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クリーニング◐2020.12.12

ごきげんでいられるように、すべてを整えていく。

雑魚からチリから足元に転がる小さな石ころまで

丹念にひとつひとつ、「違うこと」から足元を洗ってゆく。

そうすると、ふと

惚れた腫れた恨み辛み嫉み妬みの類が

凄まじい存在感であったはずのそれらが、
魂をのっとるかのごとく、わたしの人格を変えていたそれらが

まぼろしであると、中身はからっぽであると、

脳天から丹田のあたりを突き抜けるように、すこーんと落ちてくるように、「わかる」タイミングがある。

頭の理解でなくて、ハッと意識が目覚めるように。

恨んでいるんじゃくて、恨みたいだけ。
許せないんじゃなくて、「許せない」という感情を手放したくないだけ。

それらは自分が作り出した
まぼろし、幻想、架空のなにか。

「ととのっていない」状態に触発され、
反射的にでてくる思考の癖のようなもの。

玉ねぎを切ると涙がでてくるそれと同じ。

それらと、わたしは、まったくべつのもの。

それらを「わたし」と思ってしまうのは、
低級霊とかそんなもののイタズラなのかもしれない。

恨み続ける、ということは
現実のエネルギーを過去に切り売りしてるようなもので

肉体は現実に、魂は過去、みたいな

恨みの記憶の分だけ、私の分身がそこにいる、ような

多次元的に時空が存在するのなら、恨み続ける無限のループにハマっている過去の自分がそこにまだいるわけで

あぁ、もう戻っておいで
済んだから、戻っておいでと

引き上げてくる感覚。そうすると過去も消える。

現実にエネルギーが戻ってくる。

それらが、いわゆる
統合とかインチャケアとか、クリーニングとか

そういうものなのかなと。思うのです。

ひとつひとつ、丹念に。
記憶が出てきたら、過去に息衝くわたしを、戻す。
その場をクリーニングする。

過去を無に返す。

現実を望む眼光が、しっかりと、生命力を帯びてくる。

未来もしかり。恐れや不安も同原理、ですね。

過去に未来に生きないこと。
今に生きること。
そして、生きたい次元に生きること。

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