#194『月と6ペンス』サマセット・モーム

 モームの代表作で、この本で一躍名声を高めたと言う。非常にインパクトの強い人物が出てくるので、その強烈さの印象だけは覚えていた。このたび20年ぶりくらいに再読して、やっぱり途轍もなく強烈だと感じた。よくここまでの人間を描き出すことが出来たものだと思う。人間に標準搭載であるはずの倫理観、道義心、恐怖心、羞恥心という拘束の一切が取り払われてしまった男。凡庸な雇われ人でしかなかった人物が、よく分からない理由で人間性をがらりと変え、超俗的な画家に転身する。
 画家になっても全然評価されない。というか普通に下手なのである。しかし本人は自信の塊。彼を評価し庇護する人物を得ても、その好意を踏みにじり、捨てて後ろを振り返らない。最終的に彼はタヒチに渡り(この話はゴーギャンをモデルにしている)、美術界の新境地を拓いた画家として永遠の名を遺す。
 モームは振り切れた人間を描くのが上手である。『人間の絆』のミルドレッド、『お菓子と麦酒』のロウジー、この二人は女性だが、いずれも規格サイズを外れていた。今回はストリックランドという画家が、ずば抜けた個性を発揮している。それともう一人、無名しかもまだ芸風が円熟しない内から彼を称賛していた唯一の庇護者の哀れむべき惨めさ、人の良さ、これが際立っている。
 前半はかなり面白い。破天荒な人物というのは、頁を繰らせる力が強い。後半は面白くない。というか全然要らない。最後の方は読み飛ばしてしまった。
 本書は無名時代のストリックランドを知る主人公が、彼と彼にまつわる出来事を回想していくというふうになっていく。後半はタヒチに場所を移し、既にこの世にないストリックランドを知る人から話を伝え聞く、という形。構造的にモームらしく狙いすました作りといった風だが、残念ながらハズレだと思う。やはりストリックランド本人の生の声でないと、伝わるものは少ない。「ストリックランドさんはね、生前こうだったんですよ」という伝聞がそんなに面白い訳はない。所詮、これが架空の回想録であることは読者には分かりきったことなので、「架空と知りつつ、続きを知りたくて仕方ない」という魔法にかけなけれ魅力はない。その魅力が、後半にはない。
 物語のスタイルという点では、これに比べれば『お菓子と麦酒』ははるかに高いレベルで仕上がっている。しかしいずれにせよモームは面白がって脇道、横道、余談に言葉を費やしすぎる癖が強く、それが折角の物語の興を削いでいるように思える。そういうことが『人間の絆』では見られなかった(第4巻の前半にだけ、ややあったが)。それがあの作品の真摯な、魂の声を伝える風格の基礎となっていたのだろう。

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