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#66『上杉鷹山と細井平洲』童門冬二

 再び上杉鷹山。上杉鷹山は江戸時代、米沢藩の財政再建をした名君だったが、彼のブレインに細井平洲がいた。この本は主として細井平洲に光を当てている。
 読んでみると非常に納得、上杉鷹山の言行のほとんど全ては細井平洲の忠実な再現だった。敢えて言うなら、上杉鷹山にオリジナリティは無いとさえ言っても良い。ただしこれは悪口ではない。むしろ最高の賛辞である。
 なぜか?
 しばしば理想と現実は食い違う。細井平洲は民間の学者だったが為政者ではなかった。だから米沢藩の藩士が諸手を挙げて彼を歓待した訳ではなかった。むしろ「殿様に余計なことを吹き込みやがって、学者が」と敵意丸出しの者も多かった。実際、7人の重臣が反逆した時、槍玉に挙げていたのは他ならぬ細井平洲だった。
 どんなに細井平洲の思想と理論が正しかったとしても、それは現場で証明されないといけない。証明されるまでは敵意と疑いがあり、証明する過程では抵抗がある。殿様は学者の言うことだけ聞いていれば良い訳ではない。家臣の言うことも聞かないといけない、民の言うことも聞かないといけない、そして何より最大の脅威として自分の中の恐怖がある。味方を失うことへの、敵を増やすことへの。
 それで思い出すのは劉備が諸葛亮を軍師として招いた時、関羽や張飛は非常にそれを嫌がった。しかしあくまで劉備は諸葛亮を信頼し、諸葛亮の献策を採用することで成果を示し、部下の心を変えていった。
 ただし劉備は常に諸葛亮に頼り、諸葛亮と同じ脳味噌になることはなかった、と私は思っている。だからこその入蜀の遅れとか、白帝城の敗北とかがある。勿論、状況が戦時と平時で異なるが、その点を比較すると、上杉鷹山は完全に細井平洲と同じ脳味噌になっている。ここに上杉鷹山の凄さがあると思う。
 細井平洲の思想の根本は思いやりであり、朱子学ではなく、根本としての儒学にある。思いやりを欠いた財政再建は民のためにならない、そもそも民あっての国であって、その逆ではない、というのが彼の考えである。享保の改革などが明らかな失敗だったのは、思いやりを欠き、ただ数字だけを見て倹約を民に強いたからだ。そういうことをやっていれば必ず田沼意次のような人が出て重商主義に振れる。そして重商主義を嫌って今度は倹約に立ち戻る。こんなことばかりやっていては経済はいつまで経っても安定しないし、当然、上向くはずもない。
 今の政治だってそうだが、心が大事だなんて、ほとんど誰も思っていない。小手先のことばかりをやっている。心が大事だ、という主張はあまりにもロマンチシズムに聞こえると感じる人が多いだろう。しかし心こそは車輪の中心軸であり、その他の全ては副次的な結果なのだ…という理屈は、ある種の人にとってはたやすく理解できる(きっと文学的センスのある人だ)。逆に小難しく考える人や心の狭い人には、理解し難いことだろう。
 細井平洲はこのように心を第一として考え、そのためにまず人を変えるのではなく、自分が変わる、殿様とて例外ではない、と言い切った所に真の賢人、聖人の風格がある。上杉鷹山がこれを丸ごと理解できたのは、この上もなく単純な真理だったからだ。真理はいつも単純である。ただエゴはそれに抵抗する。上杉鷹山はエゴを屈服させるのに苦労を感じなかったのか、それとも苦労しながらねじふせたのは分からないが、とにかく常に真理を採って政治に映した。並大抵のことではない。
 上杉鷹山が細井平洲に学んだ時間は決して長くはなかった。常に隣にいて軍師が君主に献策するという風ではなかった。細井平洲は時々、遠くの地で上杉鷹山の言動を聞く。または久しぶりに再会した時、本人から聞く。そのたびに「その通りです。素晴らしい」と感じる。何という見事な師弟関係であろうか。上杉鷹山のもう一つの素晴らしさは、師に対して終生謙虚であったこと、しかし依存しなかったことである。
 落ちる所まで落ちた米沢藩だからこそ、天の助けが振り下ろされたと思えてならないが、まさに適材適所にその時、上杉鷹山という君主が、そして細井平洲という師がもたらされた。このような組み合わせが歴史に何度起きるだろうか? 決して多くはないだろう。私はここに政治の最高の理想を見る。

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