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#23『絶対貧困』石井光太

 「絶対貧困」とは、一日一ドル以下で暮らしている超貧困層のこと。2011年時点で12億人いる。…と言われても私たちには容易に想像できないし、統計で数字を見せられてもピンと来ない。その実情はどんなものか?著者は単身、現地に足を運び、世界各地の絶対貧困層の人々と食住を共にすることで等身大の体験と観察として鮮やかに描き出す。まずもって凄い胆力、実行力である。
 結論は「絶対貧困と言われる人たちも私たちと同じように泣き笑い、喧嘩し恋愛する」。そして「先進国で語られる風説だけが彼らの全てではない」。
 貧困な家庭の中で目を輝かせて働く健気な子、というイメージ。売春させられているのは不幸な女性、という固定観念。こういうものは主にテレビによって植え付けられたもので、実情はそんなに明るい一色でもなければ暗い一色でもない。

「日本のメディアでは途上国の売春婦を「人身売買によって売られてきて、狭い一室に閉じ込められて日夜売春を強要されている少女」という固定観念で捉えることがありますが…お金に困って自分から働きに来たり、出稼ぎと割り切って一時的に働いている人が大多数…矯正売春の被害者は見つけることが難しいぐらい少ないのです」278

 私たちの人生が白色一色塗りでないように、貧困層の人生も黒色一色塗りではない。それを忘れてしまうのは、私たちの傲慢なのだろう。「でも売春は良くないじゃないか」と。しかし彼らがしていることは、普通に、我々もそうするであろうように妥当な範囲内で選択した結果に過ぎない。にもかかわらず、彼らのような人々がいることを容認できない良心の狭さが、私たちにはある。そしてそれが私たちに硬直したものの見方をさせるのだ。どうこう言っても実際世界はそんな彼らをも取り込んで成り立っている、という事実を無視した上で。

「私は娘を絶対に売春婦にさせたくないの。だからいま売春婦になって働いているのよ。そうすればご飯も食べさせてあげられるし学校へ通わせてあげられるでしょ。多分娘が大きくなれば売春婦である私を軽蔑すると思うわ。でもそうなってくれれば彼女が売春婦になることはなくなるはず。そうやってしっかりした人間になってくれれば良いのよ」
 それから六年して同じ所に行ってみました。するとその娘さんは美しい高校生になって…スラムの子供たちの多くが初等教育すら受けていないのに、売春宿の子供たちだけは高校へ進んでしっかり勉強をしていたのです。その中に売春婦になった子はいませんでした」291

 売春を否定することは恐らく安易な感情的反応なのだろう。しかし近付いて観察し、話を聞けば、そこには子を思う親の姿があるだけ。たまたま、彼らには他に出来る仕事がない。他にないから売春を選んでいる。自分を駄目にしたいから売春しているのではない。そんなことも、私たちは聞くまで分からない。見るまで知らない。
 著者は「こう見るんだ」という持論ではなく、普通に間近で観察すれば恐らく誰でもそう結論するであろう観察の蓄積を私たちに提示してくれる。
 児童労働についてもやはり複眼的な視点が必要だろう。

「児童労働は褒められたことではありません。しかしもし子供たちが仕事を失えば一家が路頭に迷ってしまう」62

 恵まれた立場にいる私たちが安易に思いつく解決策が本当に正解と言えるのか、私たちは考えないといけない。いや、考えたって分かりはしないのだから、知らないといけない。教えてくれる人がこうしていることは有難い。

 極限の貧困状態では何が起きるのか。そこには一定の必然的発生順序と共に、地域差が表れる。宗教と気候と歴史が大きく関与する。
 読後の私の印象ではアフリカはかなり危険で恐ろしい状態に達している。暴力と恐怖が蔓延している。中東はイスラム教の喜捨の精神がセーフティーネットとなって、貧困層は社会の中に一定の居場所を見つけ、循環に貢献している。イスラム教では性的なものが全般に禁忌、しかし人間、性欲はある、そこでスラムがその方面のことを「一般」社会にこっそり提供する、というように。この「必要悪は黙認され、必要悪を提供する存在は社会の〈どこか〉に必要」という相互依存関係はアジアでも当てはまる。
 アジアではやはり気候と仏教の寛容精神のおかげだろうか、絶対貧困層は社会に受け入れられているだけでなく、どことなく明るい印象も見受けられる。アフリカとは全然違う。
 アフリカでは彼ら絶対貧困層は捨て置かれている。捨て置かれたものに悪徳が集うというのはどこの文明、社会、階層でも同じこと。それがとりわけ強烈な形で発現してくるのがアフリカの絶対貧困層という気がした。以下はケニアでの話。

「町の人間は俺たちのことを恐れて近付こうともしない。飢えていても助けてくれない。仲良くしようとしても銃を向けてくる。そしたら俺たちだって他人から物を奪い、女を犯すしかないじゃないか。他にどうしろって言うんだ」101

 ここでも著者は路上生活者と一緒に暮らしている。自分に出来るか?出来そうもない…とにかくこの人には脱帽である。通りすがりのインタビュアーでないからこそ、信用して打ち明ける心の内も多いことだろう。
 先程比較したアジアではどうだろうか。

「アジアでは路上生活者は庶民の中に溶け込むようにして暮らす傾向があります…食堂の主人はご飯が余ると路上生活者に分けてあげます…こうなると路上生活者の犯罪率はアフリカよりぐんと落ちます。店の店長に顔を覚えられているので盗みは出来ませんし…庶民が違法ドラッグをやっている人たちを注意してそれを取り上げることもあります」

 やはりアジアは温厚である気がした。

 非常に学びの深い本だった。それでいて随所に笑いが散りばめられている。内容は深刻なのだが、語り口には著者の一貫した大らかで温かな性格が貫かれている。だから「うっ」と苦しくなりながらも、充分に著者の精神によって濾過された情報を私たちは無理なく読み取ることが出来る。素晴らしい体験報告、調査報告である。

 最後に先日『深夜特急』の感想文において、貧困国の貧乏人に対するお恵みについて書いた。「自分探しの旅」という点で『深夜特急』はヘッセの系譜、つまりロマン主義思想に連なるものであるが、「自分探し」においては何もかもが深刻になり、非常にしばしば取るに足らないことが重要視され、無用に哲学的、独善的になる傾向がある。私は沢木耕太郎もヘッセも非難したい訳ではないが、ただ人間の心の双極性として、これを重要な問題だと考える。
 「自分探し」をしている時、人は社会から恩恵を受けるだけで、その受けた恩恵の中で思索に耽る。しかし恐らくそこで得られる答えは一つもない。なぜなら社会に恩を返していないからだ。恩を返すというと大袈裟に聞こえるかもしれないが、「繋がる」「分かち合う」ということである。

「彼らにいちいちお金をあげても何の解決にもならないし切りがない。だからあげるべきではない」確かにそういう見方も出来るでしょう。しかし…皆ぎりぎりのその日暮らしをしているのです。もしあなたが(売り物を)買ってあげなければ彼らはその日のご飯を食べることが出来ないかもしれないのです。もしそれが何日も続けば、体を売ったり犯罪行為に手を染めるしかなくなってしまうのです。そうした現実を前に「解決にならない」とか「きりがない」と理屈を並べてたった数十円をケチるのはどうなのでしょう。なぜその程度の買い物や喜捨を小難しく高尚に考えなければならないのか私には分かりません」171

 社会の中で全ての人が繋がりあって生きている。自分だけが「生きるに値する(もしくはしない)人生」を生きているのではない。そのことを体験として知り、重ねていくことが、本当の意味で生きているということではないか。
 考えてみれば当たり前のように、全ての人がその人の人生を等身大に生きている。本書の主題はここに一貫していると思う。

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