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#37『スーパーネイチャーⅡ』ライアル・ワトソン

 先日感想文を書いた『ネオフィリア』と同じ著者。そうとは知らずに同日に買って、家に帰ってから「おや」と気付く。そんなことが時々ある。驚くべき知見に満ち満ちた本である。
 最近の私の気付きは、ひたすら自己の潜在能力の最終的開花に向かっている。この14年暗がりの中をただ手引きされる形で歩んできたが、自分が属している世界、自分が使っている特殊能力がどのようなものであるのか、それに関する全部とは言わないがいくらかの情報を補完的に得ることが出来た。 
 ちなみに同日に手に入れたもう一冊の別の本が『私と直感と宇宙人』である。私の霊的同胞もいよいよ私に気付きの仕上げをしてほしいと願っているようだ。

 自分がやっていることはいわゆる科学の外にある。そう考えていた。しかし意外にもこの本を読むと、科学の少なくとも傍流または小さな派閥は、この種の事柄を積極的に取り扱い、膨大な証拠を集め検証をしていることを知った。その中には抵抗や反発に遭いながらも、その中のいくらかは現代科学が認めざるを得ないまでに根を下ろしたものもある。例えば進化論に対する異論など。すなわち原因の結果としての進化ではなく、目的ありきの進化という考え方。
 同じように、主流派科学体系に別の視点を提供しようとする人たちがいる。ただしそんな彼らも根が科学者なのでどうしても発想に硬い所がある。それを著者は非常に残念がっている。頭ごなしの否定からは何も生まれないが、同様に証明したいとの強すぎる、かつ実証主義に根差した検証は、世界の実相への理解を逆に遅らせていると懸念している。

「(物質主義の世界観モデルは)あまりにも合理的で秩序正しく、確信に満ち満ちているために、かえって全面的に真実とは思えない。生命はそんなに整然としているのではない。内的な自己と外世界とは、まだ知られていない方法で絡み合っているのではないだろうか」273

 著者は驚くほど経験豊富で、超常現象を沢山目の当たりにしている。だからこその説得力である。
 人は(そして動物、更には植物は)なぜ五感で感知できないものを感知することが出来るのか? 彼らは何をどう感じ取り、どのように処理しているのか? いかなる力の体系に属しているのか? 
 この問いは鏡面として、私たちの近代合理主義はいかに狭い窓から世界を覗いているのか? どのようなことを決して理解し得ることがないのか? という自問でもある。

 読みながら、「これが自分のやっていることだ」と思う箇所がいくつもあった。例えばテレパシー、遠隔視、直観による情報取得、遠隔操作など。また自分が日頃から取り上げている事柄もある。幽霊、霊魂、シンクロニシティ、ポルターガイストなど。
 それを冷静かつ客観的な視点から解説されることは斬新だった。これを主体的に行っている経験者から聞くことはあっても、ここまでの新鮮さはない。著者は科学と超常現象の橋渡しをするスタンスを取っており、本質としては後者に軸足をしっかり置いているのだが、そのバランス感覚が良いことは『ネオフィリア』でも述べた通り。
 一方、「そんなことがあるのか」とひたすら驚かされ、驚きのあまり笑い出す所も数多くあった。何と言う不思議な世界だろう。何と言う不気味な世界だろう。世界の半分、いや(多分)数%しか生きていないなんて、全く勿体ないことである。

 人間の潜在的能力はほとんど無限大である。それが極小と言っても良いレベルまで落ちているのが現在。科学の力と引き換えに私たちのほとんどは地球に根差し、宇宙の星々の影響を感じ、あらゆる生命や電磁気的情報と交流する感性を失ってしまった。例えば太古の巨石時代の人々はその能力を持ち合わせていた。だからこそあのようなものを作り上げたのである。
 そうした感度と能力を再び回復することは出来るのだろうか? 今の流れが続く限り、恐らく永久に出来ないだろう。しかし私も含めて一部の人には、細々と、あるいは時々太くまだ残され伝えられている。この灯を消してはならないが、少なくとも私にとってはこれは証明する必要がない(ラッキーである)。自分がそれを生きれば良いだけのことだから。
 ただし著者も言っているように「このような世界」で「そのようなこと」を信じ切ることは本当に難しい。だからこそ私はこれらの本によって頭の締め付けを緩め、世界と人間の本当の姿を新たに学習し直す必要がある。 
 私たちは想像以上に、認識力に制限をかけているのだ。

「私たちは成長するに従って、周りの大人たちが馬鹿馬鹿しいとか幻覚だと考えるリアリティの側面を無視することを身に付けて行く」351

 その結果が、今の私たちの無明である。
 白人の論理好き、証明好き、そして疑り深さと批判精神には日頃からうんざりしているので彼らの言うことを政治経済科学とほとんどどの分野でも信用・評価していないのだが、そうした文化的環境だからこそ、この著者のように強く反証を試みる人が表れもするのだろう。

「我々が経験し言葉で説明するものは、それがどんなに広く実証されていることでも必ずしも現実の世界に存在するとは限らない」124

 これは単にファンタジックな主張ではなく、生理学的・心理学的に実証済みのこと。なぜなら私たちが「見聞き」しているものは脳がそのように「解釈」したものなのだから。
 逆に私たちに「見えない」ものが、過去には見えていたこともある。

「数百年前、船乗りたちは夜は勿論昼間でも金星を頼りに航海したものだ。ところが長い年月の間に我々に何かが起こった。金星は変わらないのに我々の方が変わったのだ。人間は別な技術を発展させる方を選んだ。我々は月へも出かけていくが、金星を見ることは出来なくなった」148

 あらゆることに関してそうなのだ。ここなんか、秀逸だったし目を開かされた。

「ほとんどの…言語には時間を空間的な言葉で表現するという奇妙な癖がある。long timeやshort timeという言い方は、時間を線型的なもの、区切りのある単位で構成されたものと捉えさせがちだ…何世紀にも続いたこの習性の結果、実際には秩序正しく進行するとは限らず…時には「逆行する」ことさえある時間というものに、我々が対応することが困難になってしまった」311

 時間については…理解を深めたいものである。私は色々経験しているが、まだ確かな感覚を持つに至っていない。
 日本人は白人と違って特に考えずに色々なことを受け入れることが出来る。だからこそ、反対意見や別の見方を強く押し出すこともない。しかし人類社会の今後を考えると、やはりこの言語情報優勢の世界において、言語的にこの辺りの問題が解き明かされていくことは、いくらか必要なのであろう。あくまでも最善ではなく次善としての「再洗脳」であるが。
 この人の本はもっともっと読む必要がある。

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