【短編】 あわいせかい
イブキが意識不明と聞かされた後の記憶がない。気付いた時はリビングのソファーに沈み込んでいた。目の前には強張った母の顔がある。
「ああ、気がついた、よかった。このままだったら救急車呼ぼうかと思ってたんだ」
いま私どうしたんだっけ。母の声が緩むのを聞きながら、受けた衝撃を思い出した。
「急に真っ青になって倒れるんだもの。みのりまでまさかって、お母さん、怖かったよ。痛い所はない? 気持ち悪くない?」
「大丈夫……ねえ、それでイブキは」
「まだ目が覚めないって。お医者さんも良く判らないらしいのよ。入院先は教えてもらったから、明日にでも会いに行けるよ」
「会えるの? 会ってもいいの?」
「他のお友達には遠慮してもらってるけど、みのりちゃんならって、イブキ君のお母さんが。それよりみのりこそ本当にもう大丈夫?」
私はただ驚いただけ。でも母には心配させたくなくて、温かいものが飲みたいと伝えた。
イブキと私は幼馴染だ。お互い二年毎に異動のある会社の転勤族のこどもで、雪国の小学校で一緒になった。
家族用の賃貸物件が限られた小さな街。二重のサッシ窓と雪除けのテラスがある集合住宅の二階と三階。それぞれの家のニオイ。それからイブキの家のリビングの、壁に貼られた日本地図。
「赤いピンは今までに僕が住んだとこ。緑はおじいちゃんとおばあちゃんの家。みのりはどこに住んでたの」
指差した地域に「じゃあ、ここがみのりの街ね」と、黄色のピンを押してくれた。
一緒に過ごしたのは一年と少しだったけれど、母親同士が親密だったお陰で、近況はいつも届いていた。
再会はこの街での高校入学。
中三時に転校していたイブキは既に賑やかな存在で、女子の間では少し騒がれてもいたらしい。私は呑気な外部枠。そこから二年の夏休み明け、吹奏楽部長就任に悩む私が愚痴をこぼしたのを境に、もう少し近い仲になる。
「ねえみのりって、イブキと付き合って……ないか」
「うん、ない」
「でも仲良いよね。身内みたい」
周りにも色々言われたけれど、私達の間柄は普遍的、汎用性の高い感じ。どうしても名乗るなら親友。または最前線の戦友かな。
その戦友の欠席が増えたのは年が明けてからだ。師走から体調が芳しくなかったらしく、留年が決まった時には学年中の空気が沈んだ。
手続きで久しぶりに登校した彼は飄々としていた。友人や後輩達に囲まれ和やかにしているのを、私は遠巻きに眺めていた。
何度も転校を経験した私達は、環境の変化が当たり前だった。周囲に執着しない心根だって、皆より早めに習得した。それ故に気付くコトもあるし、どんな形が正解かも判らない。
けれども私はずっとイブキの味方でいたい。何かの支えになれたらいい。
イブキの体調の良さげな時に、お互いの端末でやり取りをした。けれど直接会う機会はなかった。
「尾羽打ち枯らした姿は見せたくない」
それはそう。誰だって自分の弱わったところなんて、ましてや友人達になんて、きっと決して見せたくない。
私は会いに行っても良いのかな。眠っているのなら、本人に判らないからいいのかな。
日曜日の午後は晴れていた。八階の二人用の病室。窓側のベッドでイブキが眠っている。枕元の横には小棚、パイプ椅子がひとつ。隣のベッドは空っぽ。
入室した途端、口をへの字にしてしまった私を見たイブキのお母さんは、母を談話室に誘った。部屋には私とイブキが残った。目から何かが滝のように溢れてしまい、慌ててイブキの枕元に突っ伏した。
❇︎❇︎❇︎
あの後また気を失ったんだろうか。
(まさか、私、寝ていた?)
顔をあげたら目の焦点がぼやけて、周囲がしばらく判らなかった。
目の前に立っているのはイブキだ。
「起きれるようになったの!?」
思わず叫んでしまった。でもイブキは強張った表情のまま、ジッと私を凝視している。
そうだった、イブキは弱った自分を見られたくなかったんだ。まだ誰にも会いたくなかったんだ。どうしよう、私が来たことが嫌だったかも。
けれどイブキの着ている服が病院指定の寝間着と違う。パジャマとも違う。青と白の細かいストライプのツナギはスマートで、少し折り返した袖から見える腕は、引き締まって健康そのもの。何かの作業をしていたみたい。
強張ったイブキの表情が私にも伝染した。
「今日ね、おばさんに呼んでもらって、お母さんとお見舞いに来たんだよ。気分はどう?」
「……ごめん」
「ごめんって、何が?」
イブキが黙る。ここで私はやっと、自分も立ちあがっている事に気付く。座っていたパイプ椅子がない。そういえばベッドもない。カーテンも枕元にあった小棚も、窓もドアも。お見舞いに来た病室とは別の、白い立方体の空間にいた。
「ここ、どこ?」
「ああ、ええと」
イブキがうろたえる。左側の壁に腕を伸ばすと、触れた先にはドア一枚分の通行口。
「悪い、少し待ってて」
通行口はイブキを向こうに通すと、また白い壁に戻ってしまった。通気音が僅かに響く。まるで白い箱の中だ。
何これ映画みたい。何が起こったの。
急いでイブキの触れた場所を手繰ったけれど、変化はない。生体性反応かな。壁に沿ってぐるりと一周してみても、私では何も動かせない。
何が起こっているの。
さっきまでは普通の病室だった。だったらここも病院内? この部屋の形状、まさか無菌室? 私達に未知の病原菌が見つかって隔離中とか?
やっぱり映画みたい。でもおかしい。
浅知恵なりに考える。ここは自分の夢の中とか。だったら目が覚めるのを待てばいい。壁に持たれると、今度は右側の壁が光った。
なに、今度は何?
恐る恐る確認すると、一辺が一メートル程の正方形のガラス窓が出来ている。ビクビクしながら触れてみる。水族館の水槽みたい。開閉は無理そう。私、なにか作動装置に触れたかな。
外を覗く。空はもう夕方なのか、気配が全体的に桃色だ。のっぺりとした街並みに見覚えはない。真下に並ぶ街路樹の葉が紫色で、この樹は判る。ベニバスモモだ。雪国の小学校の校庭に植えてあったのを憶えている。
思い立って掌を叩いた。痛感がある。夢にしてはかなり変。私達まさか。
再び通行口が開くと、イブキが籐のカゴを持って戻ってきた。彼に似つかわしくない素朴な雑貨。
「わあ、可愛いカゴだね」
好みだったので思わず反応したら、少し間を開けて「オヤツ持ってきた」と返事があった。
変な間。何の間? それに持ち物が状況とそぐわない。イブキは窓を見咎め「勝手にどこ触わったの」としぶい顔をするので、
「知らない。勝手に開いたんだよ」
私も壁際にへたり込んだまま拗ねて言った。
「もう、なんなのここ」
「まあいいけど。何か困った?」
「全部訳わかんないよ。なんでもう夕方なの?」「夕方?」
「夕方じゃん。暗くなりそう」「夕方……」
イブキは端にカゴを置くと、一緒に窓の外を眺めた。
「ねえイブキ」「うん?」
「私達ってしんだの?」「は?」
「ここって、あの世じゃないの?」
イブキがフッと吹き出した。それから「それ、採用したいけど微妙に違う」と笑った。やっと私の知っているイブキの顔が見れた。
「せっかくだから外に出ようか」
イブキが通行口を出した。白い空間の外には、私達の高校とまるで変わらない施設がある。廊下、階段、昇降口。靴箱の前で戸惑っていたら「そのまま出てもいいよ」と言われた。
私の足元は家から履いてきたスニーカーのままだ。
❇︎❇︎❇︎
桃色のぬるい空気のなか、人影のない歩道を二人で歩く。ベニハスモモの並木道が続く。
「この樹、小学校にあったよね。みんなで葉っぱの色がシソみたいだって騒いだの」
「覚えてないな。どこに植えてあったっけ」
「ほら、正面玄関の東側。花壇もあった所」
思い出すままにベラベラと喋る。イブキは「覚えてない」と「忘れた」しか言わない。
「なんでそんなに忘れるかな」
「この後のこと考えてるからだよ。海に行こう。少し先に駅がある」
「今から?」
「許可貰ってるから大丈夫」
籐のカゴがユラユラ揺れる。イブキってこんな風だったっけ。
小さな駅が見えてくると、イブキはポケットからゴムでくくった小さい紙束を出して、一枚を私に譲ってくれた。固い紙の古い切符だ。不思議な文字が記してあるから、やっぱりこれは夢のなかだ。もうそういうことにしよう。
古い木造の駅の改札口を抜けた途端、正面にゴトゴトと電車が入った。
「あ、私、これ知ってる」
つい大声を出してしまう。だってナローゲージ鉄道だ。線路が七六二ミリ幅。車体の幅が二メートル強しかない、カーブを曲がる時の車体の揺れが独特の、可愛くて玩具みたいなレトロ電車。
「乗ったことあるの?」
「小学校を卒業した街で走ってたよ。短い路線だったけど、可愛いし珍しいから年賀状の家族写真に使ったよ。イブキんちにも送った筈だけど」
イブキはやっぱり覚えちゃいない。それにしても全国でも希少な車両は、本来は海には行かない。夢のなかって何でもアリだ。窓口のおじさんが切符にパチンと穴を開ける。
向かい合うシートの正面にお互いが座る。車体幅が狭いせいで足がぶつかる。
「ちっさ」「マジちっさ」
二人でクスクス笑い合う。この可愛い電車にイブキと乗るだなんて思わなかった。夢のなかってすごく楽しい。
電車がゴトゴトと走り出した。足下からモーター音が響く。最初に短い橋を渡ったのを皮切りに、越える橋が少しずつ長くなる。海抜に近い街独特の平たい気配。河川口が近くなる。
景色が変わるのは好きだ。全部後ろに流れてしまうから気楽だ。
あちこちの街に住んできたけれど、二年毎の転校は毎日が大忙しだった。少しずつ聞きかじって体裁をつけて、丸くおさめて次に向かう。その都度のお別れは辛いけれど、いずれ痛みは消えるし、嫌な時はじっと耐えてやり過ごす。何かに浸る暇もなかった。
むしろ私は、期限が無くなった時の方が辛かった。イブキに話を聞いてもらった秋の日。吹奏楽部の悩みの大元にあった私の面倒。
「うちのお父さんも、私の大学受験に備えて単身赴任にするって。もう私、転校しなくていいんだって。どうしよう、私の体内時計、同じ場所では二年しか保たないんだよ。三年になるのが怖いよ」
今だってもう、集中力が途切れてお利口モードが出来なくなりそうなんだよ。どこの街でも二年で終わると思って踏ん張ってきたんだもの。しかも吹奏楽部の部長だなんて、活動時間も範囲も長いし、もう私、絶対無理。
きっとイブキにしか理解出来ないであろう話。
「そうか、みのりもとうとうその日が来るか」
先に経験したイブキにしか、笑い飛ばせてもらえなかった話。
「で、俺は今年がその三年目なわけだ」
「イブキは今どんな感じ?」
「むー、そうだなあ」
あの時に話したこと、私はすごく覚えている。でもここは夢のなかだから、隣のイブキに覚えはないだろう。
イブキの隣に座る籐のカゴも車体に合わせてコトコト揺れる。中身はステンレスの水筒と紙袋だ。本当にオヤツが入っているんだ。
「お菓子って何だろう」「いま見たい?」
慌てて手を横にぶんぶん振った。
「お行儀悪いから後でいいよ」
「みのりのお母さんが持たせてくれたよ」
お母さんが? いつの間に。ていうか、うちの母、今どこにいるんだろう。さっきの建物の中かな。イブキのお母さんと一緒に、談話室にでもいるのかな。
進行方向の右側に水平線が見えてきた。桃色の空の下、大海原は桃色をうつしてまったり佇む。
進行方向先に、今度は真新しい大きな建物が見える。海に面して威風堂々。あの駅舎は、まるで空の玄関みたい。
「次で降りるよ」
ナローゲージと、対極みたい。
❇︎❇︎❇︎
天井の高い近代的な駅舎に圧倒されながら改札を抜けた途端、波の音が出迎えた。目の前には桃色の海。車道を渡った先には砂浜に降りる階段もある。
一気にテンションが上がった。そもそも波打ち際があるだけで無性にワクワクする。階段を駆け降りて、スニーカーの底に砂がまとわりつく感触を楽しんだ。
「ちょっと先まで行こうか」「先って、どこ?」「あそこ」
イブキの指差す先は岬の堤防だ。
「もうすぐほんの一瞬だけ、周囲が蒼くなるよ。多分、綺麗だよ」
「蒼って、日没で?」
「やや違う。でも海って怖いんだぞ。慣れてないひとは早めに帰ろうな」
誘っておきながら行程のショートカット。言いくるめられた感もするけれど、思い出した。イブキは海の街にも住んだ事があるんだ。ここは経験者の意見を聞こう。
細い堤防は海の上に掛かる橋みたい。足音を話し声を、波の音が次々消した。
海は美しく空も穏やか。ところで何処から蒼くなるんだろう。
「そういえばこの海、太平洋か日本海、どっちかな」
返事がない。聞こえなかったかな。夢のなかだから関係ないかな。答えてくれないイブキは、いま何を思っているんだろう。
さっきから思案顔をするイブキは今、何を思っているのだろう。
この流れなら聞けそうだと思った。浅はかな思い付きかな。波の音がまた邪魔するかな。それこそ夢のなかだから、それこそ許してくれないかな。
「イブキ、まだ空を飛んだりする?」
イブキが切なそうな顔で振り返った。どうしよう。聞いたらいけなかったかな。
初秋の放課後、自分の愚痴をこぼした後に教えてもらった、イブキの内緒話。
「みのりの話を聞いてオレ自身も納得出来た。これって体内時計が狂ったせいだな、きっと。三年目の弊害だ」
日常生活のなかで時々、心が身体から離れてしまうと言うのだ。
「気がつくと俺、空を飛んでるんだ。それで、上から自分や皆を見てるんだ。俯瞰ってヤツ」
「待って、じゃあその間の自分の身体はどうしてるの?」
「もちろん自分自身はそこに有る。普通に授業を受けたり、動いたり喋ったりもしてる。意識もある。抜けるのは心の一部ぽくて、だからかな、その間の反応は薄いらしい。周りは天然だって思ってるからいいけど」
病院で検査を受けても、何処も悪くはなかったそうだ。
「心療内科で薬を色々処方されたけど、それも酷い頭痛と吐き戻しで絶対呑めなかった。そのあと東洋医学に出向いて、それから人づてで、いわゆる視えるヒトにも会わされた。とにかく急だったし、親には心配掛けてるからさ」
こんな話、みのりにしか言わないぞ。だから内緒な。軽い口調のイブキに神妙に頷いた私。
「じゃあせめて、心の浮遊が自由に出来るとか」
「残念ながら出来ない。コントロールしたいよ。そしたら少しは楽しいのに」
まるで気楽じゃない話を、イブキは気楽そうに言った。
「私、ずっと気になってて。空を飛ぶのと具合の悪いのって、何か関係があるのかなって。でも愉快じゃない話だよね。聞いてごめん」
謝ったらおかしいかな。
でもイブキは謝り返してきた。
「こっちこそ……ごめん。こんなところに呼んでしまって、本当にごめん」
「こんなところ?」
イブキは来た道の空を指差す。さっき降りた駅舎の向こう側だ。
「なにアレ!?」
空には巨大な三連リングが浮かんでいた。とてつもない大きさの、全周に宝石を嵌め込んだ指輪に似た、幾つもの光が輝く飛行物体。こどもの頃に科学教室で触れた、地球ゴマも連想させる、輪っかをグルグル廻す、不可思議すぎる変な物体。色々あり得なさすぎる。
「何なの、何のアトラクション?」
「世界への扉。丸いけど」「世界への?」
「殆ど知られてない事実だけど、この世にはあの色の数だけ世界が有る」「この世?」
ここは私の夢のなかじゃないの? 呆ける私にイブキが静かに言う。
「まず、今いる場所は薄朱の世界」
だから桃色の空気。夕暮れだからではないということ。
「それから、みのりがいつもいる所は、蒼の世界」
だから空も海もあおいこと。
「あの扉から放たれる光は定期的に色が変わって、世界同士が繋がる隙間を作る。ほら、色が段々と蒼みがかってきてる。みのりが元の世界に戻るならあの光がある内だ」
イブキがわたしの手を取った。
「待って、意味わかんない」夢の展開がわかんない。
「私、どうやってここに来たの?」
「俺が呼んでしまった。俺の欲で。でも欲が湧き出した同じ頃、向こうの俺が無意識のなかでそれに気付いた。同時にこちらに制御を掛けてきた。ちょうど俯瞰を始めた時だ」
❇︎❇︎❇︎
向こうの誰がなんだって? もっと訳が判らない。
「……みのりへの欲が強まるにつれて、向こうのイブキの心も身体から離れる時間が増えた。今の睡眠障害はここと拮抗しているからだ。だけどみのりを戻せば全部治る」
話がまるで見えやしない。
「世界が色の数だけあるって……異次元が沢山あるってこと?」
「そちらの表現だと多分そう。色と色には境が無いように、少しずつ違う世界が無数にある。でもどの世界にも、俺がいてみのりがいる。人間関係も様々で、好き合う円満な世界も有れば、逆もどこかに存在してる」
リングはゆっくり動いている。
「ただ、この世界だけはあの扉が有る特別な場所。無数の世界の大元だ。繋がる原理を作動させて、ひとをも行き来させてしまう。昔から言われる神隠しや転生のいくばくかも、あの扉が関わっていて、本来は厳重に管理されているんだけど」
蒼の光が近づいている。
「でもほんの時々こんな誤作動がある。普通は一般人の俺になんて絶対反応しないんだ」
「だけど、何で私が呼ばれたの?」
「薄朱の世界のみのりに蒼の世界のみのりが一番近い。それで」
それで。
「この世界のみのりは、間に合わない病で」
イブキは口をつぐむ。いやでも察する羽目になる。
籐のカゴは、こちらの私の愛用品だったという。オヤツのお菓子はこちらのみのりのこどもの頃からの好物で、こちらのお母さんが今でも陰膳で焼くのだという。
「ほんの出来心だった。またみのりに会いたくて、どこの世界のみのりなら一番近いのか、扉に出向いて探してしまった。まさか本当に反応するとは思わなくて」
私の手を取って蒼の光に向かう。
「あの蒼の光は、みのりの帰還用に出してもらってる。前は乱暴な申請が横行した時代が長く続いて、でも今はそれは間違った選民意識だとくつがえされた。厳しい規定も出来た。もちろん事情によっては、良い神隠しもするけれど」
焦って説明するイブキに、いつものイブキが重なった。
イブキも選民意識が大っ嫌いだって言っていた。前に通った中学が、住んでいる地域で上下関係があって、大人もこどもも無駄にプライドが高くて馬鹿げていて死ぬほどくだらなかったって、心底嫌そうに話してた。
こちらのイブキも変わらない。なんで泣きたくなるんだろう。
「こうしている今も、向こうのイブキが無意識のなかでみのりを引っ張ってる。向こうのイブキは強いな。でもそれで向こうのイブキの体調が落ちて」
「じゃあ私の異動がイブキの悪化の原因なの?」
「違うそうじゃない、みのりじゃない、俺の欲だ、繋がってるんだ、ここと蒼が近いから、二人の関係も」
「じゃあ私も向こうで病気になるかな」
「ならないよ。ならないでくれよ。近いのは心の在り方で身体じゃない。環境だって違う。もちろん気をつけては欲しいけど、それにしても」
桃色の世界にひとすじ、蒼の光が通る。
「俺の心臓、向こうのイブキにガンガン叩かれてる。向こうのイブキの怒りがすごい」
籐のカゴの紙袋の口を開けて、
「でもこの痛みは自分の良心だって信じたい」
イブキは私の前に出す。
「本当は返したくない。折角の誤作動なのにって、欲に駆られる」
持たされたカゴの、妙にしっくりくる感触。
「さあもう時間が無い。おばさんが作るお菓子、食わなくていいから、帰る前に見てやって」
なかには黄色いふわふわの焼き菓子が入っていた。
「みのりは藍の世界で元気にしてる。それが判って俺も嬉しい」
蒼の光が真上に来た。周囲が光に包まれた。
なんだろう、細胞が薄くなってゆく感じ。イブキの声が小さくなる。
「便利すぎるとろくな事を考えない。誓うよ。引っ張るなんて二度としない。向こうのイブキにも謝っておいて。気を付けて帰ってな」
弱虫で御免な。幸運を。元気で。そう聞こえてきたけれど、
「じゃあ、じゃあ、どうしようもなくなったら、不幸な世界の私を探してあげて」
それできちんと申請して引っ張ってあげて。でも必ず最後まできちんと面倒みてあげて。このシステムを、正しい幸せの為に使って。それからここのお母さんにどうぞよろしく。
めちゃくちゃ大声で叫んだ。めちゃくちゃな言い方だった。でも聞こえた筈だ。だって私は吹奏楽部長なので、肺活量だけはある。
籐のカゴだって、この後どこかの不幸な世界の私が、まっさらでここに来るかもしれない。ここで楽しく使うかもしれない。
「このカゴは俺が最後の誕生日にプレゼントして」
最後に小さく聞こえてきたので、
「ねえ、もしかして、この世界のイブキとみのりって」
急いで大声で聞き返したけれど、空間に遮られて、もう返事がなかった。
美味しそうなお菓子は波に取られてしまった。彼岸のみのりに届くと思う。
❇︎❇︎❇︎
気付いたら元の病室に居るのはお約束だ。同時にイブキが目覚めたのもお約束だ。
「おはよう」「おはよう」
久しぶりに言葉を交わす。時間の経過が僅かなのも全て常套だ。あの地球ゴマはシャラくさい。
「イブキの無意識ってスゴイね」
「とんでもない、知らんよ、俺はさっぱりわからんよ」
全容を語る気力もない。今はまだ、それぞれの意識の奥のおはなしだ。「助けてくれてありがとう」と伝えてイブキが照れて、
「変な夢見だったね」「お疲れだったね」
訳の分からないやり取りを交わして二人でヘラヘラ笑っていたら、母親達が談話室から戻ってきた。
「イブキ、目が覚めたの!?」
おばさんがみるみる涙声になって、急いでナースコールを押したので、私達はそっとおいとまをした。肩の力が抜けた。
帰る途中、見かけたパン屋でふわふわのカップケーキを買った。
「懐かしい。こういう蒸しパン、小さい時によく食べたのよ。おばあちゃんが作ってくれてね」
母の小さい頃の思い出の味だった。少しずつ、小さくリングしているらしい。
新学期、イブキがひとつ下の学年で復学した。周囲の心配をヨソに、本人は少しのズレを楽しむと笑った。心の浮遊も止まったそうだ。
私もこの街での三年目を、ゆらゆらと楽しむ事にした。不安になる度に、別の世界の自分を思いやった。あの世界のイブキ達が、ちゃんと元気で居るといい。
退院の内祝いとして、イブキの家から可愛いカゴバックが贈られた。綺麗な朱のサイザルだ。イブキのお母さんのお見立てで、今では母のお気に入りだ。
蒼の世界の私とイブキは、幼馴染みで親友で、最前線の戦友だ。お互い困った時にはきっと、自由に闊達に助けに出向く。
おしまい