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#24『ご先祖様はどちら様』高橋秀実

 二つの意味で良い本だった。一つ、大笑いする。本を読んでこんなに大爆笑したのは久しぶりである。著者の朴訥とした、天然系の感じが良い。第二に、非常に霊的な感覚を刺激される所がある。
 この本は著者が自身の家系図を遡って調べていくというものなのだが、当然のように途中でいくつもの疑惑、偽装、粉飾、思い込みが紛れ込む。それに対して著者は「何が本当か」と知的に迫るのではなく「何が本当っぽく感じられるか」と感覚的に味わいながら近付いていく。
 系図の話はだいたい「遡れば源氏の」みたいな話になる。うちもそうである。だいたい、それは嘘である、と相場が決まっているが、実際には遡れば遡るほど祖先の数は増えていき、天皇家とさえ血縁関係がない可能性の方がはるかに低くなってくる。

「先祖の数は代を遡るたびに二倍になり、20代遡ると100万人を超え、27代前には1億人を超えてしまう…どんな人にもその祖先に一、二は有名な人があろう…誰でも立派な人の後裔だと言い得る素質があり…皇室の赤子であり分家であると言えよう」60

 家系図で「繋がり」捏造は常套手段。しかし把握できる範囲の「架空の繋がり」以上に、把握できない範囲の「実在の繋がり」がもっとある。

「大切なのは『繋げる』という意志。家系に誇りを求めるのではなく、誇りを持って家系を繋ぐ」130

 悪く言えば捏造。良く言えば「物語化」といった所だろうか。だから事実がどうであったかより、自分の中に響くものがあるかどうかが大事、ということになるだろう。
 しかしこれをこの著者以外の人が書いても別に面白くもないと思う。やはり、人柄が良いのである。

「(先祖は)武士じゃなかったのか…私は肩を落とした。言われてみればかねがね私は武士道には違和感を抱いていた。時代劇も苦手だった」108

 「まあ気を落としなさんな」と思わず肩を叩きたくなってしまうこの弱気な感じが絶妙に心をくすぐる。しかし同時に私はこうした感覚こそが、人間の非常に鋭い霊的な方向感覚ではないかと思う。

「先祖探しは思い出せない夢のようなものかもしれない…たとえ思い出しても言葉にすると事実関係は矛盾だらけで時間の前後関係も滅茶苦茶になる…やがてその破綻も忘れてしまうのだが、きっと『何か』が残っているはずで、私たちはその『何か』を掴もうとしているのだろう…家系は考えるものではなく感じるものだと思うしかない」215

 この著者の人格は非常に絶妙な塩梅で、存在するのがこの世の奇跡であるような気がする。霊的なこと、曖昧模糊としたこと、証明のしようのないことを信じ込むのではない、しかし拒絶するのでもない。となると普通「まあ色々な考えがあるので」くらいの、あらゆる視点から等間隔に距離を取った、要するに詰まらない思考しか生まれてこない。そういう当たり障りのない見解を「大人の考え方」と思い違えている人は多いが、単に臆病なだけ。頭の反応が鈍いだけ。著者はそうではなく、「そうなのだろうか、分からない。いや、しかし確かにそう言われればピンと来る、私のこの性格は先祖譲りか…」といった具合で、非常に良い意味で素直なのである。どんな方向から、どんな色合いでくる体験や情報に対しても。柔軟で、隔てがない。
 そんな著者が最後に、「死」を境に自分と祖先を隔てていたことに気付く件。

「(墓参りで)死んでいるのに『元気でね』というのもおかしな話ですけど、なんかそういう気持ちになるんですよ」
 そうだったのか、と思わず私は声をあげた。そこにご先祖が「いる」なら、たった一言「元気?」「元気でね」と声をかけてあげれば良かったのだ。なぜその一言が出て来なかったのかと言えば、生前私は祖父や祖母に優しい言葉をかけたことがなかったからである。生きている内にしなかったことは、死んでからも自然に出来ない。そう思うと涙が溢れてくる」258

 今この部分を引用しながら、あなたがこの世界にいてくれてありがとう、とこの著者に対して思った。こういう心を持った人が。

 いくつかの箇所で、刺激されてこちらのご先祖が動き出すのを感じた。ご先祖ともっと繋がりたい、供養して差し上げたいという気持ちも自然と湧いてきた。
 このようなことをスピリチュアル系や宗教的枠組みではなく、生活の延長線上で語ることは実はとても難しい。疑われる不安、自分はおかしな考えを持っている訳ではなく、という事前の自己弁護、感覚や直感を信じることに対するためらい。そういうものは常に書き手の意識を束縛している。
 こと霊的なことに関して物書きというものはほとんど常に凡庸であると私は考えている。なぜなら彼らはそっちの方に自分が言葉を費やすことのないよう、厳しく自制する癖をつけてしまっているからだ。それは一人前の物書きの矜持なのだろうが、夢枕とか偶然とか、そういうものを排除して描き出せる人間世界の領域など狭いに決まっている。事実、そういうことがあるのだから。そういうものを「気のせい」と捨て去るのは、乳児や幼児の存在を無視して語る社会や経済の議論のように一面的で皮相である。
 どうしてこの著者は、このような世界の中でかくも柔軟で鷹揚な精神を保ちえたのだろうか。そしてそれがひねたりせず、こんなにもあどけなさと無垢なおぼつかなさを残したまま表され得たのだろうか。この著者の心が見る世界はとても私の好みに合っている。もっと読みたいと思う。
 
 著者の先祖については結局分からないままに終わったが、どうもそれで良いらしい。むしろそれで良いらしい。

「分からないからこそ先祖は「ご先祖様」なのである。もし先祖の記録が現代の個人情報のようにどこかに保存されていたらゾッとする…全部揃っていたらそれこそ逃げ場がない。先祖が残した家系図も、実は「知らなくて良いこと」を消すためのものだったかもしれない」226

 私ももっと祖先を感じ、繋がりたいと思った。

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