#191『第三の嘘』アゴタ・クリストフ

 またもこの驚異の三部作を読み終えてしまった。勿論今となっては初めて読んだ時の興奮はないが、改めて感じ入ることも多かった。この三部作、だんだん構造が複雑になっていく。何が嘘で何が本当か、何が事実で何が空想だったのかが分からないまま話は進み、しかしこの第三作において全てが収まるべき所に収まる。奇跡的なまでに収まる。だからと言ってカタルシスのようなものは一切ない。深い溜息で本を閉じる。
 本作に比べたらまだ『ふたりの証拠』の方が優しく感じられる。それくらい本作は救いようがなく悲しく、冷たく、寂しい。人間は寂しさによって死ぬ生き物なのだということが痛いまでに感じられるのである。物理的残虐性は『悪童日記』で存分に描かれた。本作が描き出す残虐は、魂においてのこと。リュカもクラウスも幸せではない。不幸に向かって進んでいく自分の人生を止めようともしていない。
 世の中のある人は自分の意志で幸せになれと言う。そしてそれを実現できる人もいる。しかしどうしてもそうはなれないように人生を「好きにさせる」しかない人もいるーー自分では決して手懐けることのできない蛇のように。そういう人は悲観的なのか? 悲観的だろう。自己憐憫的なのか? この問に対しては私は「そうだ」と普通なら言う。しかし本書を読むと、そんな甘い話ではないと感じる。
 著者に自己憐憫のかけらもないことは、この三部作を読んだ人なら誰もが同意すると思う。にもかかわらず、「人生を不幸に向かわせたまま放置するのは自己憐憫が原因」という因果関係が成り立たない。要するに、「もっと更なる不幸」というものが私たち人間の辿り得る可能性としてこの世界にはあるのだろうとしか言いようがない。
 本書が読者を混乱させ幻惑させる語り口は魔術的である。『悪童日記』と『ふたりの証拠』は一応、地続きだった。しかし『ふたりの証拠』の最後、これまでのことは全てご破産にされて幕が下りる。そこから続いて『第三の嘘』が始まるのだが、『悪童日記』『ふたりの証拠』に出てきた人物や場所や挿話や属性が、手品のように形を変えて、または裏返してもう一度語られる。
 かなり、唸らされる。何という技だ、これは、という感じである。今まで見てきたのは夢だったのか幻だったのかという気持ち、これは著者のテクニックは勿論あると思うが、それ以上に著者自身の感じた、感じてきた戸惑いや疑い、不安定性の中で生きてきた実感が、その生々しさ故に読者に疑似体験を促すのではないかと思えてくる。
 人は苦しみの中で「ああだったら」「こうだったら」と願う。その願いが現実よりも大きな比重を占めるようになった時、ある種の人は小説家になるのかもしれないが、この著者は突出している。魂の苦しみから一切の感情を剥ぎ取ってここまで切実に描き出した人を他に知らない。
 何度読んでもやはり一片の救いもない。絶望の最後の残り滓まで全て出しきって物語は終わる。初めてこの本を読み終わった時、本を胸に抱いてしばらく動けなかったことを思い出した。これほどまでに辛い気持ちになる本なのに、間違いなくまた二度三度と読むことになるだろうと思われる。

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