#190『ふたりの証拠』アゴタ・クリストフ

 この本は間違いなく私が過去最多回数読んだ小説である。横文字言語だとどんな空気なのか知りたくて、英訳版も持っている。近年は英訳版ばかり読んでいた。原著はフランス語である。著者はハンガリー人で、戦乱に伴う亡命によって、母語を捨て、亡命先のフランス語を学ばなければならなかった。元々物書きであった人が母語という恩恵を失った状態で、新たに書くーーその無力感に満ちた言語体験が、『悪童日記』のあの冷徹なまでの簡素さの源になっていたのだし、いくらか程度は緩めているが、あくまでも冷ややかで直截な調子は、本書もまた保っている。
 なぜこの本をそう何度も読み返してきたのだろうと思う時、やはり真っ先に思い浮かぶのはリュカの圧倒的な孤独である。その境遇や人格ではなく、その暗さ冷たさ、しかしそんな中にもとても不器用に愛を見出そうとしている姿、しかし結局は愛にすがることが出来ずに闇の中に消えていく姿に、非常に心響くものを感じるのである。
 人間は愛の手がかりを求めるように宿命づけられている。しかしそれが絶望的に手に入らない人がいる。戦争によって荒廃した国では、そんな人は大勢生まれ出てしまうことだろう。苦しいのは、そんな境遇でも感受性を麻痺させられなかった人である。彼らは苦しみ続ける。そして苦しみが作り出す痛みから解放されるために、自分の一部を切り捨てる。しかし切り捨てられた一部は決してなくならず、影のように寄り添う。その一つの比喩がリュカにとってのクラウスとなったが、同様に、マティウスの死ともなり、クララから得られなかった愛ともなり、ヤスミーヌとの間に遂に通わなかった心ともなったと言える。人間は途方も無い可能性を秘めた存在であり、どこまでも幸せを求めることが出来る一方、どこまでも不幸せに沈んでいくということもある。とてもつらいことだ。
 物語の構造もまた驚異的である。『悪童日記』は「事実しか書かない」という制約の下、書かれた。それを踏まえて本書は始まる。しかし中盤、双子の兄弟はいなかったことが他人の口から示唆される。なるほど…とうなりつつ、読者も自然と納得する。しかしどんでん返しで双子の兄弟は最後にクラウスとして本当に戻ってくる。「え!」と驚く。しかし最後には、この本に書かれたことは丸ごと虚構であると公文書が語る。
 初めて読んだ時の感覚は今でも思い出せる。真実と虚構が何回も翻るのだが、これは読者を面白がらせるための浅薄かつ人為的な仕掛けではなく、どれが真実でどれが虚構かだなんて、どうして判断できるのか、そもそもどっちだって同じことだーーというような突き放した諦観を突きつけられるのである。
 著者の深い苦しみが凝縮して描き出されたこの作品は、人為的な操作や計算によってではなく、ひたすらそうなるべくしてそう書かれている。ヴィクトールの件も常識的にはかなり破綻している。本編に直接関わるわけではない、あるアル中の狂人の独白と原稿が長々と続く箇所がある。この箇所は浮いている。なぜ、これが、ここに? と驚くような不調和を醸している。しかしそれが実に効果的な役割を担っている。著者はリュカの数年間を追うことで、人間の心の荒廃や絶望や相互無理解を描いてきた。しかし何かが残っていたのだろう。それをヴィクトールが出番交代とばかりに表現している。だからそれはヴィクトールの心の軌跡だったのだけれど、同時に、リュカの実人生よっては描かれなかったリュカの心の深層の軌跡だったと思われるのだ。二人はーー比重に大きな差はあるがーーある大きな絶望の苦しみを分担して語った。
 こういうことは計算づくでは出来ない。当然のことながら理屈で説明できることではない。「ただ、その時その言葉がそこにあった」というのは、心の奥深くから書かれた物語が共通して見せる印象だが、本書ではその印象がとても鮮烈である。
 私自身子供を持ったことで、マティウスのことは今までになく、悲しく、痛ましく、そして愛しく感じた。どうにかして彼に幸せになってほしかった。でもそんな願いを物ともせずに、人生は残酷である、ということを本作は容赦なく伝えている。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?