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水深800メートルのシューベルト|第9話

 何秒? 何分? 何時間か経ったのか? 気分がふんわりしてきた。緑のシートがぼんやりと眼に入るがもはやどうでも良くなっている。体も軽くなる。雲が浮かんでいるような軽さだが自分から何処かへ行くことはできない。いや、何処かへ逃げ出したいという気にもならない。口の奥から眠気と倦怠がせり上がってくる。それは、僕の外に吐き出されようとするが、そうはならず、鼻と眼の奥を通って後頭部の深い深い所へと突き抜け、そこでじんわりと広がっている。
 肩を押える手は変わらずそこにあるままだが、その力も重力も僕には関係のない世界にあるような気がする。遠くで話をしている者がいる。
「ゲイル先生。注射したら静かになっちまいましたよ。死なないですよね」
「ジアゼパムだ。不安が消えて少しまどろんでいるだけだ。心配するな」
 低く威厳のある声が、体全体を浸らせた。

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