたのだけれど、今回はその、なんていうの、お経というか念仏を唱えるなかでの、宇宙っていうのはそうやってぐるぐる回っていく中に全て収まっていくんだよっていう感覚、で、多分それってこの歌舞伎ができたころにはみんな普通にもっていた感覚で、だから仏様のありがたさ、輪廻転生じゃないけれど、そういう風な価値観とか哲学とかいうものに収束していくような話だったとおもうのね。
👩ふんふんふん。
👨私は家の宗旨がキリスト教だというのもあって、そのあたりの文化っていうのにあまり引き出しを持っていなくて、だけどそれでも今回の演出だとそこのところがすごくわかりやすくて。で、それをちゃんとおいてもらえると、そこまでに描かれたこと、いろんなことが全部とりこまれ、ドミノ倒しのようにして腑に落ちていくんですよね。
👩わたしが今回の作品ですごく驚いたのは、玉手さんの俊徳丸に懸想するというか、懸想している義理の母、お母様ですよね。観ていて好きにならないんですよね、最初は。それがすばらしいなぁと思ったのですけど。なんだろうな、最初からずっとこの、気がちょっと違っているような感じではなく、ではなく、そういう風に見えるわけじゃなく、なんていうんですかね、あれ、うーん、まとまっていたんだけれどな・・。
👨ドラマ的に言うと、彼女っていうのは最初にほんとに女性のいやらしい面、いやらしいっていうか本性みたいなもの、一番コアにあるもの、性っていうか業みたいなものがちゃんと出ていないと最後にひっくり返らないんだよね、物語が。
👩ああ、そうですね。こう、観ている人からすると敵に見えるんですよね。というかどんどん敵になっていくんです。そうやって観ているうちに。どんどん。それがね、最初は嫌なだぁくらいだったのがどんどん敵になっていく。最初はね、気持ちもわかるかもしれない。と思うんですよ。ああそういう形も・・いやいや義理とはいえ親子だけれどもって。・・・それが徐々に俊徳丸のほうに感情移入をしてしまうというか、ほかの人に感情移入をしてしまうのですよ。きっとそれはいろんな人。観ているうちにいろんな人に感情移入をしていくんですけれど。
👨うん。
👩でも、それが、感情移入している側から玉手さんを見るようになっていったんですよ。この人はこんなに周囲を苦しめて・・と。変化をしていったんです。
👨ああ、はいはい。
👩浅香姫とかの一途さとか・・。
👨昔の言葉で言えば浅香姫っていうのは貞女の鑑なわけですよ。旦那がらい病で顔が崩れようと偏に思って、その人についていきます、守りますっていうことで。それは昔の価値観でいうと、もう。
👩どちらかというとそちらの方に感情移入というか想いが寄っていってしまうんですよ。観ていて。最後の方のシーンになってもそうなんですけれど。帰ってくるんですね。玉手さん、本名はお辻さんの実家。おとうさんとおかあさんの場所に俊徳丸と浅香姫は匿われているんですけれど。もうこの段階になってくると完全に玉手さんは気が触れているようにみえるんですよ、完全に。おかしくなっているように見えるんだけれど。それはもう信じ込まされるんですよ、観ている方も。
👨いやだから、毒婦の鑑だものね、ふふ。
👩うん。だけど、浅香姫との取っ組み合いがあって、父親が玉手を刺すんですよね。命をね、おまえはなにをやっているんだと。
👨躊躇して、躊躇して、最後にやっぱり刺してしまうんだよね。
👩そう、そのシーンっていうのは最初から何度も何度もリフレインしているんですよ、シーンとして。記憶がこう、今までのものが全て凝縮されていくというか、観ていて。観ていたもの密になっていく感じがしたんですけれど、私は。で、そのあと、玉手さんが語り出すんですよね、訳があるんだと。でも、そんなもの観ていて信じられる訳がないですよ、こっちからして。そうじゃなかったです?
👨あはは。
👩信じられる訳ないですよ。いままでどんだけ勝手をしてきて。完全に、完全におかしくなってしまった!俊徳丸を愛しすぎて。あぁあ、あぁあぁもう、幸せな結末はない!!って。
そう思っていたら・・・違うんだと、語られた言葉に驚くんですよ、みんな。驚きましたけど、違うんだと。
次郎丸が兄の俊徳丸を殺そうとしていた。どちらも殺させるわけにはいかない。だから毒を、らい病になる毒を飲ませて、一度家督争いから退かせようとしたのだと。
👨うん。
👩そうしたら父親が、そんなわけないだろ、だったら言えばよかったじゃないか!と。
👨うん。
👩いやそんなことをしたら次郎丸も殺されてしまう。
👨次郎丸の父というかお殿様にね。
👩そんなことはできない、どちらも私の子供だと。ここは玉手さん以外の姿は暗く溶けていて、彼らの声だけがするんですけれどね。その視界が狭まっている中、舞台中央で玉手さんが語るんですよ。それがとても格好良いのだけど、でも、そこでも信じられないの。観ていて。父親とおなじ感覚なんですよ。だけど聞いていくと本当に違うのかもしれないとよぎる。徐々に。守るために家督を退かせ、そして、それはあまりにも酷い取っ組み合いを浅香姫としているときの悲痛な叫びなんだけれど、そういうシーンもあって、それも思い返されながら。いや、待てと。違うと。この人工的に、人の手で作られたこの病気は、寅の歳、虎の月、寅の日、寅の刻に生まれた子の生き血を、肝の臓の生き血でしたっけ
👨そうです。
👩肝の臓の生き血を呑めば治る、そのために私は命を捨てる前提で、玉手さんは全ての人を騙してひとりで戦っていたのですよね。だから絶対に一緒にいなければいけなかった。ふたりにならなければいけなかった。本当はきっと、きっと私は父親と母親にはそれを知らせないまま行いたかったんじゃないかなと思うんですよ。打ち明ければ、止められることはわかりきっていたから。父親も玉手さんのことを愛しているのは・・・「パパよ」って唄があるんですけれど、これがまたね。
👨泣かせる歌ですよね。
👩これ凄いのは、今あらすじをがぁーってしゃべりましたけれど、まあそういうことがあったんですよと、でもね、あまりにも迫力が凄いから、そこまで聞いても、え、ほんとっていう疑いがまだあるんですよ。玉手さんを信じ切れない。だけど、最後のシーンで、なんでしょうね、その、あの世とこの世の、あちらとこちらの間、間の邂逅といいますか。俊徳丸に命を譲り渡すみたいなシーンがあるんですけれど、そこで初めて信じることが出来たんですよ。ああ本当にそうだったのか、と。で、俊徳丸は元気になるんですよ、治るんです。で!!その後なんですよ!!!凄いの。玉手さんを取り巻いていた人と同じ状態になっているわけですよ、観ている方も。そう信じ込まされているわけですよ。知らなかったとしてもそうだし、知っていたとしてもあの迫力は信じさせる力があって。我々も物語の中に飲み込まれたと思ったんですよ、あのときに。
👨そうですね。
👩自分たちの人生にもオーバーラップせざるをえないというか。。誰よりも愛情深くて、誰よりもやさしくて、誰よりも聡明で、誰よりも覚悟があったから、玉手さんはひとりきりだったんだなぁっていう。誰にも分かられないまま。
👨うん、そうですね。
👩自分の子供に。血のつながりはないけれど、自分の大事な子供に命を託して死んでいくって言う。しかもそのね、一番最後の、玉手さんが亡くなってそれから暫く経ちましたみたいなシーンがあるのですけれど、なんかね腹立つの。今度は信徳丸とかそのご家族に。
👨脳天気な?
👩そう、元気になった信徳丸は家督を継ぎ、そして浅香姫と結婚しました。信徳丸を殺そうとした次郎丸もなぜかそこにいて、ちぇっみたいな。なんとなく、なんとなく和解した雰囲気。いやぁお見事でした、玉手さんは素晴らしい方でしたみたいな、あははみたいな空気に今度は凄い腹が立つんですよ。でも、それも凄い勝手で、こっちも。なんか二重三重に巻き込まれている感じがして。
👨この芝居の構造からすると、玉手さんっていうのはあれなんですよ、たとえば昔だったらとても有名な狂言だから何回も何回も掛かったりしてみんなストーリーを知っているわけじゃない?でも、知っていてもなおかつ、最初の場面では毒婦として、今おっしゃったとおりでちゃんと憎まなければいけないんですよ。私もそうだったけど。
👩いやあ、そうなんですよ。そうなの。
👨私は前に観てストーリーを完全に知っていて、でもやっぱり。それはもう内田慈さんの芸の力ともいえるんだけれど、本当に終盤までの玉手さんは憎々しい。であと、その女性のなんていうの情念の凄さとか、そういうもろもろっとしたものが、それから親の家にはいる時から踵を返して、波の音一つでがらっと変えて本性を現すとか、だからああいうところも全部、それは当然に役の上での周りを信用させるだけではなくて、たとえその話の顛末を何回も観て知っている観客ですらも騙さなければいけないわけじゃない。
👩うんうん。
👨だからそこのところに歌舞伎のいろんな手法って言うか芸の力っていうのがものすごく求められていて、多分普通の今の現代劇でそれをやったとしても、一回そのストーリーを知っちゃっていたら、実感としてわかないと思うのね。あの憎々しさとか。
👩うん、確かにそうですね。
👨でも、私、2回あの同じ話を観ていても、やっぱりあの毒婦の凄さみたいなものに呑まれたものね。観ていてそれはやっぱり歌舞伎って言うものの語り口の強さでもあるし、女優の強さでもあると思うのね。
👩うんうん。
👨で、そこまでやってくれれば、そのあと最後にまた返したときに、ちゃんと振り子になって機能していて、実は玉手さんって本当に貞女、昔の価値観で言う妻の鑑、母の鑑となるわけじゃない。自分の身を本当に挺して、命をかけて、聡明に企んで、そこまでをやり遂げたわけじゃない。で、そこのところに効いてくるのが例の虎続きの話で、
👩ああ、うんうん。
👨ちゃんとそういう風に天が定めた自分の運命だったと言うことで、で、あの人それを知ったとき「なんて嬉しい」って言ったじゃない。
👩そう、そうなんですよ。「なんて嬉しい」って言うんですよ。
👨それは、天が自分にそういうことを与えてくれた、そういう天の恵みの中で自分がそういうところにいられたことの幸せっていう。
👩うん。
👨それはああいう風な語り口ではないと、今風にそれをいわれてもなんじゃそれはなんだよね。多分。
👩そうですよね。
👨だからそれをちゃんと伝えきれる。で、そのための要素としては、物語の枠っていうそのもともとの戯曲の凄さもあるし、戯曲って言っていいのかわからないけれど、要は筋立てだよね、筋立ての凄さもあるし、その筋立てを一人の人間として、しかもいくつもの側面というのをかわるがわる見せなければいけないじゃない。ちょうどお面を替えていくみたいに。
👩ほんと、そんな感じだった。玉手さんの変化。見える形が。
👨そう、実はこれには理由があることって語り出すまでの・・、逆に切られるまでのその踏ん張り、その、親に切らせなければいけないように仕向けていってるわけじゃない。
👩うんうん。
👨だからその、親に切られるような運命に置かれたっていう不条理みたいなものっていうのは当然にあって、だけどそれを彼女は貫かなければいけなくて、それを結局貫くっていうその人間の意思の強さ、企みの凄まじさ、そこのところを出し切らないといけないそういう踏ん張り、それっていうのが求められていて、で、内田慈という女優もそこのところをきれいにやり遂げたから。
👩素晴らしかったです。あと、あれですよ。腹が立つって言っていたでしょ?周りに。それには私も含まれていて。彼女を理解出来ず孤独にさせたのは、舞台に立ってる人間たちではなく、観ている方も多分そうだから。そういう風に思ってしまうから。なんともいえない気持ちになるわけ。腹立たしさというか。なんか、やるせなさみたいな。一番最後のシーンが、父と母の、玉手さん・・お辻さんのお父さんとお母さんのシーンなんですよね。そのまえにもう、終わるぞっていう、なんなら拍手をしてしまうんじゃないかぐらいの盛り上がりがあるだけど。だけど、一番最後のシーンは父と母のシーンで、で、これも凄かった。あの、父はやっぱり自分の娘を刺しているわけだから、殺す気で。で、母もそれを見ているわけで。自分たちの娘のことをわかってやれなかった。ちょっと魂が抜けた感じに、完全に抜けたわけじゃないんだけれど、どこか少し幽霊みたいな感じになっているんですよ。だけど、その場の端に、玉手さんが、おそらく幽霊が立っていて。何かいいましたか?ってお母さんがお父さんに聞くの。娘が帰ってきたときに言った同じ言葉を。その一言二言でその父と母の悲しみみたいなものに触れて、もう偲ぶことしか出来ないんだという気持ちになって。ほんとうに。なんかそのほかの人とか、なんだろうな、生きるとは、孤独とはみたいな、覚悟とはみたいなことを考えさせられた。個人的には。
👨あの作品自体っていうのは、昔の倫理観だから、ある意味ね。だからああやって全部お釈迦様の手に委ねて、だから人生の運命や輪廻っていうのはそうやって回っていくんですよってことだと思うんですよ。そうやって身を委ねて、心のままにそうなることの幸せみたいな、だけどそれってすごく孤独なんだけれどねっていうような。やり遂げたっていうことの美しさ。歌舞伎ってそういうのがあるじゃないですか。あの菅原伝授手習鑑の寺子屋にしても、大義のために自分の子供の首を刎ねちゃうわけじゃない。そうやって、主君に対して尽くす、主君を守る、主君の子供を守るのだけれど、そのときの心情とか心中とかを表すところが見所なわけですよ。この舞台もおなじだよね、そこのところで自分の孤独とか苦しい気持ちとかっていうのがありながら最後まで全うする、その孤高の美しさというか美学、彼女もやっぱり主君というか旦那様というか殿様に仕えたわけじゃない、そうやって。その家を守るっていう。だから一番底辺にあるのは秩序を守るっていうことだから、昔の時代は。家の制度を守るっていうことだから、武士の世界っていうのは。そこの美しさっていうのを出そうって言うか描き出すために、そういう風なある種の悲劇をつくったわけじゃない。戯作者はね。
👩うんうん。
👨それが、今ってそういうのがほぼないから、そのなかでその美しさをどういう風に見せるかっていうときに、多分歌とか思い出とか、過ごした日々、家族の団らんとか、そういうものを犠牲にしてひとつのことを成し遂げたっていう形に多分語りをかえたのだとおもうのね。
👩うーん、そうですね。
👨でもそこはやっぱり、木ノ下歌舞伎が元々にあるその美しさっていうのは全然いじってないんですよ。絶対替えてないんですよ。
👩うーん、でもどうなのかなぁ。アップデートされている気はしましたけど、私は。あるんだよ、あるんだけれど!なんか、歌舞伎の美しさっていうかー、その美しさとは違って見えたっていうか。
👨だから、歌舞伎の時代の一番の美しさっていうこと、その狂言に編み込まれたものを今に置き換えたときにどうなるかっていう形にして、その無常観、
👩まあまあそうですね。
👨で、そこには、こんどは糸井さんの無常観っていうのも多分入っているんですよ。
👩うんうんうん。まさしく歌舞伎でした。途中まではね、これはしょうがないんだけれど、わたしがそうだからしょうがないとしかいえないんだけれど、なんかね、途中まではね、いや面白かったんですよものすごく、ずっと引込まれて集中してみてたんですけど、あのね、歌を歌うときのさ、っていうかなんていうんだろうな、難しいんだけれど、あの、どうしてもあのアルカイックスマイル。
👨なに、アルカイックスマイルって。
👩モナリザの
👨ダビンチの?
👩あと仏像とか・・
👨ああ、わかった。はい。
👩アルカイックスマイルね。それも多分意図的なものだと思ったのだけれど。で、それが確かに、凄く、そうなるだろうなと。それがとてもしっくりとも来ていたのだけれど。
👨はい。
👩私、人間のアルカイックスマイルって、内面が出てくるものだと思うの。人間だから。
👨生きたものだからね。
👩感情がね。乗るんだよ、どうしたって。それがさぁ、ちょっとだけしんどくて。あれだけさぁ、あれだけさぁ、あれだけ自由に観れる舞台なんですよ。だからこそ食らいやすいというか・・・印象的だからこそ漏れ出てくる人間性がとても。感情みたいなものが凄く敏感に感じ取れちゃって、キツいってところが正直私、あって。そこはもう・・これは私はってだけなんですけれど。
👨だから、そういう感情みたいなものって、歌舞伎だったら、ほら見栄を切ったりとか形式美に変えちゃうちゃうんだよね。
👩そう、そう、そうなの、そう。で、曲は長いしさ。で、あのね、途中の、あれみたいな、ゴスペルみたいな歌があるでしょ。
👨ああ、はいはい。
👩あそこまでいっちゃえば全然気にならないの。完成されているから。まったく何がどう出ようが、むしろ出たほうがとおもうんだけれど、どうしても、ちょっと静かめの曲の、人のアルカイックスマイルの中から出てくる人間の感情みたいなのが強く、強く見えちゃって、私には。顔、見ないようにしていて。
👨うふふふ。
👩顔見るとその人の感情にひっぱられちゃうんだよね。難しいっていうかできないと思うんですよ!アルカイックスマイルって人間には。モナリザはやっていたもかもしれないけど!でもあれ、絵に落とし込まれているからこその良さだから、いいと思うの。
👨いや、モナリザがあのほほえみをしてたんじゃないと思うよ、私。あれはダビンチがそういうふうに作ったのだとおもうけど。
👩ダビンチが見たものの絵だから、ダビンチが見た彼女!なんかいっこ無機質なんだよ、歌舞伎もそうじゃないですか。なんていうの、図形化しているというか形式化しているというか、その形として完成されているというか、だから、いいんですけれど、とっても。なんかそれを組み合わせようとしたときのその歌っていうのは、物凄くそうだな、現代ならそうなるな
っていうめっちゃ納得しかなくて、で、しかも、だからといってこれがどうなるんだでもないし、私の個人的な、本当に個人的な、こういう場だから、お酒を飲んで舞台を観て面白かったなという場だから言えるんだけれど。評論じゃないから。本当に私、本当にあれが苦手。
👨あははは。
👩あのね、うん、出てきちゃうんだなと思って。しかも倍化して出てくるんだよね。なんか。どういう気持ちって思って見ちゃう。
👨だから、なんだろ、人のそういう気持ちの中から共振するものを引き出そうとするときに、たとえば親子っていうこの時間のそういう尊さというか、得がたいものっていうのを出すときに、今ってたとえばそれを記号にした瞬間に丸まってかたまっちゃうじゃん。昔って多分違っていて、多分その記号に押されてその感情がぐわっと盛り上がってくるような趣向ではなかったかと実は思っていて。
👩うんうん。
👨でも、いまそれをやると、それってものすごく嘘っぽいから、でそういう嘘って今の、現代の文化ってだんだん許さなくなってきているから、だからああいう置き場のないような中間のところにぷかっと浮かべて渡すみたいなことをしているだと思うのだけれどね。
👩ああ、そうなのかなぁ。いやぁあれさ、でもさ、出ちゃうんだって。で、しかもね、全員、全員というかみんながみんな気になるわけではなくて。別に気にならない人が多いと思う、むしろね。
👨いや、今の演劇をやたらこう見慣れている人たちにとっては、あれも記号だから、一種の。あれが出てきたときには多分そういうことなのだろうねって思う人もいるかもしれないかと。
👩だけどねー、それが浮いて見えたんだ、私には。この曲でこうとかではなくけっこうね、みんなで歌うシーンとかでさ、大きいフリとかがなかったりとか、とくにふわっとした曲の時にそれがあると、目がいっちゃうんだよね、もういっそ感情を乗せてくれた方が・・・。なんかあのね、不安になるんだなぁ。あはは。
👨いやぁ、これ、元々の屋台は歌舞伎だから、 
👩でもだから、逸れないじゃないですか、そのふわふわなところ、歌舞伎は。ふわふわさせるところはあるの。でもそれもふわふわさせているんですよ、歌舞伎。見える形は型にはまっているけれど、なかがとてもふわふわしているということも表しているし、というかふわふわしているという形があって、そこにはまるから、とても気持ちがよいのですよね。だけどその、あのさ、多分だけれど、表情とかアルカイックスマイルで、まあそういうのでとかこういうのでという演出はあるのかなぁともおもうのだけれど、でもさ、それをひとりひとりにこうして!この顔で!!こうで!って難しいじゃないですか・・そのとき歌っている感情とかいうものもあるわけだから。それを消せというのもおかしな話というか・・・気になる人と気にならない人っているのよ。あの、目がね、なんか本当にアルカイックスマイルでなんかもう完成されているというか、余計なものがはいっていないというか、余計なものが入っていない方が安心して見ることができちゃうんですよね。なんかああいう時の。
👨ああ、なるほどね。
👩それはすごく感じて、むしろなにかが見えちゃう方が不安で、すごく・・・なんかこういう言い方はよくない、よくない、本当によくない、これは私個人的なことです!個人の感想です!!!そして私は木ノ下歌舞伎がすごく面白かったまた観たい!!だけど、観ていて自由にさせてもらっていたから・・・その誰かの感情に一瞬を押しつけられているような気持ちになるんだよなあ。あ、私はちなみにミュージカル好きです。
👨はい。
👩ミュージカルを見慣れない人がいうじゃない。
👨気持ち悪いってね、ふふふ。
👩そうそう、急になんかすごく溌剌としてこっちにしゃべりかけてくるみたいな、歌い出すみたいな、そのなんかテンションの上がり方のみ込めないみたいなこという人がいるけど、それがもう無理だという人がいるかもしれないけれど、慣れでもあるともおもうんですよ。観てるから、好きで観てるから。
👨私、糸井さん作品って、けっこうほら、FUKAIPRODUCE羽衣なんかでたくさん観ていて慣らされているところもあるんだろうね、多分
👩うんうんうん。
👨だから彼は彼なりに、そういう風な、その観る側への感情の渡し方とかそういうやり方というかメソッドを持っていて、で、それが歌舞伎にいったとしてもそこのところは使っているのね、観ていても。その彼の歌舞伎以外の、もっと現代劇だったりもするんだけれど、そのいう中でもちゃんと使っていて、いわゆる妙ージカルっていう風に彼の作品はいうのだけれど、その妙っていうのは結局そのスピリットの部分をどういう風な形で出すか合っていうときに、ロールをただ全員がものすごく旨く歌い上げるだけではないんですね。もっとスピリッツをあからさまにする・・。
👩うんうん。妙―ジカルってすごくいいね。そのなんか、そうすると私はすごくしっくりくる。不慣れなんだよ。その、見慣れないんだよ、多分。だけど、だけど、舞踏の削ぎ取り、削ぎ落とし方というか、それも私はね思い出して。その舞踏ってこう、削いでいくなぁって思ったんですよ。そのなんだろうな、間・・、真ん中にすっと立つみたいな、でそのまわりをどんどん削いでいって純なもの、純なものに精製していくみたいな作業というか。ただそれをすればいいとは、思わない。その木ノ下歌舞伎のさ、あるときにね、すっと全員が表情を消した瞬間があったの。それに、ものすごくわたしはゾクッときて、でそれはしっかりとその前に、まあこれはアルカイックスマイルのつもりでやっていなかったら申し訳ないんですけれど、アルカイックスマイルのそういうのがあったから完全に生きていくっていうさ、でアルカイックスマイルってさ、こうなんだろ、イメージで、口元だけでこうさ、笑うっていう、微笑むじゃないけれど。これって、生命感とか幸福感を演出するためのものではみたいなことをいわれているんですよ。
👨だから、そういう笑いっていうのは逆に、どこか感情を抜いている部分でもあるので、
👩そうそう、その、あのね、顔の感情表現をこうぐっと、ぐっとしつつその演出でこれは生きてるっていうか生命力を出すっていうものだから、それはけっこう重要で
👨でも100%幸せっていう感じは、でもそういうのを観た時に、なんかそこの薄っぺらさみたいなものってあるじゃないですか。
👩薄っぺらさ?
👨うすっぺらさ。表層の幸せみたいな。
👩その表情がですか?
👨そう。
👩ああ、どうなんだろう。わたしはちょっと違うかな。
👨だからすごく満ちてはいるんだけれど、
👩もちろん奥はみるんだけれど、なんかね・・何面にもそれは見方がある気がする。
👨ああ、そうね。
👩あれ自体が表現になって、それこそ、その、確かに後ろはみるんだけれど、その感情面とかの、幸福感とかの表層を表しているとは私は思っていなくて、寧ろ内側を表すためのというか、もっとこう奥深いものを表すためのものではあると思っているんですよ。私は、あれは、その。
👨だからわからないけれど、アルカイックスマイルっていう話と、なんていうの、心の底まで染まった至福っていう言葉っていうのが同じかどうかっていうと違うと私は思うんだよね。
👩それは違うと思います。それは違う、それは違う、寧ろ逆だと思う。
👨そう、だから、逆のところを感じちゃうんだよ、私は強く。
👩ものによりますけれど、その、一辺倒に逆とも言えないんですよね。その、逆を感じるのは確かにある。そういう表し方をしているものあるとは思う。
👨それは、もう観る方がひねくれているんだけれどね、私みたいに。観ているほうがわたしみたいにひねくれていると、でも実はほら、幸せじゃない部分を自分でごまかしているんじゃねぇの・・、みたいな。
👩表情のその中にある、不安とか幸せとかないまぜになった、それこそ人間であったりとか、その人間を超越したみたいな、もっと広いものを表すためって思うんですよ。たとえばモナリザだったらね、顔からひろがって、そのうしろに宇宙が広がっているみたいなものを表すためのものだと思うんですよ。ひとつでは。そのもちろん、見てふわぁってなるんだけれど、そうそう。
👨モナリザのあの微笑みっていうのは、さっき言った演劇の人たちがやるのとはまた違う印象があって。
👩それこそ仏様だったり仏像だったり石像だったりのアルカイックスマイルと。アンサンブルをするときの、みなさんしていらっしゃったじゃないですか、木ノ下歌舞伎で。アンサンブルの時の、その特に歌の時にそういう表情を浮かべている方が多くて、で、その中でけっこうあの、なんかさ、アルカイックスマイルってさっき言ったように内側にひろがっているものを見たいじゃないですか。でもそこに出ちゃっているように見えると、ちょっと強いって思ってしまうってわかります?
👨ああ、なるほどね、言っていることはわかります。
👩そう、モナリザの顔の前に感情がばぁっと出ちゃっているみたいな。モナリザから拳がでてきたみたいな強さがあるの。なんかそれかな、それかな、それを強く感じて、そうじゃない人を観ていた。あははは。
👨あははは。
👩でも、もしかしたらそういう意図があったかもしれないからね。わからないからね。ましてや感想会だから、評論だったらゆるされないかもしれないけれど。
👨だから、そういう一般のひとたちがいないと、主人公っていうのは際立たないかもしれないよね。そこまで踏み込む人っていうのが。
👩でもさ、歌の時だよ。歌の時でその、あのね、強いって言うのはあれよ、あんまり良くない意味よ。
👨ああ
👩あのね、目立って見えちゃう人がいたのよ。むしろ出てきちゃったの。
👨要は全体の中に平板に隠れなければいけないものがでてきちゃったということね。
👩そう。でもね、でもねって思うの。でも歌のシーンって強いところだから、で、それで全体で伝えるべきところだから、もらいたいところだから、なにも思うなではないのよ。ただ、ただ、広がり方が後ろ側にこう顔があって、アルカイックスマイルの顔があって。後ろ側にぶわぁって深い広がりを感じる人と、顔から前に出ている人がいて、私は後ろに広がっている人の方がしっくりきたっていう話ですよ。それが前の人と後ろの人がいてなんか前の人が目立ってはいた。どっちが意図なのだろうとは思って。
👨あはは。
👩しかもそれは分からないからね。私だから。個人の意見でしかない。全然、申し訳ない。
👨ある意味それは見え方だから。
👩そうしたかったのかもしれないですしね、なんか統一したかったのか、したくなかったのかこっちには分からないから。ただ、好き嫌いでいえるところがあってもいいじゃない、お芝居のことを。
👨当然に、それは。
👩みんなだって、面白い面白くないみたいな。好き嫌いでなんか、いいじゃない、別に。あれだもの。自由だもの!
👨私だって世の中のお芝居が全部好きじゃないからね。同じように一つの作品の内だって好き嫌いがあるのは当然だと思うけど。
👩ねえ、そうなのよ。私は偶然ね、この間から観ている舞台はどちらも面白かったし。人生を感じるって言うことは素晴らしいと思う。大好きですよ。だけども、気になるところはあったぞっていう、ここのとこちょっとつらかったかもって。
👨あははは。
👩いいお芝居でもなんかそういう気になるところはあるだなっていう。でもさ、3時間やってそれだけですよ、気になるところなんて。凄くない。重箱の隅をつつき倒すたいな、そんな性格の悪い、うふふふ
👨あははは、でもね、それを自分でいえるところは素敵よ。
👩なんて性格が悪い、ふふふ。でもね、あえてよ、あえて言うと気になったんだよ。どっちなんだろうって思ったの。その、私が好きか嫌いかとかさ、どう思ったかとかは正直まあどうでもよくてさ、良かったんだから、好きって思ったんだから。だけど、意図はどっちだったのかなぁって。こう見えたけれど、それは頭の中そうなのかなぁというのはちょっと気になったんですよ。知りたいなぁって思った。
👨でも、多分その時点で可能性っていうのはふたつで、ひとつは作り手のほうはそこまでなにも考えていなかったか、あるいは、どっちかに偏ってつくってお姉さんに見せて失敗したか。どっちかだね。
👩どっちなんだろうね、なんかいろんなものがあっていいよだったのかもしれないしね。でもそれをするのだったらもうちょっと明確にやるような気はするんですよね、あれだけ作り込まれているんだから。なんかね、あれだけ作り込まれていたからこそ、雑音みたいな形になるわけですよ。視覚のものだけれど。それがやっぱり、気になるんだよなぁ。凄く目立って見えてね、なんか馴染んでいないというか、なんだろうという違和感というか、強さになっちゃって。その、個人のあれはいいかなぁみたいな気持ちになっちゃった。
👨だから、そういう意味ではまだ、もっと研がれる余地があるのかもしれないよね、あの作品っていうのも。
👩でも、凄かったよ、ほんと。歌のシーンもめちゃめちゃ好きだった。なんてきれいなんだって。なんか、綺麗なんだっていうか、そのそれこそさ、合唱団みたいなあれじゃないじゃない。もっと無骨なのだけれどさ、その無骨さが人間だなぁって思って。とても力強くて。
👨そう、それこそがあれだよね、糸井さんの真骨頂だよね。
👩うん、是非またみたい。あ、一時間経ってますね。
👨そうですね。
👩あはは、ついついすみません。
👨まあ、でも、こうやって共通に観たお芝居の話をしているのは面白いよね。
👩うん、おもしろい。でも、あくまでもね、これは言っておかないといけない。私たちは評論家ではまったくないので、ほんとに偏った意見も言いますし、間違っていることも言うんですけれど、でも、あの、なんかね、そういう感想の場があってもいいんじゃないかなって。みんなでこういう話をしたいなって、私は個人的に思っています。面白いと思う人がいる、逆の人もいる、を認め合って、別にどっちがあってもよくてさ、これは面白かったよっ!て別にけんかをするんじゃなくてさ、ああそうなんだって、みんな違ってみんないいよね。うふふって。
👨いや、というかね、こういうことを言うのも手前味噌なんだけれど、作品に対するその骨組みとかその意図とかやりたいことに対して、正当な評価をお互いにしていると思うのよ。でも、正当な評価をしているということと、自分が好きとか嫌いとか、たくさんもらったとか少なくもらったっていうのは全然違うはなしなので。
👩個人個人ではなす感想会はそういうことを話したいよね。なんか、いいんだよとおもうのよ。しっかり観て、一生懸命観て、自分のね、知識量はいろいろあるから、そのもちろん勉学というのはね、知識というのはいろんな面で、どんな面でも味方だし人生を豊かにしてくれるものだと私も思うんですよ。ただ、現状私はね、多分知識がたりないなとは思うの。だけど、知識がある人はもっと楽しいかもしれないし、知りたければもっと勉強すればいいし、知りたいところを知っていけばいいと思うし、ただ、演劇はそんなに間口が狭くなくて、知らなくても楽しめるものがいっぱいあるんですよね。それこそ、そのさ、歌舞伎を観たことはなかったとしても木ノ下歌舞伎はおもしろいんですよ。もう大丈夫なんですよ。もう受け入れられる、観てみようという一歩さえあればね、演劇は絶対に楽しめるんですよ。そう、好きなものをみれば良いの。ただものがいっぱいあって、それをどう探してしていいのかがわからなかったり、あるからそれに巡り会えないだけ。で、違うものに、自分の好みではないものだったりとかに巡り会ってしまって、もうあんまり好きじゃないかもってなってしまうのは本当にもったいないと思う。大丈夫、というか、そういうのでもこれはこういう風に感じたんだなぁみたいのでね、なんか面白可笑しく、観てもらえればいいなぁって。思っていて。私たちもこういうの続けていますが。
👨まあ、木ノ下歌舞伎なんかはね、本当に、歌舞伎がおもしろくて木ノ下歌舞伎がおもしろいっていうベクトルもあったりするんだけれど、これきっと逆流もするからね、木ノ下歌舞伎が面白いから歌舞伎を観てみておもしろいっていう話も絶対あるとおもうんだよね。
👩絶対あると思う。絶対あると思う、観たくなると思いますもの。
👨木ノ下歌舞伎主宰の木ノ下先生、木ノ下裕一さんは、時々歌舞伎にまつわるトークや講座をやったり解説をしたりするんですよ、。今はね、ほら、コロナでできなくなってしまっているけれど、前は公演ごとにアフターイベントとかで作品解説とかやったり、あと歌舞伎の講習みたいなの、3日間8時間にわたって一つの作品をこういう面、こういう面、こういう面から解説していきましょうみたいなことも彼はやっていたので、で、実際それを聴いて、見所や楽しみ方も学ぶことができて、ますます歌舞伎が好きになったのね。主宰がそうやって歌舞伎への造詣が深くて、なにより歌舞伎を愛しているみたいなところがあると、やっぱりそういうところについたファンは幸せだよね。ちゃんと歌舞伎の入り口まで導いてもらえるし、いろんなものをもらった知識とともに見られるし、こうやってと教えてもらえるし。
👩そうなのですよ、本当に。楽しんでほしい。いいんだと、これはこうだよね、こうかなと、ああでもない、こうでもないとしたいし、考察をね。だってさ、人それぞれに見方はぜったい違って!もちろん作り手の意図するところっていうのはあるんだけれど、あるんだけれど!それをどう受け取るかは人それぞれ!!!!
👨それはそうだよね。
👩人の感想や感覚を、そういう考え方があるんだ、そう見えたんだってすれば!世界が広がったりとか、そんな感覚なかったすげぇってなってもしかしたらもう一本違った形で見えるかもしれないし。だってさ、評論はさ、ちゃんとこうで、こうで、こうで、こうじゃないかって言うのは!やってくれる人がいるから。プロが居てくれるから!!!安心して!!!
👨そうだね。
👩みんな違うねぇって言って、楽しくお酒が飲めるねぇっていうのが私はいいなぁって思う。そう、いろいろ喧嘩になっているのとかも見たことがあるからさー
👨こことここが大事でわたしはこう感じますっていうのも、ある意味凄く大事なんだけれど、それだけじゃ全然つまらないんだよね。
👩そういう話をするときにはそういう話、お酒を飲みながらどうだったね、こうだったね、こうかな、ああかなってするのがおじおねです。もっと増えたらいいなと思う。おじやおねがもっと増えたらいいなって思う。ふふふ。
👨そのおじおねの中にいても、やっぱりなんかを観て語り合うっておもしろいね、これ。もうちょっと続けようね。
👩そうですね、なんと一時間。これは2週に分かれることでしょう。
👨いや、お互いいろいろ考えながらはなしているからね、ひとつにまとまるかと思うけれどね。とりあえず今日はこれくらいにしておきましょうか。
👩はい、そうですね。
👨では、演劇のおじさんと
👩おねえさんでした。
👨👩では、おやすみなさい。

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