見出し画像

「親しみを感じる、が、油断しない」、わたしの調査回答です

「中国に親しみを感じますか」という世論調査(内閣府)が昭和53年(1978年)から毎年おこなわれている。当時は約80%近くの人が、まあ親しみを感じていた。それが今は約20%、この「親しみ」の変遷は情報開示と量によるものではないかと思っています。

年代ごとにみてみると、
数字は順に、「親しみを感じる+どちらかといえば親しみを感じる」、「親しみを感じる」、「親しみを感じない」です。

1980年:79%、32%、5%
1990年:52%、13%、13%<ターニングポイント①>
2000年:49%、12%、12%
2010年:20%、5%。47%<ターニングポイント②>
2019年:23%、4%、36&

ターニングポイントは、①1990年前後と、②2010年ころのようです。
何があったか、そう、①は天安門事件、②は尖閣諸島問題です。
戦車が学生を踏みつぶし、漁船に姿を隠した軍隊が大挙して島に押し寄せる。メディアが提供した映像と情報で、「親しみ」がふっとんだ。

80年代に「親」中国の人がこんなにたくさんいたのは意外でした。田中角栄が周恩来と「越の誉」「貴州茅台酒」で乾杯したのが1972年。中国を意識したのはそれからでしょう。でも入ってくる情報は断片的。文化大革命の失敗と悲惨さは伝わってこなかった。

多くの人は、中国=孔子、孫子兵法、三国志などの古典に親しみが直結、それ以降の現実の情報が空白だったのではないでしょうか。日清戦争、満州事変など近代侵略戦争を歴史では学んでも実感は薄い。

古典で読む広く大きな中国、ダイナミックな歴史、一種のあこがれともとれる思いが「親しみ」につながった。それが、現実の情報が目の当たりになるにつれて意識が変わっていったのではないでしょうか。

問われれば、わたしの中国感(観)は、「親しみを感じる」です。本によるベースの感覚は同じです。1990年代にはじめて中国を訪れ、それ以降、何度も行き来していろんな現場を体験し、現実を垣間見ました。だから、こうつけ加えたいと思います。

「親しみを感じる、が、油断しない」