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#38『エクソシストとの対話』島村菜津

 かなり戦慄の走る、しかし単に怖いというのではなく(怖いけど)、「そういうふうになっていたのか…」という驚きと共に世界を見る目が改まる本だった。エクソシズムはキリスト教世界における「お祓い」であり、それを行う専門家をエクソシストという。しかし神道のお祓いに比べてかなり怖い、危険な感じがする。そこには確実に悪魔が存在するのだ。
 日本には、悪魔はいない(と私は考えている)。アメリカ先住民族も、「悪魔などいない、あれは白人たちの妄想だ」と言っていた。しかし一方で、私の仕事柄、悪魔や悪霊の類については考えざるを得ないことが多く、また実際いると考えている。ではなぜ日本には悪魔がいないのだろう、と考えた時に浮かんだ言葉は「神州」だった。多分、海に守られているからである。ちなみに悪霊の類は水を超えることができない。ただ、人の移動がグローバルに活発になった今では、事情も変わってきていると思うけれど。北アメリカにも今や悪魔が跋扈しているように(これはディープステイトとかそういう話ではなく、実際、悪魔に関する話が多い)。
 宗教には顕教と密教の二側面が必ずあるが、私は顕教としてのキリスト教しか自分は知らなかったようだ。密教としてのキリスト教はずっと悪魔祓いをしてきたのだ、ということが、この本から読み取れる。しかしその伝統も今や途絶えつつある。

 カトリック教会は過ち(魔女狩り)の反動として…悪魔の存在までも否定してしまった。今では神学校でもエクソシズムを教えることもなければ、悪魔の起源についてさえ、碌に学ぶ機会がない。エクソシズムの経験もなければ立ち会ったことすらない司祭がほとんどで、結果、悪魔祓いそのものを信じられなくなっているのです」69

 現代人の物質主義合理主義的な考えを一旦措いて考えると…この地上に「人間」と、見えざる存在=「悪霊」の群れが太古の昔からいた。この者たちをどうするか、ということが人間にはずっと死活問題だった。私は古代史に関して、実はそういう見方をしている。我が国の日本武尊の東方遠征は悪霊退治と私は考えている。現代の歴史家はこれを「実際には何々の意味であろう」と物質基準に置き換えてしまうのだけれど、私はそうではないと思う。だって、何のためにわざわざそんな言い替えをするんだ。「何々族を倒した」で良いではないか。それを「**山の神と戦い…」と書いたら、私はその通りのことが実際起きていたのだと思う。そして何のために日本武尊がそんなことをしていたのかというと、この日本を悪霊を追い払って人間の住める土地に変えていくためだったのではないか、と考えている。ま、知らんけどね。
 確かに言えることは『新約聖書』にはイエスによる悪霊退治のエピソードが何度も出てくること。これは数年前に『新約聖書』を熟読した時、実に驚いた。「キリスト教は愛の宗教だ」と先行知識を植え付けられているから、その目で聖書のテキストを追う習慣がついているけれど、「キリスト教は悪魔祓いの宗教だ」という前提認識で読んでごらん、そんな話ばかりだから。そしてそっちが多分本当のことなのではなかろうか。じゃないとなぜ最後に黙示録が鎮座しているのか分からない。
 イエスは悪魔祓いと愛の伝道を二つながらした。この二つは密接不可分な事業なのだろう。

 ところで本書の出来だが、良くない。題材は素晴らしい。また取材内容も素晴らしい。日本人がイタリア語を駆使し、イタリアの精神世界でも最深部にして暗黒の領域であるエクソシズムの現場に入り込み、当事者や関係者から知見や体験談を引き出したこと、更にエクソシズムの現場報告まで成し得たことは実に簡単に値する。エクソシズムに関する本を読むのが初めてだったこともあり、お腹いっぱいになるほどに新しい知識を得ることが出来た。また私の場合、積年の謎の多くが解かれた。
 一方で、著者の姿勢と解釈能力、的の定め方はレベルが低いと言わざるを得ない。エクソシストが言っているように、悪魔憑きと思われる症状も、実際には心理学的症状であることが大半(97%(66頁))。だからその大多数の方を見れば「エクソシズムは一つの方便でしょう。患者が何らかの心的体験をすることで病が解放に向かうことがある。箱庭療法でも退行催眠でも良いのです」という解釈は勿論、成り立つ。しかし他方(3%)には完全にエクソシズムでなければ対応できない、また理解不能な事象が数多くあり、そちらの事例も本書はしっかり掲載している。
 にもかかわらず話の進め方が①エクソシストによるエクソシズムの説明⇒②現場体験(ここでクライマックス)⇒③他の合理主義的な視点の提起⇒④著者なりの解釈、というふうな章立てになっており、エクソシズムの世界にのめり込んで読み進めてきた私としては、③で一気に水を差され、④については「素人が何を言っとんじゃ、違うわ」という感じで終わった。
 なぜこんな進行にしたのだろうか? 時々こういうタイプの取材者の本を見ることがあるが、自分の考えを変えられない人なのだろうと思う。自分の理解を超える現実が起きると、どうにか自分にとって理解可能な枠組みの中にそれを抑え込もうとして、合理主義的、科学的な解釈を援用する癖がある。もっともそこまでなら中立性を保つことによってかえってエクソシズムの真実味を深める効用もあるかもしれないが、しかしもしそうだとするなら順序が間違っている。正しくは「中立的視座」⇒「エクソシズムの現場」でしょう。逆をやってどうするんだ。「このきゅうり、無農薬で本当に美味しいんですよ!」と宣伝した後「まあ、きゅうりはきゅうりなんですけどね。色々他にも美味しいきゅうりはあるし」みたいなこと。「エクソシズムを迷信、思い込みという見方もある。しかしほら見てごらん、これが現場だ」で、行って欲しかった。
 更に著者の解釈を入れたことは決定的に良くなかった。著者は心霊研究に造詣がある訳ではなさそうだし、全くの門外漢であり、しかも霊的なことに関する感度も低いのが分かる。そういう人が短期間の取材の中で自分の理解力を超える現象を見聞きした所で、それに対してどんな意見も持てるはずがない。いや、持つのは自由だけれど、それはエクソシストの生の声を主題とした本の中に並列的に並べる価値のあるものではないはず。
 そういう訳でこの本の評価は、題材は良いが、出来は駄目、と言わざるを得ない。それはそれとして、エクソシズムについては更に学びを深めていきたいと思う。


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