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ゼロイチとプラス1

彼に電話をしたのは1年ぶりだった。取引先の社長のOさんは78歳、彼とのおつきあいは30年に近い。わたしの仕事が変わったので久しく会っていなかった。顔が広いOさんに、懸案だったM社への紹介をお願いしようとその日電話をとった。あとから思えば虫の知らせだったのかもしれない。

「実はね、昨日決まったんだ」

こちらの用件がすんだあと、彼がこう切り出した。社長を退くという。
「1年くらい前からずっと考えていた。やれてもあと2、3年だからね」
同業のA社とのM&Aに調印したという。

「会社は継続すること、これが信条だった。オヤジが創業して、あとを引き継いで40年あまり、後を身内にバトンタッチできなかった。仕方ない。屋号も社員も、事業もそのままだと言ってくれたのでふんぎりがついた。半年くらいは引継ぎで居残るつもりだ」

翌週、名古屋で彼と会った。お願いしたM社への紹介はすぐにアクションしていただいたが、そのときの応対が「歯切れが悪かった」らしい。その後の発表で、M社もファンドに身売りした。

いずれも個人企業。「継続」には身内の後継が最大のネックになった。

若い人の起業が話題に取り上げられる。自分がやりたいことに道を定め、ゼロを1(イチ)にすることに挑戦する。すばらしいことだと思う。先の2社もその道を歩んできだ。時が過ぎて、10を11に、100を101にするのも、後継の若者がその役目を担わなければならない。ゼロイチとプラス1、いずれも簡単なことじゃない。

帰り際、Oさんが差し出した右手には、ふっ切れた感じはなかった。