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睾丸譚(捻転する人)

第55回新潮新人賞 応募作




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 睾丸が痛い。去年の暮れから。
 あれほど待ち望んでいた年末休みも三日もすればやりたいことが尽き気力も失せ、退屈な時間を潰すため、中田圭佑は七畳1Kの自室で昼間からオナニーをしていた。ベッドの上で仰向けになり、左手に二次元ポルノを表示したスマートフォンを持ち、右手でちんこを夢中で摩る。エロ漫画を捲る指が進み、いよいよ昂りが極まろうとしたまさにその時、突然左側の金玉に異常を感じる。はたと見ると、左玉がぐぐっと、身体の内側に引きずり込まれていくように動き出す。小虫が皮膚と肉の間を這いずり回っているかのような不快に中田は「あっ」と悲鳴を上げたが、それを意に介す様子もなく左の玉はずるずると玉袋の付け根の奥に入っていき、それっきりになった。
 中田は真っ青になって飛び上がり、勢いそのままぴょんぴょんとジャンプした。万年床と変わらぬ、掃除されていないベッドの上のホコリやら陰毛やらがぱらりぱらりと飛び散り、むき出しの男性器と金玉袋がぶるんぶるんと震えるが、それこそが意図していたことだった。振動を加えて、左の玉を正常な位置に戻そうと考えたのだ。
 そんな奇矯な発想に至ったのは、この間抜けで繊細な臓器についてのある病気を知っていたからであった。それは精巣捻転という。精巣と下腹部は、血管や精管、神経等のいくつかのケーブルで繋がれていて、それらはひとまとめに精索という束を作っている。何らかの要因で精巣がくるりと回ってしまうと、この精索が捻れてしまい、そこを流れている血が止まり、急ぎ手当をしなければ鬱血そのまま精巣が壊死してしまう。
 実は以前から中田は左の金玉に異常を持っていた。精索静脈瘤と呼ばれる症状で、その名の通り精索を走る静脈に瘤が出来てしまっているのだという。これが血流を阻害し時折痛みや不快感を生む。人間の精巣というのは左右非対称で、いうなれば右側の方の精索が本線で、左のブツはおまけのような細い支線で繋ぎとめられているに過ぎない。故に捻転にしろ静脈瘤にしろ、一般には脆い左の方で起きやすいとされている。ちなみにここまでの右、左というのは、全て中田自身の目から見下ろした時の左右である。
 人間の体内が左右非対称であること自体は、小学校の体育で50メートル走を全力疾走した後、血の味がする息をしながら左胸を抑えることを通して人生の早期にとっくに知っているはずだった。しかし外見的には基本シンメトリーを保っている睾丸もまた例外ではないという事実を医師から聞いたときは、なかなか直感に反していて驚いた記憶がある。
 ということもありこれまでの半生、ちょっとした違和感であれば持病として許容してきていたわけだが、物理的に金玉がどうやら突飛な挙動をしたらしいという感覚はこれまでの人生で初めてだった。さらに仄かに痛みもあっていよいよ恐怖を覚えた中田は、それが精巣捻転症ではないかと推測して、その捻じれを解消しようと飛び跳ねたのだった。
 数分ほどそうして跳ねては様子を見て、ということを繰り返した。そして風呂場に行って鏡で左の様子を確かめてみた。水垢まみれの鏡越しに見る中田の金玉袋は筋が薄く細く、代わりに使い古したレジ袋のように数多の皺で包まれている。そして肝心の金玉の左半分は、抉り取られたかのように不自然に凹み潰れていた。恐る恐る指を這わせてみて、中田は絶句した。左玉はそこにはなかった。
 金玉袋は自然で正常な振る舞いとして、主に温度の変化などに応じて大きく広がったり小さく縮こまったりする。暑いときには表面積を広げて放熱を試みるし、寒いときはその逆ということだ。自然のエンジニアリングの賜とでも言うべきこの機能があることから、金玉袋が萎び縮こまることそれ自体は目新しいことではないが、鏡で見ると今の袋は左だけ縮こまってしまっていて右は全く普段通りという様子なのだ。更に玉そのものまでないとなると、いよいよやはり物理的にというか器械的にというか、左の精巣がどうにかなってしまったのではという疑念が深まる。
「バグだ」
 中田の呆然とした呟きが、狭い浴室の中でも響いた。左玉消失バグ。俺の金玉はバグってしまったのだ。
 一つだけ良い兆候があるとすれば、左にはちくりとした痛みが走ることはあれど、それが増悪する様子はないということだった。捻転が起きていると先述の通り精巣の壊死が始まり、その際には到底我慢が出来ないような激痛が下腹部に走るらしい、ということも知っていた。それこそ救急車を呼ばなければいけない状態であるし、そうした判断に至って然るべき痛み、ということだ。それが起きていないということは、捻転症ではないのかもしれない。
もっとも中田としてはそのような明るい予感に取り敢えずは縋るほかなかった。というのも、本来ならさっさと近所の泌尿器科にでもかかれば良いところを、あたりの病院はどこもかしこも年末年始で仕事をすっかり納めてしまっていたからだった。
 しかし捻転でなければ一体これは何なのだろう。グーグル検索で「金玉 動く 戻ってこない」であるとか「金玉 迫り上がり 違和感」などと調べても、症例は一切出て来ない。ヤケクソになって「金玉 消失 バグ」と調べた。ネコの金玉の写真が出てきた。

   ◆

 大晦日に実家に戻り、家族には金玉の異常と痛みを隠しながら年始を過ごし、再び東京の自宅に帰って直ぐ近所の泌尿器科に行った。初老で白髪の男性医師に、
「あのう、金玉がバグってしまったのですが」
と伝える訳にもいかず、淡々と症状を相談した上で精巣捻転の懸念も抱いているのだと説明すると、「捻転だとしたらとっくにもう手遅れのはずだからね」と、励ましなのか諦念なのか分からないような言葉を掛けられ中田は悲嘆に暮れた。ともあれ実際に患部を見てみようということになったので、中田は勢いよくズボンとパンツをさっと下ろした。
今更このようなことに躊躇があるはずもない。何せ高校生の頃に精索静脈瘤の診断を受けたときには母に連れて行ってもらった大学病院で、女医に対して同じことをしてみせた経験があるのだ。ベッドで仰向けになってM字開脚をし、女医に下腹部を触られ羞恥の雄叫びを上げ、ジェルが塗られた超音波検査器具をグリグリと押し当てられ恐怖の悲鳴を漏らし、それをカーテン挟んで向こう側に居る母に全て聞かれるという体験を思春期の真っただ中で経ている中田にしてみれば、この期に及んで中年男性に金玉を見せることなど造作もないことだった。
 玉袋を見て医師は「なんともなさそうですね」と言い、中田は歯噛みした。そんなはずはない、と叫びたかったがそうも行かない。実は帰省中に実家で実施した数度のデバッグ作業を通して、左玉消失バグは勃起時にほぼ確実に起きるものの、数時間ほどで元の状態に戻ることを突き止めていた。戻る瞬間の、ずむり、と玉が蠢く感覚に目を瞑れば多少嬉しい進捗であったものの、しかしこれは勃起しない限りは医師に異常を見せることが出来ないということだ。
「そうなんです。異常が出るのはその、勃起しているときで……そうだ、ここで今」
「いや結構です」
「しかし、そうしないとお見せすることも出来ません」
 医師はくたびれた皮財布のような額に皺を寄せ、こめかみを掻いて、
「では、今度その症状が出た際には写真を撮っておいてくれませんか。次に来たときにそれを見せて貰えればと」
 その提案は合理的で、焦燥にかられていた中田とてその場で爺を前に自慰をするようなことも避けたかった立場としては渡りに船の話であったので「ではそうします」と頷いた。
 続いて触診なのだが、高校の頃の女医とこの男性医師とで共通していることとして、医者というのは金玉に対する敬意が全くない。まるでドアノブを雑巾で拭き掃除するときのような粗雑な手付きで触り、弄り、あまつさえ掴み、握り、捻るのだ。女医があんなにも乱暴だったのは精巣を持っていない故だろうか、と当時の幼気な高校生は無用な思い遣りをして悲鳴のほかは文句一つこぼさなかったのだが、二〇代も後半となった今、東京の地で再び悲鳴を上げながらどうやらこの無理解無礼は医師一般の傾向らしいことを覚った。いやそれもまた、妙な類の感情をそこに介在させまいというプロフェッショナリズムであるのかもしれないが。一枚薄っぺらい合板の戸を隔てた待合室は地元の老人で一杯だったが、そんなことは知ったことかと中田は甲高い咆哮を放ち、その度に医師は不愉快そうに顔を歪めた。
 その調子で超音波エコー検査まで行い、結論としてはやはり捻転症は起きておらず、精索静脈瘤の所見のみ、という診断となった。他に大きな病巣の危険――それこそ癌であるとか腫瘍であるとか――もないだろう、ということだった。左金玉消失バグについても必死になって説明をしたが、視覚的な症状が解消した今、あとはただつっぱるような不快感が残されているのみで、きっと精索静脈瘤の症状の表れだろうということになった。
 精索静脈瘤は原則、自然に治ったりするものではない。他方、僅かな痛みと違和感を断続的に与えるものの、それ自体が直接大病に繋がるようなものでもない。そのため基本的には様子見し、持病として抱えながら生きていくことになる。ただ、静脈瘤が膨らみ周囲の他の管の流れを阻害することを通じて精巣の機能を低下させ、男性不妊の原因となることもあるらしく、その場合には根本治療として、血管の一部を縛り上げて血流を減らし瘤を縮めるような手術を行うこともあるらしい。そのような動機がない限りは、わざわざそんな大手術を行うようなことは基本的にはないのだという。それはかつて母と一緒に受けた女医の説明と同一で、高校生の頃に聞かされたそれは当座の問題の棚上げを可能とし精神の余裕を与えてくれたが、社会人となって五年近く経とうとしていた今の彼にとっては別の意味を帯びて聴こえた。

   ◆

 直近で自らが不妊治療を要するかどうか、それすら判断する必要がない状態にあることは中田自身が一番良く分かっていた。生まれてこの方彼女が居たことがない、正真正銘の童貞だった。
 令和の時代に生きる恋愛機会に恵まれない独身男性らしく、マッチングアプリをしたり街コンなる行事に繰り出したりなどして相手を求めていた時期もあったが、二十数年間に渡って独り醸成してきた理想像に適うような出会いはなくここまで来ている。恋愛へのモチベーションには周期的な側面があって、仕事であるとか趣味だとかに熱中している時期は、今はそれに入れ込んでいるのだからと色恋のことを忘れて没頭出来るのだけれど、それらが落ち着いたり、あるいは会社の同期や学生時代の友人などがインスタグラムに結婚や出産を報告していたりするのを見たりすると、置いていかれている自分、欠落してしまっている自分というものを強く意識させられ、それを取り返そうと下手な試みを表面的に繰り返してしまう、そのような格好だった。
 だが、医者からの言葉を聞いてその時に抱いた焦りはこれまた異なる趣を持っていた。それまで中田は自分の、内向的で内省的でリスクを避け、自己愛の強く妥協をしない性格といったソフトウェア的な側面に難を抱えているがゆえに、自分はつがいと巡り合えず子孫を残せないのだという自己認識をしていた。しかしここで、ハードウェアとしての人体の子孫を残すための機能に不全が生じうる可能性を示唆されたのだ。
 その不安は幾つかの形で痛みを中田に与えた。まずひとつには反射的、本能的な恐怖があり、続いて生まれ得るはずだった子孫に出会えないかもしれないということへの人並みの悲哀もあった。だがそれらは実際のところ一瞬で、より痛みのメインを占めていたのは、「なぜ子供を作るかどうかといった土俵にすら立てていないような俺が、子供を作るための体内器官について痛みを覚え、しかも土俵に立てていない故にそれを治療する選択肢も禄に取れない状況に陥ってしまっているのか」、という二重の理不尽さについてだった。
 痕跡器官という言葉がある。生物は環境に合わせて進化をするが、それは必要なものを残し伸ばすだけでなく、不要なものを減らし退化させていくことを、世代単位で少しずつ行っていくプロセスでもある。そのような退化の過程にあり、今やまともな用を為していないとされる身体の部位を指す言葉だ。有名なのは歯の親知らずや、腸の虫垂。一般にこれらは使われていない余り物であると見做されるばかりか、親知らずは変な生え方をして虫歯の悪化の原因となったり、虫垂は食物のかすが詰まって炎症を起こしたりと、個体の生命にとって余計な害悪を及ぼすことすらある。
そうは言ってもまっすぐ生えた親知らずは健康な永久歯としての機能を全うし、場合によっては他の歯のスペアとすることができるし、虫垂は虫垂で消化や免疫機構に寄与しているという研究もある。しかし進化は個体単位のそうした短期的利便ではなく、長期的な時間の流れにおいて繁殖に有利か不利かという合理的な効率計算に沿って行われていくから、いつしかこれらも退化しきってしまうのだろう。
 さて、この中田にとってみれば、彼の金玉は純粋な痕跡器官であるように思えた。オナニーはあくまでオーガズムを目的にしているのであって、射精はその副次的な行為で、オナニーにおける精液はたまたま出てくるから処理するだけの副産物に過ぎない。その器官を本来の用途に使ったこともなければ使う予定もない。陰茎は排尿のためにも、快感を得るためにも用いることができるのとは対照的だった。それどころか、手なり口なり耳なり鼻なり、人間の身体の部位の殆どが本来の用途から外れた文化的文脈の下で活用され動員されている中で、金玉は金玉でしかない形で在り続けており、特権的な立場を享受しているようにすら思える。そして虫歯や盲腸になるのと同じように、このように存在するだけで余計で不快な痛みを与えてくるのだ。
 しかしホモ・サピエンスという生物種のオス個体にとっては、むしろその根幹を司る器官なのだ。なにせ進化の大前提である個体の再生産に直結する器官であり、なんなら他の身体の全ての機能はこの睾丸内で精子を生産し適切な温度で保存し卵子へと送り届けることを目的としているような節すらある。オスの金玉が退化することはないだろう。金玉を不要とするような、あるいは持たないホモ・サピエンスの個体は、少なくとも自然環境下や現代科学と倫理規範の前提においてはその遺伝的な子孫を残すことはないからだ。何なら「金玉は不要である」と自分の遺伝子にコーディングすれば恐らくエラーメッセージがピコンと表示されるだろう。0で除算したときと同じように「そのような入力は想定されていません」といったポップアップウィンドウが浮かぶさまを想像して中田は少し笑った。そんな金玉が悲鳴を上げるというのは、生命としては最も恐れるべきことに違いない。
 理性は怯えつつも冷めた視線を送り、巨大な生命の流れは合理を計算する一方で、個体としての本能の振る舞いはまた違った。皮肉なことに、男の性欲はその状況になっても衰えることはなく、むしろ増したようであった。生命個体として果たすべき機能を果たすことなく終わることを良しとはしない、そのような目的意識が働いているかのようだった。しかし身体は愚かなもので、実際に子孫を残せるような状況で行われたかどうかに関わらず、射精し絶頂を迎えれば性欲は解消された。そのくだらなさに中田は覚えがあった。
 中田が勤める会社は最近不振に喘いでおり、新たに社を支える柱を求めて空前の新規事業ブームが到来している。バックオフィスで働く中田は、ギラギラと営利の種を探し求める事業部門のやろうとしていることをサポートしたり、時には不備を指摘して逆上されたりといったことを生業としている。新規事業関連の打ち合わせにZoomで参加すればアジェンダだとかMVP(最小機能要件製品)だとかアジャイル開発だとかといったフレーズがなんの説明もなく矢継ぎ早に使われ、そのたびに「当たり前ですみたいな顔して横文字使うんじゃねえよバカがお前だってついこの前覚えたばっかりだろ浮いてんだよ発言の中でその言葉が」と思いながらも、そんなことはおくびにも出さずわざわざ質問などもせずにさっとブラウザで検索し、こちらも当たり前のような顔をしてその言葉を受け止めそのまま使ってみせるようなことをして日銭を稼いでいるわけである。
 KPIという言葉も頻出で、これはある目標を達成する上で、その達成の具合、度合といったものを測るのに設定される指標のことだ。中田の会社では、数値化が難しい定性的な目標の達成度を判断するために、目的に相関しそうな定量化可能な数値目標としてそれが設定される。例えば、ある年度時点でその事業が成功しているのか、それとも失敗しているので撤退するべきか、といったような判断に際し、ある時点での契約者数だとか契約率だとか営業利益率を指標とし、その達成可否をもって撤退可否を決めるのだ。相関「しそうな」、というのがミソで、まず黒字になっているのであれば撤退判断など不要で、赤字になっている状況でその苦しい事業がもう一生好転しないのか、それとも何かの拍子に来年度莫大な黒字を生むかどうかなど分かりようがない。それは占いだ。成功と失敗に繋がる明確な因果関係があるのであればその独立変数側をそもそもの目標にすればよいのであってわざわざ指標設定などする必要なく、そうした連関が中間に存在しない問題であるが故にKPIという曖昧なものに頼らざるを得ないわけだから、因果推論が本質的にできないまさに占いのような論題について、「推論できている感」「論理的に判断した感」を醸し出すための道具がKPIだと中田は考えていた。
 翻って生物一個体は、自然そのものでもある遠大な生命の系譜から、「お前はよりたくさんの次世代を残せる存在なのか?」と常に問われる存在として生まれ、意思に関わらずその配られた問題を解かされる羽目になるわけだが、自分の体外の存在である別個体の数を、大脳が把握できても精巣や脳幹が把握できるはずはない。何億個の精子を製造すれば、何ミリリットル射精すれば子供が何人生まれる、というような因果関係があるわけでもない。従って射精の回数や精巣内の精液量、あるいはそれに伴って分泌されるホルモンなどといった体内でカウント可能なものを人体はKPIとしているのだろうと中田は想像した。もし精巣がすでに死んでいて、精液の中に精子が居ないような状態になっていても、精液が吐き出されさえすれば性欲はKPIの達成を確認するわけだ。身体は子孫を残した気になって、その「やってる感」で満足する。すると中田がやっていることは生命の系譜に対する詐欺や粉飾なのだった。
 しかしそれだって今やリスクを背負ってやっていることは金玉にも理解してほしいところだ。こんな天然パイプカット、強制宦官寸前の境遇にもめげず中田は必死に自慰をしているのに、その度に左の金玉は違和感や痛みを走らせ気を削いでくる。一人自室で金玉の皺を撫でながら「お前のためにやっているんだぞ」と語り掛けたところで意味はない。あるいは欲求を撒き散らしているのは右金玉で、左金玉としてはただ痛みが癒えるまで休みたいだけなのかもしれない。しかし精索の回路を切り替え右金玉のみから精液を出して射精するなどという宇宙探査機のような器用な芸当ができるわけもなく、共有財産たるちんこ一本を扱いて鬱憤を晴らすしかなかった。その度に中田はどこか、ガタが来てエンジンの掛かりもすっかり悪くなった愛車をだましだまし乗ってやり過ごしているような、そんな気分になるのだった。

   ◆

 入社当時は二十人くらい居た会社の同期とそれこそ毎日のように大学生の延長線上にある飲み会をしてはしゃいでいたが、ちらほらと結婚なり同棲なりをする人間が出てきた。自然と会社の人間との時間外の交流は減り、酒の席の面子は大学生の頃によく飲んでいた固定的な男子メンバーになりがちだった。そいつらとて「ついこの前まで彼女と同棲していたが最近別れたばかりで、今はセフレが一人居るだけ」とか「神奈川の彼女と中距離恋愛中」といった状況で一時的にフットワークが軽いだけで、中田のそれとは構造的に状況が異なることは互いに理解しているところだった。
その晩は自宅の近くの、台湾だとかシンガポールだとかインドだとか、とにかくアジアのいろいろな地ビールを飲むことができる店で、まだ週半ばの水曜日であるにも関わらずグダグダと駄弁っていた。中田からは酒の肴として金玉が痛くて仕方ないという話を供し、「性病じゃないか」というツッコミに対して俺に感染機会がないことは知っているだろうと返し、そこそこの笑いを得た。
「お前は女を怖がってんねん。せやからまだ童貞なんや。やっぱな、あん時ソープ行っとけば良かったんや」
 関西出身でコンサル会社勤めである大谷が、ほろほろのスペアリブを箸で崩しながらそう言う。この男は最近別れたばかりの方で、生粋の女好きだった。
 数年前、彼がまだ上京したてだった頃のある晩、サシで錦糸町で飲んでいると大谷が「東京ってあれやん、有名な風俗街あるやろ。あれ行ってみたいって」と突然言い出して、そのまま深夜にタクシーを飛ばして吉原に向かったことがある。だが無知な二人は、吉原のソープ街が予想外に健全で日付が変わる頃にはすっかり店仕舞いをしていることを知らなかった。寝静まった夜の街を目の当たりにして中田はすっかり気勢を削がれ帰る気満々だったが、しかしもう一人の男は執念深かった。大谷はスマホでさっと調べて「おい、早朝割りなんてあるんやな」と知ると、翌朝の開店までここで待ち一番風呂に入ることを目指すと宣言したのだ。二人は吉原の近所の公園に向かい、シャツの袖を捲ってブランコに乗ったり小さなコンクリートの丘の上で仰向けになって背中を痛めたり、街灯の下を飛ぶ夥しい数の羽虫たちから逃げたりして時間を潰した。
「まあでも、吉原ってあんな感じなんやな」
 大谷が暗くなった遊郭街の方を見やりながらつぶやいた。ノースフェイスのハーフパンツから覗く白い太腿には、虫刺されを掻いた赤い跡が幾筋か入っていた。
「思ったよりもあれやな。ソープランドが並んでるだけって感じで。もっと飛田みたいなところを想像してたわ」
「トビタ? 何それ」
「知らんの?」
 大谷はにやりと笑った。
「最高の場所や」
 そう言ったきり彼はタバコを吸いにどこかへ消えていった。その背中を見送ってから中田は飛田について調べてみた。すると出てくる絢爛なちょんの間、玄関先に並ぶ煌びやかな遊女たちの話。確かYouTubeの観光動画で見たドイツだかオランダだかの外国の風俗がこんなふうに、店頭に立っている娼婦を見て選ぶスタイルだったことを思い出した。芸能人のような絶世の美女ばかりという売り文句に、憧れと、東京の吉原も負けていないはずだという酸っぱい葡萄めいた妙な対抗心を抱いたりした。
ダイドーの自販機の明かりの前でスマホを弄っていた中田はふと顔を見上げる。初夏、そこそこの星である。地元に比べればその光は淡くとも、しかし東京でも夜になればある程度星が見えることは、当時上京したての中田にとって大きな救いだった。マンションというより団地といった趣の、学校校舎のような集合住宅の窓灯りを数えながら、こんな日本一の風俗街にも公園があり、民家があり、人々の暮らしがあるのだということに妙に心を動かされた。そして不意に、胸が苦しくなった。
やがて空が白ばみ、排気ガスがすっかり沈澱して空気が澄みきったころ。ついぞついぞと息巻く大谷に対して中田は「怖くなってきた」と告げた。
 大谷は始め笑っていたが、中田の表情が真剣なことを察すると、しばらく沈黙した。それでも、間に耐え兼ね口を開こうとした中田を制し、塾を辞めたいと言う息子に寄り添う父親のような表情で、「ほな、タクシー拾うか」と小さく言ったのだった。

 「あん時」、つまり当時大学新卒二十代前半の童貞のナイーブさに対してはそのような寛容さを見せてくれた大谷であったが、このほどアラサーにもなって自らの非モテを自虐するようなことを言う中田に対しては、それ見たことかという思いを抱いたに違いなかった。

   ◆

 そんなかつての大恩もそれはそれと言わんばかりに、現在の中田は反論した。俺の中における欠落というのは言うなれば青春の欠落であり、まともで一般的な恋愛経験をしていないこと、言い換えれば他者から恋愛対象として許容され承認されたことがないことに起因していて、行為としてセックスを経験したかどうかは問題ではないのだと。恐らくソープランドでセックスをしたところで、それは歯医者で虫歯を治療されたり、マッサージ店で肩を揉まれたり、という程度の経験でしかないのではないか。そう主張した。
「そんなんぐだぐだ言ってないで、さっさと一発かませアホ」
 大谷の更なる反駁はこうだった。むしろ、そのように異性との交流など大した行為ではないということを手っ取り早く知ることこそが重要なのだと。中田がかけがえのない経験と期待してその機会を後生大事に取っておいている行為というのは、世の人間がそれこそ虫歯治療やマッサージ店の肩揉み、どころか食事や睡眠や行楽、会話といったことと同じくらいハードルが低いものとしてありふれてこなしているコミュニケーション手段なのだ。さらに、精神的な交流と肉体的な交流の境目は中田が想像している以上にあいまいだ。女体それ自体やそれとの交流を一方的に神聖視していることが、精神的にも女性との距離を隔ててしまっているのだ。女性も自分と同じ一人の人間であり、人間との交流は気軽に行って良いことを知れ。そのようなことを、もっと俗っぽい言葉で彼は述べた。
中田に反論の材料はなかった。大谷の理論のサンプル数は彼の身一つに過ぎないはずだったが、中田の女性に関する理論はサンプル数ゼロであった。当座は曖昧な返事で、彼の言う事に理があることを渋々認めざるを得なかった。

   ◆

 中田からすれば同期の彼らも十分異性との交流というものには恵まれた部類に見えるが、自由競争が前提となったあらゆる市場の摂理と一緒で、世の中には彼らよりも異性交流を独占するような連中が実際に居るのだという。肴のおかわりとしてもう一人の同期の小山が供したのは、一人の本命と五人の浮気相手、両手で数えきれないセックスフレンドを持ちながら、新たな恋に目覚め本命を捨てて別の女性と付き合うかどうか悩んでいるという、光源氏のようなヤリチン野郎の話だった。
本命の女の子は職場で出会った相手らしく、相手の実家に遊びに行きその両親とも簡単な挨拶を済ませているような間柄とのこと。その瞬間に中田などはその子を択ぶほかに道はないだろうと思ってしまうのだが、一方で新たに出会った相手というのは雑誌のモデルをやっている芸能人でドラマにもちらほら出ているのだという。合コンで偶々知り合った二人は趣味の音楽や映画などで意気投合し、しまいには女性の方から強いアプローチを受けるに至ったのだとか。ヤリチン男はモデル女のその美貌や将来性、そして身体の相性などから強い運命を感じているが、しかし最後の決断が出来ていないのだと、小山は話を締めくくった。
 率直に言って反吐が出るようなクズにしか聞こえなかったが、社会でそれ相応の地位のある会社で活躍していて周囲からの覚えも良いというのだから、そんな彼に敵意を抱く俺は歪んだ感性を持っているらしい、中田はそう思った。小山に「お前から悩めるそいつにアドバイスなり言いたいことはないか」と聞かれたので少し考えてから、「不甲斐ない俺の代わりにいろんな女性の寂しさを埋めてくれてありがとう、いつかこの礼は返す」と伝えるよう頼んだ。その日一番の笑いが巻き起こった。
「そもそも、中田は彼女欲しいの」
 小山の尋ねに中田が頷くと、二人は「へええ」と意外そうな声を上げた。普段からそうアピールしているつもりはあっただけに、中田にしてみてもその反応は意外だった。
「彼女欲しいんやったら、そのために動かな。マッチングアプリは続けてるん」
「いや。最近はやってない。あんまり上手く行かなかったから」
「それで辞めるってことは、その程度の熱量ってことなんと違うの」
 そうなのだろうか。中田が自問する限り、そうではないような気がした。どちらかといえば、自分がいつか死んでしまうことについて普段からずっと考えている訳にはいかないのと同じだった。今もきっとバックグラウンドでその不安は走っていて、たまに顕在化し、自己を揺るがせ、また潜んでいく。黙り込む中田に小山が助け舟を出す。
「中田の話聞いてると、一人の趣味が沢山あって楽しそうで全然いいと思うけどな。なんで彼女が欲しいの。っていうか結婚願望はあるの。子供は?」
 また暫く考え込んで中田は、
「いや、彼女が欲しい、というのとは違うかもしれない。俺は彼女が、そうだな、居て欲しい」
 大谷が「はあ?」と甲高い疑問符を浮かべた。ケチャップが掛かったフライドポテトを箸で摘まんでいる。
「何がちゃうねん、それ」
「分からん」
「プロセスが怠いってこと? 告白したりとか、デートしたりとか」
 それらの過程もまた、中田の経験に欠落しているものだったので、首を横に振った。
「ただ、幸せそうだから良いな、って。俺の人生には完全に欠落してるものだからさ。朝起きたら突然、隣に彼女が寝ていて、おはようと微笑みかけてくれて、そのままハグしあう、とかでも全然いい」
「こわ。何がええねん。そんなよく分からん女がいきなし隣に居て」
 そう言われた途端に頭の中に浮かんでいた、陽光注ぐ寝室の中でのアンニュイな幸せの光景が、サスペンスホラーのプロローグの瞬間に容易に書き換わってしまった。
「さっきも言ってたけどなあ、お前の言う欠落って、なんなん。それを得たら人生に加点か? そんなな、人生スタンプラリーとちゃうぞ」
「まあまあ」
 小山が猫撫で声で割って入った。
「子供は? それも、居て欲しい?」
 左の金玉が疼く。「作りたい」と答えることが怖くて出来ない。自分に対する全ての不安、不信のせいだった。その一瞬の口ごもりが大谷には随分大きな意味に映ったようで、
「お前あれやろ、反出生主義とかそういうのやろ。思想強そうやもんな、中田」
「そんな言い方ないだろ」
 小山が困ったように笑う。
「それだって立派な考え方だし。それに、子供を持たない生き方する人なんて今どき沢山居るよ。実はうちも、彼女とDINKsで行くかどうか悩んでたりはしてて」
「あれか、ソープあんとき断ったのも実はそのせい」
「違う」
 思ったよりも強いトーンの音が口から出て、中田は驚いた。好き勝手を吐いていた残る二人も目を見開いていた。しかし、違うのだった。中田はただ、選択肢が欲しかった。反出生主義も、DINKsも、自分の意思で主体的に選んでいる限りは中田にとって尊重と尊敬の対象だった。しかしそれが「選ばされて」いるのであれば、中田が彼自身に向けるのと同じ視線をそれらにも向ける。つまり深い憐憫と軽蔑である。
中田自身、それを向けらるべき対象であるという自覚は当然にあった。童貞であり続けようなどという意思がある訳がないのだ。大学時代に習ったマクロ経済学に非自発的失業という概念が出てきたが、中田は非自発的童貞だった。しかし彼のその精神的・経験的貧困状態に対しては、日本政府も国連もOECDもNPOも、今のところ手を貸してくれる様子はなかった。
 さらに酒が進むと中田は段々真剣に、件のいけすかないプレイボーイは、社会的にも生物的にも不能状態に陥っている中田に代わって異性へのアプローチを繰り返してくれているのではないか、という思いを抱くようになった。野生の、少なくとも哺乳類の世界において、優秀なオスの元に多くのメスが集まるのは極めてありふれた現象だ。昔ツイッターで、イケメンは数多の女性を惑わせ狂わせているだろうが、それでも女性たちはそのイケメンへの愛情を衰えさせることはない、といったような趣旨のツイートを読んだことがあるが、それは真実ではないか。劣ったオスはその遺伝子を残す事なく死に、劣った遺伝子が淘汰される。厳然とした競争原理が作用している。実際、古代の伝統的な日本社会では強者たる王や将軍は複数の妻、妾を持っていた。しかし近代西欧的な倫理規範の中にある現代日本社会においては異性愛者は男女一対一のつがいを作ることが道徳的な常識とされ、法制度は全てその前提の下に構築されている。これはまさにマクロ経済学が提案するような自由競争市場に対する一種の規制であり、均等や平等のための再配分施策として機能しているわけだ。いかに優秀なオスが居ても既につがいが居ればそこに立ち入ることは原則できず、恋破れたメスはそのオスを諦め、別のオスへと再配分される、逆もまた然りだ。さらに言い換えれば、全ての男女には生まれながらにして一枠分の配偶者の枠が用意されているわけである。結婚し、子供を作る権利が国家により保障されていると言ってもいいだろう。
 本来弱者である中田は、国家の繁栄の観点から見ればその権利を行使して活用するべきなのだ。そうでないと、消費されない権利は無為に死に、社会的な便益の総和は純粋に減少する。国家として、一夫一妻制の制度を維持するメリットが存在しなくなってしまう。彼の怠惰は一夫一妻制度に対する挑戦であり、批判として機能してしまう。そして異性愛者の男女の比が一対一であると仮定するならば、つがいになることを望んでいても、どうやっても制度上なれない女性を生んでしまう。当然そのような女性が中田のような人間と結婚を望むかどうか分からず、むしろ望まない可能性の方が高い。しかし恋愛と比べ結婚が妥協の産物であるというのならば、妥協してでも結婚したいという極めて人生において寛容な選択をする決断をした人物に対してすら、制度的に結婚ができないような状況をもたらしてしまうのが中田という、制度のバグのような存在なのではないか。
 それに比べて件のプレイボーイのどれだけ精力的なことであろうか。彼は恐らく複数の人間を同時に愛することができるようなタイプで、浮気を浮気とは思ってはいまい。今の本命と別れて他の女と付き合いたいというのも、社会規範がギリギリのところで彼の気持ちを邪魔するからこそそのように追い詰められているだけで、本心なら二人と真剣な交際をしたいと思っているに違いない。本物の甲斐性がある人間だ。
 すると中田は、自分が持っているこの結婚し子供を作る権利一枠分を、その男に譲るか売るか貸すかして、活用させるべきなのではないか。規制緩和、自由競争の再設計だ。すっかり遊休資産となってしまっているこの死蔵された権利を商品か証券か何か市場で取引可能なものにしてしまい、不要な時にはそれを手放して財貨を得て、必要な時に買い戻すのだ。一見その権利の数は日本人の人口の数だけしか存在しないように見えるだろうが、取引して行使してを繰り返すことで、結婚の数は人口を二で割った数よりもはるかに大きなものになるだろう。ひとつの信用創造である。別にそれが一夫多妻、あるいは一妻多夫である必要すらなく、三夫二妻、十七夫十九妻でもいい。子を作り、育てる能力のある集団内で、N夫N妻制の結婚が行われ、子が成されていく。権利を売った者たちは売却益を種銭に資本市場での成り上がりを目指すもよし、趣味嗜好に耽溺して自らの人生の最大化に励むもよし。ともすればこれは、究極の少子化対策と再分配政策になるかもしれない……。
 中田がそう熱弁し終えグラスを置くと、二人の同期は呆れとも飽きともつかない、理解からは程遠い顔をしていた。あんなにやわらかほろほろだったスペアリブは、脂が冷えてすっかり蝋燭のようになっていた。

   ◆

 中田の自慰行為は先の見えないリハビリテーションとなりつつあった。真冬の寒さが悪さをしていたのではないかという仮説にひそかに期待を寄せてはいたものの、気温が日中二〇度を超えるような日も出てきた三月下旬にもなると、いい加減その甘い見立ても崩れてしまっていた。
 その日は、興奮に至るスピードが問題なのではないかと思い、なんとかして一定の時間内に急いで事を済ませようとした。例えば血流が問題なのだとすれば、金玉に血が巡りきってしまう前に射精してしまえば良いのではないかと考えたのだ。いつもよりも勢いを早めて、なんとか射精できた。左玉を見ると、もぞりとは震えるものの、引っ込まず何とかそこで留まっている。偉いぞ、上手に射精出来たな、と金玉の腹を撫でた。ティッシュに放たれた精の匂いが妙に久々で懐かしく感じ、その樹木にも海産物にも例えられる不思議な臭気を何度か嗅ぐ。こんな臭いものから生まれるのだから、俺も臭くて当たり前だと何故か開き直った気持ちになっていたところ、唐突に心臓がバクバクと震えだした。彼は右手を愚息から手放しそのまま左胸を抑えた。何だか気持ちが悪い。めまいのような感覚が走る。ベッドの上で仰向けになった状態で、50メートルどころか100メートル走を駆け抜け終わった後のような。あまりにも事を急ぎ過ぎたせいなのか。真ん中ではなく片方が痛いというのが、どうしようもなくその痛みの具体性と実在性を強調しているようで嫌な予感は増す一方だった。
 調べると自慰行為が原因で不整脈が出ることがあるのだという。病状で検索などしてしまえばそのような不安を呼び起こす話題が止め処なく出てくることは分かりきっていたのに、そうした情報に接するや否や実際に気持ちは穏やかでなくなり、動揺しきりとなった。また近所の内科医の所に駆け込みたいところだが生憎その日は日曜日だった。
 しかし。オナニーによる突然死などという奇天烈極まりない可能性すら容易にその先例が見つかるのに、中田の金玉の異常については未だその理由も原因も診断も判然としていない。こんなにも視覚的にも感覚的にも明白な異常が、何故全くといいほど取り上げられないのかと中田は困惑した。するともしかすると、これは本当にこの世で自分一人しか抱えていない奇病なのではないかという思いが過ぎり、居ても立ってもいられなくなりつつあった。
 せめて脈拍が正常であることが知りたい、と考えた。スマートフォンで何らかの仕組みで脈を測るアプリなどが存在していたが、そのような浅薄なものを信頼して安心できそうにはなかった。必死で考えを巡らせ、そうした測定が可能な機械が置いてある場所を思いついた。家電量販店である。中田は逃げ出すように家を出て、駅へと向かった。オートロックの彼の家で誰にも知れず一物を握った状態で死に、精液も血髄も腐乱した状態で警察に発見されることがないよう、人に見つけてもらえる所に居たいという気持ちもあった。総武線に揺られて一〇分ほどして、秋葉原へとたどり着いた。
 秋葉原の街には以前から入り浸っていた。土日両方を秋葉原で過ごしたこともあったし、午前中に行って一旦自宅に帰って、夕方になってもう一度繰り出したこともある。家電やデジタルガジェット、ゲーム、アニメ、ライトノベルなどが学生の頃から好きだったのが習慣化の切っ掛けだった訳だが、毎日毎日新たなものがそこに現れるわけもなく、いつしかそれはルーティンとなっていった。毎朝近所の公園を散歩する老人のように、秋葉原という街自体が彼の散歩コースになっていて、公園の草花の見目や香り、小動物のさえずり動き回る様子を楽しむように、新製品や新作の広告や展示を愛でる、というような格好だった。
 ヨドバシカメラの三階の健康家電のコーナーに、血圧計や体重計と並んで目当てのものが並んでいた。パルスオキシメーターだ。中田はオムロンの、そこにおいてある一番高級なものに指を差し入れる。不特定多数の人たちが試した後なのだろう、脂のぬるりとした感覚が出迎えてくれた。
 三〇秒ほどの意外に痺れが切れる待機時間の後、脈と血中酸素濃度の正常が確かめられ中田は胸を撫で下ろした。心臓の鼓動はいまだどこか不安定な様子もあるのだが、しかし数字は嘘を吐かないのだと自分に言い聞かせると、段々とそれも気にならなくなっていく。溶けかけていた自分が再び輪郭の中に納まっていく。
 不安が和らいだこともあり、そのまま秋葉原の街を散歩することにした。山手線の太い鉄道橋の下を潜って電気街口の方へ行くと、レンガで舗装された道路にラジオ会館やオノデンといった、気心の知れた街並みが出迎えてくれる。アニメや漫画の大きな壁面広告を撮るために立ち止まってる人々を慎重に避けながら、中央通りの方へと向かっていく。春の爽やかな予感を期待してすっと息を吸い込むと、汗の饐えたようなのと、洗濯物の生乾きのような臭気が入り混じった、この街特有の香りがした。それは高校の頃、卓球部の部室で嗅いだ健全な青春の香りと成分的には変わりないはずなのに、この場で嗅ぐと明らかに不健康な趣を感じ、中田はこの街でそれを嗅ぐたびににやりと笑ってしまうのだ。外国人観光客とコンカフェの客引きまみれになり、再開発の波が押し寄せたとしても、この臭気だけはなかなか除染できるものではないはずだと中田は信じていた。
 アニメ、漫画、ゲームの広告が、壁という壁、ディスプレイというディスプレイを埋め尽くすようにして並べられている。それは虚構によって現実世界を覆い尽くして隠してしまおうという試みなのかもしれない。この殻の中は暖かく温もりに満ちているが、この外に出ると、寒い。中央通りに面した中古のフィギュアを取り扱うショップの前に置かれたモニターに映った少女の一人が、街行く人々に向けて語り掛ける。
「秋葉原へようこそ! みんな、楽しんでいってね!」
 紫色のショートボブと虹色の瞳をし、幾何学的な形状のセーラー服を着た美少女が、画面の中で手を振っていた。中田はそれを暫くじっと見つめた。彼女がこちらを向き、こちらに向かって声を掛けることに期待を寄せていた。
「秋葉原へようこそ! みんな、楽しんでいってね!」
 彼女は再びそう言って手を振った。シンプルなループ映像だった。
 画面の中のキャラクターがこちらに向けて話しかけてくるようになってもう何年経つだろう。モーションキャプチャー技術の発達、カメラ、PC等の機器類の性能向上や普及などといったものが、リアルタイムに二次元アバターを動かして活動するバーチャルユーチューバーと呼ばれる存在を浸透させた。あるキャラクターが動き話す一瞬だけ切り出して見せて、それが純粋なアニメやゲームといった虚構の登場人物なのか、それともバーチャルユーチューバーなのかを一瞥のみで区別することは難しくなりつつある。故にそのディスプレイに表示された美少女を見て、インタラクティブなやり取りを期待すること自体は今の時代珍しいことではない。
 しかし中田は、眼前の彼女がバーチャルユーチューバーであることを期待していたわけではなかった。それが何に近いかと言えば、彼が求めているのはぬいぐるみと話すことであって、着ぐるみと触れ合うことではない、ということだ。バーチャルユーチューバーはペルソナであり外骨格であって、それは生身の人間あっての存在だ。中田は紫髪の少女に、生身の人間ではない、その制約を超えるものを期待していたのだ。故に中田は同じ挨拶を繰り返す彼女を見て、落胆しつつも安堵したのだった。
 この街は、短期的な孤独を埋め合わせる代わりに、長期的な孤独を固定化する。
 中田の中に、そんな言葉がふと立ち現れた。すると、この街から出ていきたいという気持ちが濃くなっていった。毎週秋葉原に遊びにいっている、というのは、どうしてなかなか一般受けは宜しくないだろう。それが何らかの生産的な目的によるものならまだしも、しかしそもそもここ最近の中田の生活を振り返ってみれば、オタク的な趣味に時間を投じることすら頻度が減り、今や中田はオタクというよりは所謂「単に絵で抜いているだけの男」というものに成り下がりつつあるのが実際の所だった。誰かに対してあの作品のここが良かったであるとかこのエピソードが印象に残っているなどと語れるようなもののデータベースは大学生の頃から更新されておらず、ひたすら自慰行為でその場しのぎの性欲の発散を繰り返すばかりだった。オタクでもなければ一般人でもない。中田は空を飛ぶ哺乳類を二種類知っている。ひとつはコウモリ。もうひとつはタヌキだ。前者は羽を、後者は金玉袋を広げて空を飛ぶ。
 そんな自分ではだめだと一念発起し、中田は秋葉原駅のatreの二階にある小さな三省堂書店で何かためになりそうな本を探し、オバマ大統領やビルゲイツが称賛したということで数年前に話題になっていた「サピエンス全史」の分厚いハードカバー上下巻を目についた勢いそのまま購入した。そんな分厚い本を手に持つのは大学のマクロ経済学の教科書以来だった。
家に帰った中田はさっそく意気揚々と上巻を読み始めたが、三〇分もしないうちにムラ付きはじめ、気付けはスマホを手にオカズ探しを始めて七〇分が経過していた。本を読んだ時間よりもその後のポルノ探しの時間の方が長いことに気付いていよいよ中田は自分という存在の愚昧さが恐ろしくなってきた。過去数万年の人類の歴史を振り返るこの本が今からこれ以上分厚くなることはない。読み続けていけばいつかゴールを迎え、その知識を携え次に進むことが出来るようになる。一方で今この間にも中田を誑かす裸の二次元美少女は増え続けていて、中田は今日のおかずを決めるだけでも遠大な時間を要した。それこそ最近は人工知能によるイラスト生成技術も進み、きっとその最先端では世界人口増加率も真っ青な指数関数的増大を見せているに違いない。それを見尽くすことなど叶うはずもない。
 自分の肉体とその限りある寿命が、無限に増え続けていく二次元ポルノにより空間的にも時間的にも、四次元的に完全に支配され、所有され、制約され、消費されているということを改めて自覚すると、それはまるで全くの虚ろの存在であるこの画面の中の美少女が、ディスプレイから発せられる可視光線を通じて中田の視神経及び脳細胞に物理・化学的な作用を与えて、この世に実体としての爪痕を残そうとしているかのようであった。二次元エロ画像という名の精子が中田の脳という卵子に結び付き、無形の存在だったその美少女が中田の頭蓋の中に現出する。やがて彼の頭が膨らみ、みしり、びしゃりと糸を引きながらひび割れ、黒く変色し朽ち果てた脳味噌の欠片とべっとりとした粘液を纏いながら、紫色の髪と虹色の瞳をした美少女が中田の頭から這いずり出てくるのだ。自分が卵子なのだとするなら、精巣は不要な痕跡器官となる。飲み屋で自分の結婚の権利を売り飛ばせば良い等とかつて言っていたのを思い出したが、真に自分が死蔵させていて市場に売り放たねばならないものはこの金玉なのではないか。この世には男にしろ女にしろそれ以外の性にしろ、子供を作りたくても作れない人間がたくさん居る。当代限りで朽ちる定めにある身を鑑みれば、そんな彼らに中田はこの金玉を渡すべきではないか。そもそも一体なんなのだこれは。俺は産まれた頃こんなものに支配されるような人間ではなかったはずで、この不恰好な肉体の特異点は俺の体に後から寄生してきたのではないか。しかし中田が追い出そうとしているのか他者に差し上げようとしているのかそれともそれが勝手に出て行こうとしているのかはさておき、最後にはメインの結線で繋がれた右金玉本体が去り、儚く虚ろに結ばれたスペアの左金玉のみが一つ残る。やがて中田と同じようにポルノに溺れ金玉が一つとなった男の集まる秋葉原の街は、どんどん彼らの頭蓋から這い出してきた虚構の美少女たちで埋め尽くされていく。人間の利便のために生み出された虚構が、人間を駆逐し、滅ぼしていく。サピエンス全史には小麦が人類を奴隷化したのだという分析が出てくる。小麦は人間に豊かな栄養を提供したがその代償として、実現されてしまった繁栄の維持のために人々を農業の奴隷にし、自らは遍く地表の小麦畑で繁栄した、というのだ。もしかすると、小麦が人類を家畜化したのと同じように、虚構の存在も人類を家畜化し、繁殖し、そして人類を乱獲して絶滅させようとしているのではないか。俺は今、過去の人類たちが野放図に進化させ繁殖させてきた虚構に食われ、消滅しようとしているのではないか。考えてもみよ。今のペースで、人々が社会の一成員となるため、人間となるために必要な知識、人倫、常識というものがアップデートされ増え続けたらどうなる。義務教育に必要な期間の増大のペースが、医学の発展による余命の延長速度を超え、そのうちホモ・サピエンスの儚く短い寿命を使い果たしても、その猿はついぞ「人間」になることが出来ないまま老いて死ぬような時代すらくるのではないか。古くなったスマホのように、ホモ・サピエンスは最新のOSを動かすにはスペック不足となり、サポートが打ち切られアップデートできなくなってしまうのではないか。あまりにも巨大で複雑になった虚構は餌となる人類を食べすぎ、食物連鎖のピラミッドバランスが崩れようとしている。ホモ・サピエンスは頂点捕食者(エイペックス・プレデター)ではなかったのだ。先進国、とりわけ日本が少子化に苦しんでいるのは、肉体すらも超克した完新世の真の支配生物種「虚構」があまりにも増えすぎ、エサかつ苗床である人類の供給が追いついていないからなのではないか。しかしその時初めて、人間は互いのあらゆる差異を超越して苗床として同じ立場で理解し合える時が来たりして。ところで虚構の遺伝子は二重らせんなのか単らせんなのか、生物なのかあるいはウイルスなのか、それによって抗生物質が効くのかmRNAワクチンが効くのかそれともWHOの発表した研究によれば
ぶるんと体が震え、中田は目を覚ました。急に首を捻ってしまい、痛みとも不快ともつかぬ違和感に呻く。生乾きの脳みそを目をこすって無理やり絞りながら周囲を見る。辺りはすっかり暗く、左手に持っていたスマホには二〇時三三分と表示されていた。おかず探しそのまま寝落ちしていたようだ。読みかけのサピエンス全史は、寝返りを打った時に潰してしまったのか、何枚にも渡ってページが折れ曲がってしまっていた。一番酷く、鞄の底のレシートのように潰れていたページにはこう書かれていた。
『サピエンスはこのように、認知革命以降ずっと二重の現実の中に暮らしてきた。……今日では、あらゆる川や木やライオンの存続そのものが、神や国民や法人といった想像上の存在物あってこそになっているほどだ』

   ◆

初夏の夜、まったく進捗を生めなかった業務を放り投げて上がった金曜日の帰り道、空の星を見上げて中田は思い立った。以前大谷に言われたことを実践するのだ。つまり彼は吉原の高級店を検索し、掲示板で慎重にレビューを調べ上げた。一一〇分七万円、ショートボブで口元はモザイクがかっているのが特徴の「みさ」ちゃん、評価は星四・三。予約ボタンに手をかけた。吉原の公園の、あの早朝の香りが脳梁で炸裂するようにリフレインする。中田の精神性自体はあの時から一歩も進んでいないのだけれども、今の彼には大谷の言葉があった。予約ボタンを押した。
帰宅ラッシュも終わり人っ気の少ない総武線上り電車を秋葉原で降り、そこから逃げ出すような足取りで山手線のホームへと降りていき、丁度入線してきた鶯色の車両に飛び込んだ。上野に向かう車内で金玉と共に揺られながら、童貞の卒業というこれまで全く発生が不確実だった出来事が、この後二〇時半から一一〇分間の間に行われることが決定したということになんとも不思議な感慨を覚えた。一体何故、今日、この日だったんだろう。仕事で上司と取引先と現場部門の板挟みになり精魂尽きたからだろうか。ツイッター上で八、九年ほど前から相互フォローで、一度上野の動物園に一緒に行ったこともある同い年の女フォロワーがセフレとのセックスの報告ツイートをした後に削除したのを見たからだろうか。昼休みにベビーカーを押す幸せそうな家族とすれ違ったとき、そういえば自分の親は、今の自分よりも二つ若い時に自分を産んでいるんだよなと急に思い至ったからだろうか。トイレで大便をしながら、この前の飲み会でまたしても童貞についての自虐トークをかましたときの大谷と小山の沈痛そうな顔を急に思い出して赤面したからだろうか。あるいは、まったく文脈上突飛な、自分でも想定外の行為をすることで、自分に起きているバグを無理やりフィックスするためだろうか。
 上野駅から黒いアルファードに乗って一〇分ほどで目的地に着いた。スーツを着た男二人が出迎えてくれ、洋館のような古びた建物の中に通された。
平成の真ん中のころ、部活の合宿で泊まったシティホテルの応接間のような、冷たく黴臭いエアコンの空気に満ちた清潔だけれども古びた待合室で先に会計を済ませ、テレビを見て待っているとボーイから呼び出された。廊下に出ればそこには薄く白いキャミソールを纏った若い女が立っていて、中田を部屋へと手を引いて案内してくれた。ホームページの写真と違って彼女の顔にモザイクは掛かっていなかった。彼女の名前を呼ぼうと思ったが、本名であるはずのないそれなどとっくに忘れていたし、わざわざ聞き直そうとも思わなかった。
部屋の中はアダルトビデオなどで幾度となく見てきた、ホテルの客室と風呂場が一体となったような空間になっていたが、実際に目の当たりにするとなんの工夫もなく二つの部屋がツギハギされていて、バグったゲーム画面のようでなんだか笑えた。遠い世界だと思っていた場所に、こんなにもあっけなくたどり着いてしまった。
 どこかで、始めに童貞であることを伝えるとサービスが良くなるだかマイルドになるだかと聞いたことがあったので、意を決して伝えてみると、別に特段大それた反応もなく、「そうなんですか、びっくり、そんな大切な機会にここを選んでくれてありがとう」などと中田が自室で一人シコりながらでも容易に思い浮かぶような台詞を言ってくれた。そのまま唇を触れ合わせるようなキスをしたり、愛撫をされたりした。ただフェラチオの際には、自分は金玉が弱いので、刺激を避けてほしい旨を伝えた。こういった場で単に「弱い」と伝えると敏感な性感帯だと勘違いされてしまう可能性があるので、あくまで病的な意味であるということを念押しした。彼女はちんこを刺激することに徹してくれた。絶対不可侵に思えた他者の輪郭に、中田の肉体の一部が承認され、貫入していく。
 するとむくむくと上がってきたのは、性欲ではなく嫉妬心だった。何に対するものなのか初めは見当も付かなかったが、やがてそれが、彼女の唇を独占している自分の生殖器に対してのものであると中田は知った。単なる自分の分身、肉の器に過ぎない存在を自分と誤認され、偽物に全てを奪われてゆくのを眼前で無理やり見せつけられているような、そんな喪失感があった。彼女に、「ちんこよりも俺を見てくれ」という思いを伝えたい気持ちに駆られた。が、それは余りにも不気味に思えて、胸に押しとどめた。
 彼女が衣服を脱ぐとその白い素肌と胸が露わになった。眼前の女体は当然にリアルな存在で、産毛も生えていればカサカサになっているところもあるし、赤く荒れている箇所だってある。しかしそのフォルムと感触は、頭の中で描いていたどんな理想的な女性像よりも、体の芯から昂りを迸らせてくるようなものを感じさせた。
 マットプレイを提案されはしたものの、女体に挟まれる形で身体をマットに押し付けるという状況は睾丸にはよろしくないだろうという危機感から断った。
 スケベイスなどという身も蓋もない呼び方をされる、座るところが凹の字になった紫色の椅子に座り、身体を洗われる。当初居心地の悪さを覚えたが、これは気持ちいいとかではなくエンターテイメントなのだろうなと思ってからは、素直に楽しめるようになった。胸を背中に当てられたり、彼女の股が自分の腕に擦り付けられたりすると、これが世に言う女体の柔らかさなのかと、名所や景勝に至ったときと同じような感動が得られた。初めて東京スカイツリーの上に登り、この世界で最も巨大な都市を見渡した時のような、あの興奮だ。しかしこれが女体一般に関しての感動なのか、それともそのように調整された彼女の身体だからこそ得られる感動なのかはサンプル不足のため判別できなかった。ちらと、彼女の顔が鏡越しに見えた。ガソリンスタンドの店員のような表情をしていた。さりげなく左玉を確かめ、まだバグっていないことに胸を撫でおろす。
 そうして彼女との身体的な感触の交換を繰り返していると、むしろ大谷が言っていたのとは正反対の感想が中田の肉体の中に昇ってきた。見れば見るほどどうしたって、彼女の身体と自分の身体は構造的に非対称である。身体と精神の分離が出来ないというのであれば、異なる身体に宿る精神もまた異なる形を取るのではないか。自分と彼女とは同じ空間で同じ時間を過ごしているが、別のように世界を感じ取り、別の形で物事を考えている、別の生き物なのではないか。町中や飲み屋などで普通に女性と話す分には、同じような構造の目、鼻、口を見て、あの同期の考えを飲み下せたかもしれない。相手は同じ人間で、同じように触れ合えると。しかし眼前に広がる乳房や女性器を見て、そのような牧歌的な結論に最早納得できる気はしなかった。シックスナインやセックスをして互いの性器を刺激し合ったところで、繰り返すほどそれは非対称性を浮き立たせることにしかならないのではないか。肉体の接合を通して精神が一つに溶けていくような感覚が素晴らしいというが、その精神が何に根ざしているかを考えると、それは錯覚に過ぎないのではないか。例え男が肛門から快楽を得て女性的な気持ちに近づこうとしたところで、それは女性にはない前立腺によって得ている感覚であり、女性の快楽とは異なる。逆に女性が男性に歩み寄ろうとして肛門から快楽を得ても、彼女に前立腺はないのでそれは男性と同じ感覚ではない。むしろ相互に快楽を共有して理解や一体感を深めていくというのであれば、身体の構造が同じ存在同士で肉体を交えたほうがよっぽど理解が進むのではないか。理性から当たり前のようにして導かれるこの結論に反して、中田のペニスは女性の裸体を見て勃起している。
それでも目、鼻、口や脳のシワの数が同じであればまだ異性間でも肉体を経由した相互理解の経路はありうるのでは、というようにも考えた。しかし生命の本質が子孫を残すことなのだとしたら、他の機構はそれを効率的に行うためのおまけに過ぎず、もっとも本質的な部分である性器の仕様が根本から異なるのであれば、それは大きな絶望を生むに十分ではないか。
それに似た感覚を、中田はもっと幼い頃に味わっていたことを思い出した。小学生の頃に読んだいきもの図鑑だ。そこで雄と雌とで全く異なる体形をしている生物種を見て、彼は恐怖を覚えた。大きく頑強そうなメスの魚と、小さく干からびそうなオスの魚。植物の雄しべと雌しべ。そして性交後にオスを食い殺すカマキリのメス。双方が同じ種であることを、彼らは自覚しているんだろうか、となんだか無性に悲しくなった記憶がある。同じ種だと知っているのだったら、二人で色々楽しく話してお父さんとお母さんと同じように仲良くなれただろうに、と。
しかし骨肉の争いを経たうえで別居状態にある現在の彼の両親の状況を踏まえると、やはり二つは別の生き物なのかもしれない。
 それでも、もし可能性があるとすれば。洗体が終わってベッドに戻ってから、中田は互いの胸への愛撫の仕合を提案した。快く受け入れた彼女はさっと腕を広げて微笑んだ。彼女のおっぱいに目が吸い寄せられる。カップ数がどれくらいなどということは分からないが、少なくとも包み込むには両手が必要なくらいの房が二つ、少しだけ重力に引かれてたわむような形で並んでいた。そしてその丘の頂上には薄茶色の乳首がある。
 誘われるがままに手を伸ばし、改めて彼女のおっぱいの、乳首をそっと触れた。おずおずとした手付きに笑いながら、彼女もまた中田と同じように手を伸ばし、彼の乳首をつつくように触った。彼女の乳首は小指の先ほどの膨らみを持ち、こちらの拙い刺激に対してわずかに充血して固くなることで反応を返した。中田のそれもまた同じだったろう。
 膨らんだ胸は女性性の象徴と見做されているが、乳首は男女双方にある。盲腸や親知らずと並び、男の乳首は痕跡器官のもう一つの好例である。男の乳腺はほとんど退化してしまっていてここから乳が出ることはなく、にも関わらず男にも乳がんなどのリスクを与え害すら成すこともある。なんなら哺乳類の一部の種ではオスの乳首が完全に退化しきってしまっている。
 だが、極めて奇妙なことに、男の乳首は快楽を感じることができるのだ。彼女の細く暖かな指が中田の乳首に触れ、甘い感覚が走る。もしかするとこれは、人間の男女の間で唯一共有可能な性的快楽なのかもしれない。この快楽こそが、異性間で唯一通用する共通言語なのかもしれない。だって、盲腸や親知らずと比べて、性が分化してオスから授乳の必要が失われてからは相当の年数が経っているはずだ。にも関わらずこのようなものが未だに残っているのは、異性との性感を通じた相互理解と交流のためなのではないか。乳房は性器ではないと、この感覚を知った上で言える気はしなかった。
 その考えは更に進み、中田は彼女に、自分の乳首を口に含むよう頼んだ。
 男が女性のおっぱいに向ける気持ちは、性愛の他に母性を求める思いも含まれるだろう。だが親母を思う気持ちに性の別があるというのは不自然な考えだ。女性にも母性を求める気持ちはあっていい。そうした女性の母性欲求の拠り所としても、男の乳首は存続しているのではないか。母性を感じるこのインターフェースを通じて心が繋がるのではないか。
 そんな一縷の望みと共に中田は再び彼女の目を見た。彼女はやはりガソリンスタンドの店員のような顔をしていた。
彼女は今、俺の精神に触っている。しかし俺の手が彼女の精神に触れている感覚はない。
中田の口の中に、どこか酸っぱく鉄っぽい味が急に広がった。
 時間が近づき、彼が二十数年の人生で一度たりとも行ったことがなかったこと、つまりセックスを行う段となった。慣れた手付きで彼女がコンドームを中田のちんこに装着すると、初めては女性主導の騎乗位がよいだろうということで、中田は仰向けになった。そして彼女がその上にまたがり、腰をゆっくりともう一方の腰に近づけていった。何故か中田はそれを見ながら、YouTubeかテレビ番組で見たAmazonの倉庫の中の様子を思い出していた。自走する台車がすーっと倉庫の通路を走り、淡々と荷物を載せ下ろしする。
ピストンが数度。
 途端に、「えっ」と彼女が声を上げた。初めて聞く彼女の人間味のある反応だった。何事かと見下ろして中田は肝が冷えた。金玉が、破裂しそうなばかりに膨らんでいた。気付くと同時に冷や汗が噴出し、呼吸が乱れる。まさか極度の興奮状態に陥って今度こそ捻転でもしたのだろうかと怯えたが、しかしおかしなことがあった。膨れていたのは左ではなく、右の金玉だったのだ。
 彼は立ち上がって、かつて自宅でしたのと同じように金玉の位置を戻す動きをしようとした。しかし出来なかった。右の金玉は膨らんではいるが、腫れてはいなかった。つまり金玉自体が熱を持って膨張しているというよりは、玉そのものが袋を突き破らんとするかのようにせり上がっている状態だった。崩れそうなジェンガを抜くときのように恐る恐る触ると、普段はだらりとしている皮が余裕なくすっかり突っ張ってしまい、下手に刺激するとそれこそ金玉は変なところにぷるりと逸れて捻れてしまうのではないかと思わせた。やがてちんこは萎びたが、それでも右玉の異常な形は治らなかった。
 彼は彼女に謝罪して、今日はこれ以上出来そうにないことを告げた。彼女はその日で最も優しい瞳で中田を見てくれたが、それは土俵を降りた人の背中に向けるものだった。
 帰る頃には雨が振り始めていた。目的を果たせなかった中田にも、帰りの送迎バスは用意されていた。暗い車内、窓ガラスに付いた水滴で万華鏡のように滲む上野の街並みを見ながら、彼は自分の情けなさの全てを呪った。これが、女の胸元に金閣寺が見えて不能になった、などのエピソードであればどれだけ文学的だったことだろう。しかし現実はこれだ。俺は性行為に及ぼうとしたところで、右玉暴走バグが発生したが故に至れなかった。
 中田は振り返る。俺が得た経験は、風光明媚な景色を見た時と同じような感動、それのみだったことになる。しかしそれとて、他の人々と同じものを見たのかどうかは危うい。
数年前、東京に住む人間として一度は行っておくべきだろうと、休日に東京スカイツリーの展望デッキに登ったあの日、中田は買ったばかりの一眼ミラーレスカメラなど持って満喫する気満々だった。だが入場時の行列が二列になっているのを見て、中田は強烈な疎外感を感じた。前に並ぶ人々は隙間なく男女、男女の列を作っている。そこに彼が並ぶと、隣には誰も並ばない。自分の後ろに、再び男女、男女の列が出来ていくのが分かった。エレベーターに案内される際に周囲の視線が向くのを感じた。他のエレベーターの往復よりも、中田のときだけ一人分輸送効率が落ちるのだということをその時理解した。奇数人数の気まずいかご室の中で、中田は上空に到達するまで息を殺した。ようやくたどり着いたらせん状の展望デッキを歩きながら、彼はDNAの転写の様を連想した。あの列を相補的で緻密な転写の手続きに準えれば、自分の存在が転写ミスそのものであるように思えた。団体の観光客も、男同士で騒ぐ連中も、一人で黙々と写真を撮る中年男性も、中田の慰めにはならなかった。同じ高度に立ったようで、果たしてそこから中田が見た景色と、カップルたちが見た景色は一緒なのだろうか。
 いや。女性と男性とで身体的に構造が異なるゆえ、精神も異なるのではないかというのが俺の考えだったではないか。中田は頭を振った。それに立てば、何れにしても見ている世界はそれぞれ異なっていることになる。例えどれだけ仲睦まじいカップルであろうが、あの上空350メートルで彼と彼女は、所詮異なる景色を見ているのだ。である以上は、中田が先ほどこなした行為と幸せなカップルの行為とに差異はない。ないはずなのだ。なのに中田は直感的に、そこに違いがあることを疑えない。
 そして彼らが得られるものと、中田が片手を掛けていたものの取りこぼしたものの、分かりやすい差異の一つに中田は気付いた。ソープランドでいくら射精をしても、子供は出来ない。ソープランドという施設はその構造からして不妊なのだ。いくら励んでもソープランドの娘と子を成すことは出来ない。もちろん中田とて子供を作ろうと思ってここに来たわけではない。しかし一方で、相互に承認しあっている二人は、そうした可能性を、選択肢を、少なくとも平和的な形で持つことができる。果たしてこれが答えなのだろうか。
中田はあの場所で何も失わなかった。しかし、得もしなかった。そして、そもそも構造的に不能なのは、ソープランドだけではない。

 がたん、と車が揺れ、中田は股間がすっと寒くなるのを感じた。右金玉は大丈夫だろうか。今直ぐにでも確かめたい気持ちに駆られたが、いくらソープランドが出している送迎車とはいえその中でパンツを脱ぐのはご法度であることは分かっていた。落ち着きなく身じろぎする。少しでも股間にスペースを作りたかった。パンツの社会の窓と鼠径部を結ぶ、柔軟性のない縫い目の部分すら窮屈だった。
 少なくともある部分まで彼は確信を得ていた。同期の言葉のうち、行為と精神には境目はなく分かち難いという部分は正しかった。しかしそれは片方を獲ればもう片方にも自動的に触れられるということではない。両方を揃えなければ、人が満たされ幸せになることは叶わないということを意味していたのだ。そうなるとつまり、風俗ではやはり素人童貞にしかなれないということになる。ソープランドに入店し、彼女の肉体の中に侵入を許可され、それでも彼は承認された訳ではなかった。父親が昔晩酌をしながら、動物は所詮ちくわであると話していたのを思い出す。それは消化器についての話で、口から肛門まで一本貫く穴があるという構造は人間も昆虫もミミズも変わらないのだ、というような話であった。ミクロにもマクロにもいくらでもその主張に反論することはできるかもしれないが、しかしちくわの穴の中は内部ではなく、ただ表面の延長でしかないという点は重要に思えた。中田は金玉に唆されて、普段ただ隠されているだけの世界の表面に、お金を払って一瞬触れる権利を与えてもらい、承認も消化もされていないのに、分かり合えたかもしれないと浮かれていたに過ぎないのだ。
 せめてもの埋め合わせとして、蘊蓄としてしか知らない物語に無性に触れてみたくなる。そして三島由紀夫の金閣寺を読もうと電子書籍で探したが、どれだけ調べてもAmazonのKindleストアには売っていなかった。

   ◆

 自宅に帰り、ようやく落ち着いて右金玉の様子を確かめられる段となって、呆然とした。右の金玉袋はすっかり縮こまっていて、何の異常も見受けられない。そんなバカなと触ってみるが違和感はない。左金玉の突っ張ったような感覚がその間も断続的に走っているのとは全く異なる様子だった。暫く狐につままれたような感覚だった。いや、金玉について化かされているのだとしたら、つまんでいるのは狸なのかもしれない。
 しかし異常がないのであれば、数万円を払っても発散できなかった性欲をどうにかしなければならない。そう思って、中田はいつもどおりのオナニーを行おうとした。しばらく何事もなかったかのようにルーティンのポルノサイトめぐりをして勃起させて、中田は悪寒を覚えた。見ると、右の金玉が活発に動いている。明らかに風呂に入ったりプールに入ったりしたときとは違う、まるで自らの意思を持っているかのような蠢きを起こしていた。呆然とそれを見ていると、右金玉はみるみるうちに膨らんでいき、そして先程吉原のベッドで見せたのと同じように、金玉袋を斜め上に突き上げて止まった。右玉暴走バグの再現性が確かめられた。右手でちんこを擦ろうとすると、手首が袋越しに玉に当たり、気持ち悪さがこみ上げてきた。彼にはもう何がなんだかわからなかった。
絶望とともに起床した翌朝土曜日、中田は再び自慰を始めた。するとやはり勃起と同時に右の金玉はもぞもぞと身を捩らせ、膨らんだ。一瞬それは、ボールを投げると走って取ってきて尻尾を振る犬のように思えて、どこか忠実さを感じさせた。だが同時に、リードを引っ張ってどこかへ走っていってしまいそうな奔放さもあった。
 中田はふと以前医者とした約束を思い出し、その玉袋をスマートフォンのカメラで、パシャリと撮った。しかし普通のカメラというのは人間の目と異なり一つのレンズで世界を切り取るため、立体感を得ることが難しい。少し考えて、このスマートフォンにポートレートモードが用意されていることを思い出した。カメラは伝統的に立体感を補う方法として、ボケの技術を駆使してきた。手前にある撮影したいものに焦点を合わせ、被写界深度を浅くすることで背景をあえてピントから外し、ぼかして写す。そうすることで、背景から被写体が浮き上がるような効果を視覚的に与えることができる。これは長らく高性能な一眼レフカメラのお家芸だったが、近ごろのスマートフォンは画像処理技術を駆使することで、擬似的にそれを再現する機能を持っている。中田はポートレートモードを起動して、それで金玉を撮影した。出来上がりを見たが、しかし思いの外うまくは撮れていなかった。身体に対して金玉全体が浮かび上がるような画にはなったものの、それは昔の雑誌付録の3Dメガネのような平面の一部が一つ手前のレイヤーに飛び出るだけの立体感で、肉眼で見えているほどの、エイリアンが腹を突き破る瞬間のような衝撃がそこには表現しきれていなかった。
 中田は様々な角度から写真を撮った。右から、下から、左から、少しずつ角度をずらして、金玉を取り巻く球面を描くような形で撮影を重ねた。恐らく然るべき処理を施せば、これらの画像を元に彼の金玉の3D立体モデルを作ることができるだろう。自分の金玉がゲームや映画にアセットとして活用される図を想像して中田は笑った。床に転がっているVRヘッドセットのMeta Quest 2が目に入る。VR金玉。これと組み合わせれば自分の金玉の裏の皺を、VR空間上で一本一本指差しして数え上げることすら出来るかもしれない。
俺が生命全体を管轄するCEOだったら、それは子供を生むよりも効率的な繁殖術だと判断してやれるのに。金玉の無性生殖的コピーを以て世を埋め尽くすことをKPIにしてやれるのに。中田はそう思いながら仕上げにカメラを動画モードに切り替えて、フルHDの60fpsで改めて金玉を舐めるように撮った。カメラフォルダを見ると、金玉の写真が百枚ほど並んだサムネイルが画面いっぱいに表示される。そのひとつひとつが1億画素の金玉。拡大すると皮膚の肌理まで細かく見える。意外と裏の方は毛がまばらで、毛根はひとつひとつがぷくりと白ニキビのように膨らみ、血管が青く浮き出ている。予防接種や採血の時に腕の静脈探しで看護師がいつも苦労しているのを思い出し、今度の機会には自分の場合金玉だと分かりやすいですよと提案するのもよいかもしれないと考えた。しかし、もし医者以外の誰かしらにこの金玉まみれのスマホの中身を見せる羽目になってしまったら、一体どう説明をすればよいだろう。
中田は何となしにヘッドセットの埃を撫で、それが充電ケーブルで繋がっていることに気付いた。長らく使っていなかったのでもうすっかり放電しきっているだろうとさっきは思っていたのだが、ケーブルが刺さっていたとなると話は変わる。電源ボタンを押すとやはり緑色のLEDの光が灯り、機器は起動した。中田はそれを被り、そして昨日のリベンジを果たすことを思いつく。VRのAVでソープものを幾つか買っていたので、それを再生してみる。昨晩のソープ嬢の何倍も見目の優れた女優が、自分の眼前で跪いて奉仕する光景が流れる。視覚的な情報としては吉原での時間より中田の好みに合ったものではあったが、しかし一年前にそれを購入した時ほどの感動はなかった。つい十数時間前に味わったあの、少なくとも物理的にはインタラクティブな体験に比べれば、いくら立体的な映像と言えどもそれは一方通行なものだった。もっとも、物理的には、という留保をつける必要があることに中田は気付いていた。あのガソリンスタンドの店員のような視線が、精神的なインタラクションを中田に対して許していないことくらい、彼だって理解していた。
双方向性という観点では、映像文化よりも先に進んでいるコンテンツがある。ゲームだ。それに気付いた中田は公式ストアをブラウジングしてみるが、それらしきものは見当たらない。調べてみると、成人向けのVRゲームはMeta公式のゲームストアでは売っておらず、いわゆるサイドローディングと呼ばれる方式で入れる必要があることが分かった。年齢制限の審査の問題などがあるせいらしく、野良のスマホアプリをApp StoreやGoogle Playからではなくアプリ開発会社のサイトなどから直接インストールするのと同じような要領をこなす必要がある。PCとヘッドセットをUSBケーブルで繋いで、PCで購入したVRエロゲーをヘッドセットに転送してインストールするのだ。やり方を指南するサイトの説明通りにその作業を進めながら、中田は妙な高揚感に包まれていた。自分が凄腕のハッカーか何かになり、この仮想現実を映し出す最新鋭の機械を思うがままに弄っているかのような全能感。小さいころにポケモンの裏技コマンドを友人から教えてもらったとき以来の背徳感。購入したのは大学生の彼女に筆おろしをしてもらうという内容の同人ゲームで、価格は一九八〇円だった。ソープランドを舞台にしたソフトはまだレパートリーが乏しいVRゲーム界隈では発表されていないようで、可能な限りあの受け身な体験に近しいものを探した結果だった。販売ページには、紫色のふわりとした髪と、虹色の瞳をした女のイラストが載っていた。
準備が整い、ヘッドセットを被って両手にコントローラーを持った。ゲームを立ち上げると暫くローディングの真っ暗な画面が続いた後に、まるでワープしたかのように一瞬で眼前に光景が広がる。誰かの部屋だった。中田はその部屋のベッドに座っている。大きさは中田の七畳と同じくらいだが、一目でそれが女性の部屋だと分かった。白いローテーブルの上は雑誌が2冊とティッシュ箱の他には何も置かれておらず、壁際のカラーボードの上には無印良品っぽい加湿器と小さなぬいぐるみが並ぶ。窓際にはイームズチェアを明らかに模した椅子が置かれ、その上には多肉の観葉植物が乗っていた。それらは現実と見紛うような写実的なCGではなく、少しアニメチックにディフォルメされた輪郭とパステル彩色のポリゴンモデルとしてそこにあった。壁紙もカーテンも白で統一された部屋で、唯一、自分が今座っているベッドのみが薄い桃色に染まっていて、そのアクセントがより一層、ここが女性の部屋であることを意識させた。
 横からノックの音が聞こえる。反射的に中田が振り向くと、戸が開くと共にそこから女性が現れた。中田は思わず「おお」と感嘆の声を上げた。販売ページに載っていた彼女そのものだった。平面の世界で許容されていた表現技法をそのまま3Dモデルに起こしたような彼女の髪の毛は束となって多肉植物の葉のようで、眼球は顔の三分の一はある巨大さで、鼻などは肉まんの先っぽのようにちょっと捻りあげて飛び出させた、といった程度のアクセントとしてしかそこに存在していない。つまるところ等身大のアニメフィギュアなのだが、それがリアルタイムで眼前に存在し、呼吸のために肩を揺らし、その巨大な目をまるで一眼レフのシャッターのようにぱちりぱちりと閉じるのだ。その光景は一瞬滑稽で、中田は笑いそうになる。彼女は少しゆったりとしたパジャマのような服を着ていた。
「おまたせ。お風呂、ちょっと長くなっちゃった。身体、冷えちゃってない?」
 彼女が甘ったるい、声優特有の声色と抑揚で喋る。その時視界の端に、顔のアイコンと左右を示す矢印とが表示される。どうやら首を横に振れ、ということらしい。指示の通りにすると、彼女は嬉しそうに微笑み、
「そっか。まあ冷えてても、これから暖かくなるんだけどね。……なんちゃって」
 自分の言った冗談に照れくさそうに笑いながら、彼女は中田の隣に座った。その臭いセリフ回しに平成のギャルゲーの残滓を感じ、にやけかけたそのとき、中田の手と彼女の手が触れた。
中田は、今度は声すら出せずに慄いた。映像上で表現された彼女の手と、同じように映像上で再現された中田の手とが触れ合ったと同時に、彼が実際に右手に持っていたコントローラーがぶるりと震えたのだ。コントローラーの振動機能など遥か昔から存在する古典的な技術のはずだった。なのにその感触の刹那、中田はもうその仮想空間の中に自分が居ることを、そこに彼女が居ることを理解した。本能的にもう片方の手を伸ばし、横に座る彼女の髪を撫でると、自分の手の動きに合わせて彼女の毛が揺れ、除けられ、毛束の流れが変わる。先ほどよりも弱弱しいコントローラーの振動が、髪の毛の抵抗を繊細に表現した。
「くすぐったいよ」
 と彼女が頬を赤らめる。文字通り信号が赤に変わる時のように、彼女の目の下のあたりのテクスチャの色がぴこりと変わったのだ。毛細血管の働きなど一切考慮していないその描写はアニメ的なディフォルメの極みだったが、しかし今度は中田は笑えなかった。むしろその細かな反応のディテールにのめり込む自分を感じた。彼女の胸に手を伸ばすと、同じようにその現実離れしたサイズの双丘が歪み、震える。冷静に見ればそれは脂肪の詰まった肉の動きというよりは、ローションか何かが詰まった水風船のような動きではあったのだが、しかし中田はそれに無性に興奮した。さらに本能的に彼女の上着の裾に手を掛けると、そのテクスチャめいた薄いパジャマがはらりとめくれ、いよいよ中田はこの世界に畏敬を覚え始めた。彼女は、「もう、興奮しすぎ」などと優しく呟きながらも、その体をたおやかにベッドの上に横たえる。我慢の限界だった。興奮冷めやらぬうちに自分のズボンも、と手に掛けようとした。そして気付いた。
 ズボンを脱ぐためには、コントローラーを手放さねばならない。
 中田は固まった。コントローラーを、手放す? そうしたらどうなる。彼女に対して作用し、そして反作用を得るためのデバイスがなくなる。それはこの世界との、彼女との接続を失うことそのものではないか。単なる視覚的な情報だけでは、AVと同じで没入は完全には得られない。この空間の双方向性の肝は、肉体的な相互作用を伝えるこのコントローラーに他ならない。しかしコントローラーを手放さなければそもそもズボンもパンツも脱げないし、その後に自分のちんこを握ることすら出来ないのだ。
 タスクを開きすぎて砂時計状態となったWindowsさながらに中田は硬直し、そのまま固まり続けた。やがて幽鬼のような力ない手つきでコントローラーから手を放し、ヘッドセットを脱ごうとする。汗で滑りが悪くなかなか取れない。視界が乱れ、一瞬自分の頭が彼女の胸の中に突っ込みそうになる。すると当たり判定がバグを起こしたのか、彼女の乳房が途端にぶるぶると異常に震え始め、テクスチャが破れそうになる。中田は反射的に目を瞑って、そのまま力づくでヘッドセッドを剥いだ。瞬間、先ほどまでの爽やかなシダーウッドの香るような美しい部屋から、タバコのヤニ張りに精液と脂の臭いが染み付いた部屋へと舞い戻ってきてしまった。中田は立ち上がってキッチンでコップに水を汲み、温く鼻につくそれを一気に飲み干して、天井を仰いだ。
 オナニーという行為と、双方向性は、両立し得ない。あの空間で双方向性を保とうとすれば性器を扱いて射精することは出来ないし、射精しようとすればあの魅力的な双方向性を破棄せねばならない。それはきっとオナニーというのが本質的に孤独で孤立した行為だからなのだ。では技術が進んで、全くの手放しに相手のキャラが自律して動くようなゲームが登場したら? 自律した相手と、相互承認した上でインタラクティブに繫がる。それはもうセックスだ。どちらが良いということではなく、少なくとももうそれはオナニーにはなり得ない。そしてそうなれば中田は、現実と全く同じ問題にぶち当たることになるだろう。
 中田はゆっくりとズボンを下ろし、自分の股間を見た。右の金玉はもう、ボールペンのキャップのように細くとんがり、今にも袋に裂け目を生んで飛び出していきそうなほどだ。もはやペニスなどを経由する面倒を取らず、直接次元を超えてでもあの虚構の女性の元に飛んで行って見せるからお前は黙ってそこでヘッドセットでも被って待ってろ、とでも言わんばかりの勢いだった。

   ◆

数日経っても右金玉暴走バグの状況は好転せず、中田は改めて地元の内科医を受診した。金玉袋よりも狭い待合室で壁に貼られた不妊治療についての紹介資料を眺めているとすぐに「中田さん」と呼ばれた。睾丸が腫れ上がるという症状はかなり大きな所見であるらしいので、口頭でそれを説明したときには受付の人はかなり驚いた様子だった。しかし診察室で中田がいつもの調子でパンツを脱ぎ降ろして陰部を露呈させると、医師は閉口した。
「やはりなんともないように見えますがね」
 予想通りの反応だったためスマホを取り出して、撮影した証拠を見せた。医者は金玉まみれの彼のスマートフォンを見て呆れたような顔を隠さず、ふうと口から息を吐いて改めて軽く触診した後、「血管の収縮かなにかの問題だろうが、しかし、別に不便をしているわけではないでしょう?」と言った。
 不便。一体どう定義されるものだろう。オナニーに支障をきたしている、というのはここで言う不便に入るだろうか――入らないだろうことは、医師の目を見れば直ぐにわかった。何も言えない中田を見て、
「それなら、一旦様子見してください」と医師は言った。その瞳に一瞬の哀れみの光を見たのは、それすらも自分を慰めるための思い込みなのかもしれなかった。
診察室を出て会計すると、金玉を触らせ、金玉の写真を見せて、それでも保険は効いて料金は千円だった。
 帰りにコンビニで夕飯と飲み物を買って、自宅に戻って中田は先生の言葉の意味を考えた。不便とは一体なんだろう。
少なくとも俺はこの暴走する右金玉のせいで、オナニーやセックスについて支障を来している。これは世にいう「不便」ではないのだろうか。オナニーはまだしも、セックスという生物の根幹に影響する行為が、当面その実施予定がないとはいえ阻害されうるこの状況を快いものではないと考えるのは自然にも思える。あるいは俺がそのような機会に恵まれることはないという心のなかでの諦念を、あの先生もどこか察知していたということなのだろうか。
「様子見してください」。いつまで? 一生子供を作る機会を持たぬまま、死ぬまで金玉の皺が増えていくのを見守ってゆく自分の未来を見て中田は震えた。もうあの医師からは答えは得られそうになかった。金玉病の権威はこの世に居ないものか、いよいよ真剣に探し始めなければならないのかもしれない。
 しかし、肉体やその行動は全て金玉のための手段でしかないのかもしれないと、ついこの間中田は考えたばかりだった。それは、ちんこという性器や、それを使ったセックス、そこから得られる快楽、それら全てについて言えることだ。あくまでそれらは、子孫を繁栄するために用意された機構であり、用意された手順であり、用意されたインセンティブであるわけだ。目的に至るための別の手段が存在するのであれば、それらを経由する必要というものはない。セックスを経なくても子供を作ることはできる。体外受精の操作だ。これは肉体が設けたKPIを経ていないが故に男の身体は子作りだと認めてくれないだろうが、しかし理性を持って理解すればこれは全く正式な子供を作るプロセスだ。
 つくづく、男の肉体というものの恐ろしいまでの愚鈍さをそこに見た。なんということだ。体外受精を行ったとしても、女性の肉体は母体となり、身体それ自体の中で子の成立を見守ることができる。子供の誕生それ自体をKPIとすることができる。望む望まぬの問題ではなく、選択肢の有無の問題である。しかし男の肉体はそれを子孫の繁栄に繋がる行為として認めることが出来ない。
 更に遺伝子工学や細胞生物学が進展していき、人間の倫理道徳規範もそれに合わせてアップデートされてゆけば、同性間においても性行為に依らない子孫づくりが可能となるに違いない。女性の肉体を経ずとも子供が生まれる時代も来るだろうが、しかしその場合でも女性が選択肢を持つのに対し、男の肉体がそうした形での子孫の存続に不感であることは変わらないだろう。
 そんな肉体に住むからこそ、それ以外の肉体を知らなかったからこそ、中田はついこの瞬間まで、セックスなど出来なくても自らの遺伝的子孫を残すことが出来るという現代では当たり前の事実に全く思い至らなかったのだ。中田はどうしようもない金玉野郎なのだ。しかし金玉がそれを理解できずとも、ホモ・サピエンスという種はその方法で淡々と繁殖し、生命の求めに解答を出すのだ。
 並行して人間という虚構は、ホモ・サピエンスの個体や生命の歴史とはまた別個に、この世界で繁栄を見せている。国家や企業、貨幣、宗教、思想などといったものは、人間という虚構生命の亜種、派生した品種に過ぎない。それは今この瞬間もヒトからヒトに伝搬する中で突然変異を起こしながら生存競争を繰り返している。その一部として生きる中田という人間は、高校時代に自分に携帯のアドレスを教えてくれた女子も、大学のゼミ合宿で席が隣になった異性の友人も、飲み会で肩を触ってくれた会社の同期も、等しい価値を持って虚構を協働して形作る人間であって、想定外の性愛を向けて驚かせて良い相手ではないと認識していた。人間としての彼にとっては、この世界にはただ、人間だけがいる。肉体に依存しない普遍的な共通項は、人間であることそのものに他ならないのだから。
 だがすると困ったことになる。生命の系譜はどんな手でも子孫が残せればよく、個体としての金玉はメスを求めオスにしか共感できず、人間としての中田はこの世界に同じ人間だけを認める。ではこの世界に、中田が性愛を抱くことが認容され、心から繋がることが出来る相手は、一体どこに見つかるのだろう?
そして。中田は改めて自分のちんこを勃起させ、右金玉の振る舞いを観察した。必死にこの体から出ていこうとしている俺の金玉は、一体何を考えているのだろう?

   ◆

 仕事終わりの金曜日、久しぶりに小山と大谷の二人と飲むことになった。錦糸町にある大衆居酒屋に三人で入り、暫く互いの仕事の愚痴に花を咲かせながらサッポロ黒ラベルを音を立てて呷った。
 油のしつこい冷めた唐揚げを三杯目のハイボールで流し込む時間帯になったころ、小山が酒の入った目でねっとりと、今しがた店に入って来た女を視姦しているのがありありと分かった。中田がそれを茶化すと、「いや違う、俺はあの人の服を見てたんだよ」と言う。
「なんの言い訳になってんだそれ。エロい格好をしてるから見てたんだ、ってことだろ」
 むしろそれはよっぽど順当な話でもあった。その女は黒い丈の短いタンクトップの上に薄いメッシュのトップスを羽織っており、地肌も胸元もよく透けていた。横を通ったとき、網越しに覗いた柔らかそうなへそにピアスが光っているのが見え、中田も思わずどくりとした当の一人だった。座ってズボンを履いた状態で勃起すると金玉への圧迫負荷があまりにも大きいので、慌てて目を逸らしたが。
 しかし小山は頑なだった。彼が弁明するに、
「たまに思うんだよね。服とかファッションで、なぜ新しい概念やデザインが生まれうるのか、よく分からないな、って。だって、所詮布を切り貼りして繋ぎ合わせるだけでしょ。これが例えば絵とか音楽ならまだ分かるんだ。だって大昔にはないような表現技法や道具が現代には山ほどある。それが新たな表現を可能にするんだから、新たなものがどんどん生まれていくのはうなずける。けれど、服飾っていうのは突き詰めれば針と布と糸とハサミと、そんな大昔から変わっていないもので新たなものを生み出し続けている訳で。……もっと正確に言えば、なぜ今のデザインが今生まれたのか、その必然性が見えないというか。だって、別にあの女性が着てた服はさ、千年前の日本でも全く同じように作ることが出来たでしょ。けれど、絶対にそのときにあんな……ちょっと露出の多い服が存在したなんて誰も思っていない。これって自明なようで、とても不思議なことなんじゃないか、って……それとも、やっぱり昔にも同じような格好はあったのかな」
 たどたどしいその説明を聞いてようやく中田は、どうやら小山は真剣に下心以外の理由を持っていたらしいと信じることが出来た。それを受け入れられたのは、小山が以前別の飲み会で次のようなことを話していたのも覚えていたからだった。
「何か文豪か誰かがさ、玉音放送聞きながら戦争に負けたんだなって知って、でも敗北したんならこの国は滅びるはずなのに、それでも自分は生きていて、周囲の木々は緑で空は青く、太陽は輝き続けていることが不思議だった、みたいなこと言ってる動画がYouTubeに上がっててさ。あれと似てて、別に俺に自由意志がないかも、とかって発見して、衝撃を受けてみたところで、依然として俺は居るんだよね、ここに。俺は所詮電気信号の集合体に過ぎない、とかって考えても、なお俺はここに居てさ。これってすごい発見だって思ったけどなんか聞いたこともあった気がして、考えてみたらこれ我思う故に我ありまんまじゃん、教科書に書いてるようなこと発見した気になってる俺恥ずかし、ってがっかりしたけど。哲学ってそういうところが嫌いでもあるし好きなんだよね。自分の考えなんて所詮、ひたすら車輪の再発明をしているだけなのかも、って怖くなるというか。俺がせっかくいま考えたことって、でもすごい読書家やアカデミックな世界においては当たり前の知識なんじゃないかって。自分の中のかけがえのなさが、他の人にとってはそうではないかもしれないことが怖いっていうか。じゃあ勉強すりゃいいじゃんって話だけど、それが面倒だから自分で考えるんだけどね。けれど、自分でそうやって至った考えって、どう考えても本とかで単に読んで理解した気になった感覚と違うんだよね。自分とすごく不可分に感じるというか、なんならそれが自分そのものにも思えてしまうっていうか。まあそれはそれで、言葉ごときに自分が規定されているような気がしてちょっと嫌でもあるんだけれども。だから哲学……恥ずかしいな、自分で哲学って言うの。鍵カッコとかカッコ笑いとか付けたいけど。とにかく、トータルすると嫌いなんだけれど、でもやっちゃう。足の匂いを、臭いと分かってるのについ嗅いじゃうのと似てる気がする」
それを聞いたとき、この素朴でほわりとした男にもそのようなことを考える側面があるんだと甚く感動した記憶がありよく覚えていた。中田はその考えに強く同意していたし、そしてそれゆえ彼は科学技術の発展にある種の安心を覚えているのだ。
 哲学、人文的な芸術について、常に今生まれるものが、絶対的に新しいものかどうかというのは一切誰も保証出来ないはずなのだ。なぜならあらゆる表現は文脈を抜きにして存在すること自体は可能だからだ。たまたま市場に躍り出て偶然に大衆の耳に留まることが出来た音楽と全く同じものが、三〇年前に既に他の誰かによって歌われていたものの、どこかのプロデューサーに鼻で笑われゴミ箱に捨てられていたことだってあり得る。そんな墓場が存在する可能性に思いを馳せることなく新奇性を評価することは、世界の何処かで戦争や飢餓で死んでいる子供たちに対して無関心であるのと丁度同じくらいの悍ましさであるように思えた。もちろん人は全知ではなく、そんなことを一つ一つ考えているとその間に人は死んでしまうのでみな当たり前のようにそれを忘れて日々を生きるが、理性はそれを忘れるにしても、一旦その可能性を認識した上で、忘却の選択をすることそのものに責任を持って忘れることが、せめてもの真摯さではないか。
そのようなべき論を考えておきながら、当の中田本人はそんな面倒で大層な責任を負いたくはないので、個別具体の事象についてあまり口を出したくないのだ。日常においても同じで、業務のフローで非効率的なところを見つけたとして、それを見つけたことを宣言してしまえば途端に自分に修正する責任が生じてしまうので、見つけなかったことにして面倒な手続きのまま当座の処理を進める、それが中田という男であった。「じゃあお前はどうなん?」と聞かれるのをいつも恐れていた。
 それに引き換え近代科学の進展はその開闢以来右肩上がりだ。空間的な可能性の制約の中をぐるぐると飛び回っているような閉塞感はそこにはない。常に積み上がっている土台の上に一段をさらに重ねていくような、そういった具合で確実に発展していくことに、安心して信頼を寄せる事ができた。埋もれた成果もいつか必ず再発見され、将来の礎になる。自然は幸福な物語だ。確実に自分を通読してくれる、科学という歴史的読者を持っているのだから。
 そのような過去の思索を思い起こさせてくれたお礼にと、酔った頭で中田が調子良く演説しようとしたところで大谷が、
「でも、そしたら俳句はどうなるん。たかだか十七音しか使えん制約の中で、未だに新たな俳句がこの世には生まれ続けてるやん。それに比べれば服なんてよっぽどユルユル。新しいデザインが生まれるのなんて不思議でもなんでもないやろ」
 と言った。これには中田は冷水を浴びせられたような気分で口を閉じる他なかった。小山は「ああ、確かに」と頷く。中田は顔を熱らせ心中で「おい、諦めるんじゃない。お前のその疑問にもっと自信を持て」と念じたが、
「逆に大谷はさ、なぜ俳句はそんな厳しい制約の中で依然新しい句を詠むことが出来るんだと思う?」
 小山はもう俳句の議論に夢中になっていた。大谷は「知らんけどさ」と前置いて、
「時代が変わると感性や文化も変わるのは当たり前やけど、もっと根本的なところがあると思うわ。つまりあれや、同じひらがなの並びでも、時代とともに異なる意味を帯びることが出来るやろ。例えば『あく』、の二音を取っても、昔なら飽きるって意味だったかもしれんけど、今は開く、だったり、悪、だったりになるやろ。そうやって変遷してくから、言葉と意味の連なりは増える一方、そういうことやろ」
 それを聞いた中田は内心で反論する。言葉と意味の組み合わせが本当に無限に生まれ続けるか? そうとは思えない。生むことと同じくらい、人の歴史は言葉や文字列を殺すことにも重きを置いてきた。最早近代文明が連綿と続く限り、人の名前に「アドルフ・ヒトラー」と付けることはもうないだろうし、「つんぼ」や「こじき」という文字列に「前につんのめりそうになるときの擬音」や「小さい敷物」といったような意味を持たせて使うようなことは永遠にないのではないだろうか。それで行けば、むしろ時代は使える言葉の意味を減らす方により強く作用しているように思える。
 そんな中田の考えもつゆ知らず言葉を続ける大谷は、
「だから、例え五十音を十七文字並べたパターン、50の17乗個の俳句を書き切ったとしても、百年後にはそれぞれの俳句が異なった意味の俳句として読めるようになるわけや。意味が移ろうからこそ、俳句は有限の制約の中で、無限の世界を描くことが出来る、そんなとこやろ」
 と言い切って、そして旨そうに知多のハイボールを一口し、その後タバコを吸い始めた。その言葉に小山は「なるほど」と微笑んだが、
「ちょっとお花畑過ぎないか」
 痺れを切らした中田は口を尖らせた。臭い煙を吐き出す男を睨み、
「確かに、音の連なりと意味は偶然に結びついている。けれど一方で、それが野放図にくっつくってわけでもない。ブーバ・キキ効果って知ってるか」
 それは心理学で広く知られた実験だった。トゲトゲした図形と、雲のようにふわふわした図形を並べて、「どちらがブーバで、どちらがキキですか」と尋ねると、言語圏に関わらず多くの場合トゲトゲを「キキ」、ふわふわを「ブーバ」と分別するのだ。これは語感、音の響きが意味との結びつきを司っているのではないかという仮説の、一つの根拠としてよく引用される。
「これが真実だとすると、音の響きと結び付けられる意味は限りがある。無限というのは拙速な見立てだろ。俺は単に、限りはあるけれど人間には遠く及ばないほどに数があるから、網羅しきれていないってだけだと思うよ。小山のファッションについての指摘は鋭いと思う。だって男にしてみれば、上着なんて袖の長いふつう短いと、裾の丈の長いふつう短いの、せいぜいさざんが9通りだ。なのに短い・短い、なんてパターンが社会に定着し始めたのがようやく二十世紀になってからっていうのは、そりゃ例外はあるだろうが、なかなか興味深い視点だと思う」
 そう突っ込むと、大谷も小山も暫し黙り込む。店内放送で、Spotifyのデイリー再生数上位を単に垂れ流しているであろう、何の選曲の拘りも感じられないJ-POPのプレイリストが空疎に流れる。このように、纏まりかけていた議論に持論を提示して話を散逸させるのが、中田の悪癖だった。
 それを意図してか、あるいはまったくの無意識にやっているのであればまだ救いがあるところを、中田は無自覚にやった後に、またやってしまったと反省が出てくる。それに自分の意見と言ったら、令和の今を前提としていたはずが、途中でバブル期のボディコンなどもあるじゃないかと思い出して二十世紀と突然言い換えて表現してしまったし、女性解放の歴史の後段にある現代の方が女性のファッションがより多様となるのは当然だろうと思い直すし、気候や環境だって重要じゃないか、など、詰めの甘さがどんどんと出てきて恥ずかしくなってくる。
 その自己嫌悪から逃げ出すために、中田はまた言葉を重ねるのだった。
「それに何より、無限の意味なんてあり得ないだろ」
「どうして?」
「だって、人類はいつか滅ぶ。滅ぶまでに動かせる手数の範囲でしか、俺たちは表現をすることは出来ないんだよ」
 中田は努めて真剣にそう言ったのだが、小山はまるで脇腹を擽られたかのように笑った。
「さてさて、ついに人類の滅亡まできた。こっからが楽しんだよねえ、こういう飲み会はさ」

   ◆

 最近サピエンス全史を読んでいるのだと中田が話すと、食いついたのはやはり大谷だった。彼はそれに続く「ホモ・デウス」なる本も読んだなどと言い、下巻の途中で止まっている中田はそれを自慢と受け取り不愉快になった。そうとも知らず大谷は気持ちよさそうに、
「俺に言わせればな、ホモ・サピエンスが滅ぶことと、人間が滅ぶことはイコールちゃうんや。ホモ・サピエンスが滅んでも、人工知能とか強化人間みたいなんが人間的な文化を生み続ける限りは、人間は滅びんし、表現だって続いていくやろ」
「バカ、人工知能がいくら、どれだけ作品を生むことが出来ようが、気にしたもんじゃないと思うね」
 中田は悪態混じりに応えた。
「結局、書かれるかどうかじゃない。読まれるかどうか、なんだよ。自分の中にあるだけじゃそいつが死ねば表現も死ぬじゃんか。読むって行為が、そう簡単に人間以外にマネできるかね。人間が見て、聞いて、初めて表現は生殖に成功して、自己保存を果たすことが出来るんだよ」
「ネットミームみたいな?」
 小山は、中田と大谷の顔を交互に見やりながら言葉を挟んだ。
「それ。ミームの拡散は、言わば物語とか、表現とか、虚構っていう生き物の生存本能なんだよ。逆にそのお陰で俺たちは虚構の物語を一緒に信じ、膨大な数で共同作業が出来るようになった。じゃあそのミームってのは無際限に拡散できるかといえば、そうはならない。人工知能が人智の及ばないスピードで物語を生産し尽くしていったとしても、そのうちどれだけが存続に成功する? どれだけの数が人々に語り継がれる? どうせその殆どはパソコンの画面なりに一瞬表示されては、キャッシュの削除とともに永遠に失われる。そんなもん果たして生まれたと言って良いのか? 人の心を受精卵として、作品のミームが精子だとして、受精できなければそれは誕生につながるとは言い難いんじゃないか」
 そう中田は高説を垂れ、いけ好かない大谷を「論破」なぞしてやろうといきり火照っていたが、当の大谷は涼しそうな顔で今度は梅サワーを飲んでいる。
 大谷はその成りと軽薄な喋りの一方で、文化資本の蓄えもあった。彼が今同棲しているという岩手出身の新卒三年目の女性とも、よく美術館に行ったりクラシックやジャズのコンサートに行ったり、神保町で古本屋を巡ったりしているという。しかしそれでいてその女は彼女ではなくセックスをする友達だというのだからいよいよ中田の腹は煮えくり返る。そんな話を聞く度に中田は、それこそが自分がかつて憧れていたような満たされた生活じゃないかと嫉妬し、それを隠さなかった。だが一方で、自分が思い描いていた程度の幸せの形というのはとっくに他者が実現してしまっているという事実に対し、ネタバレを食らってしまったかのような残念さと虚しさを感じてもいた。
 苛立ちながら、痛くなってきた尻を休ませるために少し腰を浮かせると、急に金玉に閃光のような痛みが走る。中田は青ざめた。まさかパンツの蒸れた布地が金玉袋を引っ張り、今度こそ破局的な何かを起こしたのではないか。
「ちょっとトイレ」
 投げ捨てるようにそう言って席を立ち廊下を足早に進み、中田はねじの外れそうなアルミのドアノブを乱暴に回し、トイレの個室に駆け込んだ。ズボンを一気に下ろして、金玉の様子を確かめる。わずかに突っ張った右玉の膨らみは、やがて初雪のように溶け消えていき、ほっと安堵した。縮み込んだ情けない有様を見て、大谷が飲んでいたサワーに沈んでいた梅干を思い出す。マドラーでぐずぐずに潰された金玉の写像を想い、ふと、あの二人の金玉はどうなっているのだろうと想像した。小山のはきっと小ぶりであまり毛はなく、大谷はもさもさでしわしわ。しかし真逆かもしれない。あるいは、彼らにはないかもしれない。それが仕様か、バグか、量子力学的なゆらぎによるものか。しかし結局、彼らの金玉を見たことがある人はきっと居る。しかも金銭の対価としてではなく、日常の他者との交流の一環として、その金玉を触ったり、弄ばれたり、舐められたりしたこともあったりするのだろう。一瞬頬に熱が走り、そしてすぐに冷えた。俺も誰かに見てもらいたい、そう思った。
 和式便器に向けて放尿を果たしてから個室を出る。手洗い場を探しながらちらりと周囲を見渡すが、先ほど見たあの蠱惑的な女性の姿は見当たらなかった。見つかったところで何があるというわけでもないし、きっとそういった視線を向けられ続けてきたであろう彼女を不快にさせ、酒の肴にされるのが関の山なのだが。結局手洗い場もなく、個室にまた入ってレバーを引いて便器のタンクの上の手洗い器で手を濯いでから席に戻ると、先ほど中田が話していたことはすっかり流されて別の話題に移っていた。
「逆に、あの小説はどうやった。この前おすすめした奴」
「あれか、面白かったよ!」
 小山の真っすぐな感想に大谷はせやろせやろと頷く。
 大谷がイチオシしていた物語は、五輪が終わった後の東京を舞台に、この大都市が持つ病巣、現代社会の空疎さ、その中で淡々と現実を生きる子供たちの強かさと弱さを描いている、そんな物語だった。
 中田も以前勧められた時に一読し、その後に評判などを検索して、読者が時代と世相を映したうんたからかんたらやら、若い私たちの物語であるとか、悲劇の中に潜む再生への希望の予兆だとか、もっともらしい抽象的な修辞で褒めそやす奴が居たり、たまに細部の欠点を大げさに拡大解釈して「俺はこんなものを認めないぞ」という逆張りのエゴを表して星一つを付ける奴が居たりするのを見た。そして大谷と小山がそれをなぞるような議論をする様子を目の当たりにした。
 中田は消毒のされ切っていない自分の手を睨む。そのとき彼は今日いちばん孤独だった。一体全体何なんだろう。悲劇的な背景、淡々と生きる人々、飽和した経験と、色のない世界の中にたまに見つかる鮮やかさ。それのどこが俺の世代の物語なのか。
 中田にしてみれば、それはどうしようもないほどに自分に欠落した経験の存在をまざまざと自覚させてくる、明確な攻撃の意思を持った物語だった。そういったものを読むたびに中田は、まるでそんな経験をしていない自分は、この世で評価をされたり人からいっぱしの価値を認められたりするに足らない、誰にも読まれることのない存在なのではないかと恐ろしくなるのだ。露悪する根性も、披瀝する善性も持ち合わせていない。他者の物語は、いつもそのように中田を苦しめた。この種の懊悩を誘わない分、小山の言うようなアニメ作品やスーパーヒーローもののエンタメ映画の方がよっぽど架空の物語として楽しめた。少なくとも中田はアイアンマンには憧れなかったが、三島の金閣寺に出てくる僧にはどうしようもないコンプレックスを抱いた。そして先ほど「読まれない物語は存在しないも同じ」と啖呵を切ったことを思い出し、また自分の言葉が自分の首を捻じり上げていることに気付いて息が止まった。
 だが、自分のことが書かれた小説が未だにこの世に存在しないことに安心も覚えているのが中田であった。これを読んで、人生のネタバレを見たような気になって留飲を下げるような人間が居るというのが信じられなかった。大谷は何本目か分からないタバコの煙をぷかぷか浮かべながら「これは俺のことを書いてるなって、読んでてめちゃめちゃ食らったわ」とうっとりとした目で言うが、そんなものと出会うことはどう考えても喜びなどではなく落胆のはずだ。自分の人生は自分で読みたい。時間を効率良く生きるために、コンテンツを効率よく消費するために映画を早送りしたりネタバレや感想を先に見たりなどというタイム・パフォーマンスの考え方自体は、中田自身だって部分的には採用しているものだったのに、こと自分の人生については決してネタバレなんてものを欲することはなかった。その考え方は全てを単なる割り算、比率に還元してしまう。百万円で一万円を稼いでも、一千億円で十億円稼いでも、営業利益率は同じ一パーセントだ。それよりも千円で三十円を稼ぐ会社の方が偉いのか。株主にしてみればそうだろう。だが中田にとっては違った。差し引きで残るネット量ではなく、グロスで計上される経験が中田には大切に思えた。公式を覚えて解くのではなく、公式の成り立ちや意義を理解した上で使うことを良しとしたかった。だからこそ小山には、折れて欲しくなかった。
 中田が一人苦悶している間に話題はさらに流転し東京五輪の話に移った。本来予定されていたアニメやマンガなど、日本のサブカルチャーをメインに据えていた演出案が没となり、芸術的で抽象的な内容に置き換わったことを小山は非難した。
「日本の芸術のレベルがあんなもんだ、なんて言うつもりはないけれどさ。けどさ、世界に高く評価されていたのはサブカルのアニメやマンガだったわけだろ。だったらやっぱり、それを全面に押し出すのが正解だったんじゃないかって今でも思うけど」
 大谷はビール瓶の蓋を手で弄びながら、
「いやでも俺は良かった思うけどな。あの演出、俺の好きな脚本家が書いてたんよ。その人って昔からああいうテイストのユーモアが得意でな、そんでそれが遺憾なく発揮されてたと思うわ。言葉を超えた芸術っていうんかな」
 1対1の会話に、中田は入ろうにも入れなかった。大谷の好むタイプの芸術には与しにくく、一方で今や小山の肩を持てるほどサブカルチャーに入れ込んでもいなかった。
 ただ、中田にも思いはあった。結局国家も、メディアも、この国に住まう人間たちに新たな夢や希望――つまりは耳障りの良い幻想を抱かせることに、根本的に失敗しているのだ。もしかしたら。例えそれが単なるノスタルジーや過去の成功体験の痴呆めいた繰り返しだとしても、「そうすれば再び国民が夢や希望を抱けるかもしれない」ともし少しでも真剣に考えて動いていた政治家や作り手が居たのだとすれば、今次の五輪の失敗は少しは同情してやれなくもないことではないか。彼らの失敗はただ、過去の物語をなぞって自分たちで新たな今の時代らしい物語を作ろうとしなかった、ただその点だけにあり、物語によって国家を再興しようとした考えは決して馬鹿にされたものではない。そもそも物語を持つこと、それ自体を拒絶し冷めた目を向けていた人間の方こそどうしようもないのではないか。
 この国は真剣に、小説家や漫画家などを総理大臣に据えた方が良いのかもしれない。
「で、中田はどう思う?」
「俺は」
 中田は、言葉の間の全角スペースを数えるようにしばらく視線を彷徨わせて、
「俺は、信じたいと思っている。けどまだ見つかっていない」
 質問の中身など聞いていなかった。自分の中の言葉を外に吐き出しただけの言葉に、大谷はぽかんとしていた。

   ◆

 午前七時一分に中田は起床し、時計を見て、アラームがセットされた時間まであと十四分あることを確かめる。一瞬、コーヒー一杯分の余裕を持った朝を取るか惰眠を取るか迷い、後者を選ぶ。夢を一欠片だけ見て、七時一五分に再び起床した。
 毎朝、スーツを選ぶときに中田は迷った。細身のYA-6号にするか、ゆったりしたAB-6号にするか。右金玉が落ち着いている日であればYA-6を履きたい。そちらの方が明らかに脚がすらっと長く見える。しかし暴走バグが発生したときにはYA-6のスタイリッシュさの全てが窮屈な苦痛に変換される。迷いを重ねた末に、ここ数日の傾向からして今日も大丈夫だろうと中田はYA-6を履いた。
 スマホで動画を見ながら駅へ向かう途中、歩道の段差に躓きつんのめった。一歩大きくよろめいて、何とか踏ん張った。やれやれと顔を上げると、鉄っぽい風圧と共にすぐ左の車道を「産業廃棄物収集運搬車」というステッカーが貼られたトラックが通り抜けていく。からからと虫のように足元を転がる落葉。ディーゼルの、頭が痛くなる排ガスの臭い。中田が住む一帯では最近、背の低く古い雑居ビルを1Kばかりの賃貸マンションへと馬鹿の一つ覚えに置き換える工事があちこちでひっきりなしに続いていて、この細い裏道のような道路もそれら施工業者によって朝から騒々しい。走り去っていく太く大きなタイヤを見送り、先ほどのよろめきの角度があと数度異なっていたら、あと〇・数ミリ革靴のソールがすり減っていたら、あれにぺちゃんこにされていたのだなあと思い、ポケットにスマホをしまい、ワイヤレスイヤホンを外した。
 会社にたどり着きオカムラの事務イスにどしりと座った途端、中田は急な吐き気に襲われた。急いで男子トイレに向かい個室の便器に顔を向けたときにはもう、ばしゃばしゃと噴き出していた。一瞬で個室の中の湿度が上がるのを感じる。久しぶりに吐しゃ物の臭いを嗅いだ。自分の便の臭いはまだ許せるのに、ゲロのこの酸っぱい臭いには許しがたい何かを感じるのは単に慣れの有無だけが理由なのだろうかと考えた。口元を拭いて、便座クリーナーをしゅっしゅとペーパーに吹きかけて掃除し、自席に戻って部長に報告した。
「すみません、吐き気が酷いんで今日は有給取らせてください」
 始業十分前のことだった。部長はいくつかの心配の言葉と、「きちんと病院に行くように」という釘差しとを投げかけてきた。仮病でもなんでもないので病院に行くこと自体は問題なかったが、さっさと家に帰りベッドの上で横になっていたい気持ちもあった。
 さっき通った道のりを全く反対方向に辿りながら、近所の内科に向かった。すっかりかかりつけ医の気持ちで通っているが、果たして向こうもその認識をしてくれているのか分からない。ワイシャツの上にジャケット一枚のみでは少し肌寒く、前のボタンをしっかりと留めた。
 普段この医院には野暮ったいジャージやスウェットを着て訪れることが多く、スーツ姿で来たのは初めてだった。受付の女性の喋り口調が心なしか普段より柔らかい気がした。名前を呼ばれ病室に入ると、医師がこちらに向ける眼もいつもの金玉の時と違い、何より目がしっかりと合った。医師は幾つか質問をした。最近食べたものはなにか、吐き気は続いているか、痛みはないか、下痢はしていないか、など。それによって一つ一つ病気の可能性を絞り込んでいき、「ストレス性の胃炎か逆流性食道炎」と診断した。整腸剤と漢方が処方され、あまり酷いようであれば胃カメラが出来る病院を紹介すると言われた。学生の頃に経験した経口内視鏡の、喉奥にひんやりとした棒を突っ込まれ押し広げられる感覚を思い出してえずくのを必死でこらえた。
「そういえば股間の方は、今日は大丈夫なんですか」
 おや。こちらから訴えかけていない症状について、この医者から尋ねられるのは初めてのことだった。
「正直、良くも悪くもなってないです。いい加減正体も知りたいなと思って、今専門医を探しているところです」
 金玉の権威を探した末、都内の大学病院にいくつか「リプロダクションセンター」という施設があることを中田は知っていた。それらはやはり不妊治療などが主目的の医療機関ではあるけれども、しかし金玉の手術などについても専門としていて、中田は彼らであれば何か答えを知っているのではないかと期待していた。幾つか候補として考えている大学病院の名を挙げると、その一つで「ああ、○○先生のところか」と医師が呟き、中田は「ご存じなんですか」と目を見開いた。
「その筋じゃ有名な人だからね。中央区でクリニックも開いている人でしょう。まあ紹介状、書いてあげられるけれど。けど、たぶんそこでも同じことを言われると思うよ。不妊の差し迫った悩みがない限りは、手術は勧められないと思う」
 医師の言葉に中田は消沈した。確かに待合室を想像すると、そこではスカイツリーのエレベーターホール同様、男女のつがいが並んでいる光景が容易に浮かぶ。中田はきっとお呼びではないのだ。では中田はこの孤独な奇病を、個性として抱えたまま今後生きていかねばならないのか。
「もう一回、見てみましょうか」
 優しい声色に促されるまま診察台に横たわり、中田はスラックスと下着を下ろした。彼の手のしわが、中田の金玉のしわに重なり、あわせてしあわせ、南無。その優しい手つきに中田はこれまでにない感情を抱いた。もしかするとこの医師は自分の孤独をついに分かってくれたのかもしれない。そう思った途端、男根がぴくりと動いた。医師はぱっと手を離した。
「やはり何ともないですね」
 医師の声はかつての冷たさを取り戻していた。
 家に帰りオナニーをした。右金玉は相変わらずバグった。狭い室内でただ中田の呼吸音と二十四時間換気システムのファンの回転音だけが響く。その埃の詰まった白いさざめきが嫌で思い切って窓を開けたが、古いビルの取り壊し工事の音があまりにもうるさ過ぎてすぐに閉めた。
 中田はシーリングライトを仰ぎながら、錦糸町での居酒屋話を思い起こした。彼とほかの二人の間には、何か人間観、女性観でやはり根本的な差異があるような気がした。女性の表面を欲や観察の対象として見なすその無自覚なデリカシーのなさは同じようで、しかしそこから脱しきれない自分と、どこか自然に、少なくとも多くの女性から受け入れられる形で折り合いを付けている彼らという差が、あの場にはあった気がした。少なくとも彼らの言葉に、その部分に対する動揺や不安はなかった。一体どこで彼らはその言葉を学んだんだろう。そもそも、自分はどうやって自分の言葉を習得したか。教科書を読んで文法を覚えたわけでも、ドリルを解いて発音を覚えたわけでもない。親が話す言葉、テレビから聞こえる言葉、周囲から向けられる言葉、そうした環境の情報をたっぷり吸収して自分の中で咀嚼してそこから一般法則を類推して、そうやって覚えたのだ。もしかすると、彼らが女性を語り女性と話す言葉も、多感な時期にそうして女性と交流を繰り返すことで得られたものなのではないか。いわばあの二人は幼少期から思春期にかけ女性と自然に十分な時間を過ごした結果、ネイティブな発音で女性の言葉を話せるバイリンガルになることができたのだ。俺がここからルールやテキストに基づいた言葉を覚えたところで、それは生硬で、道具として使おうとしていることが露骨な、卑猥性の帯びたものになるだろう。あの事業部門が使う、片言めいた「KPI」のように。
しかし自然に覚えた言葉だって、お互いに本当に誤解なく意図を伝え合えているのかというのはいくつかの哲学的な論題が提起するように実際微妙なところだ。人間一般でだって根本的にはそうなのだから異性間など尚更なのだろうが、そうはいっても彼らは、人々は、もうその言葉を覚えてしまっている。一方で後から言葉を学習しようとしている中田は、どうせそうやって今から覚えたところで本当に理解しあえるようになんてならないんでしょうと端から期待することも出来ず、結局学習を放棄するような手合いだった。だから中田は一生女性を語る言葉を持つことはできない。世界に女性は間違いなく居る。だが彼女たちは、中田が見て触れて表現できる世界、観測可能な世界の外に居るのであった。女性は、中田のあらゆる可能性の余事象として定義されるのではないかとすら思った。その途端、うわあと、情けなく震えた声が漏れた。欠落していることへの恐怖、なんていう漠然としたものではない。そこに世界があることは分かっているのに、それと相互作用できる言葉を覚えることは出来ないこと、それを認識しながらひたすら生きていくこと。それは最早拷問ではないか。
「なあ」
 中田は右の、尖りに尖った金玉にしゃべりかけた。
「お前は、どうしたいんだ。左の玉は最近静かだぞ」
 中田は金玉に返事を期待していた。
「出ていきたいっていうんなら、そう言ってくれよ。お前の気持ちが知りたいんだ。お前も、俺の気持ちが知りたいだろう。分かり合いたいんだよ。お前が望むなら、俺はお前の望みを叶えるよ」
 中田はちらりと、ローテーブルの上に置かれた鋏を見た。これでちょきんと切ってあげれば、金玉は一目散に望む場所へ一目散に飛んで行ってくれるのだろうか。
「なあ」
 もしここで金玉が何かを返してくれれば、中田の人生はそれでも少しは物語のような価値を持てるかもしれない。
しかし、何も起こらなかった。
 中田は枕を壁に投げつけた。この世で中田の金玉を見てくれる人なんて、医者と風俗嬢しかない。それらだけは業、役務として、中田の金玉にある程度真摯に向き合ってくれた。それら職種への等しい感謝と等しい落胆を中田は抱く。鼻の奥がツンとしてきた。やがて、すっぱいげっぷが出た。

   ◆

 中田の全てのそうした、彼にとって根源的で、致命的で、苦痛と悲哀に満ちているように思えた一人相撲は、マッチングアプリで或る一人の女性とマッチし、テキストメッセージのやり取りが上手く行き、食事に行くことと相成り、そこでも会話が弾み、二回目のデートもお酒を交えながら終電間際まで楽しく過ごすことが出来、そしてこの金曜日の夜に彼女から「今晩は暇?」と尋ねられたことで完全に霧散した。中田は金玉を揺らしながら『暇 これから帰るよ』とLINEを返し、終わっていない仕事を残して終業した。『JRだとどこの駅が会社から近いんだっけ?』『新橋か有楽町かな』『じゃあ有楽町で飲もうよ』『いいね』。スタンプを交えながらやり取りする。既に中田は新橋駅に居たが、スキップ混じりで有楽町へ向かった。なるほど、これが恋心という奴か。ほんわかした邦楽の歌詞、お花畑な恋愛ドラマ、あの時教室で女子が上げていた甲高い悲鳴、その全てに今、中田は納得していた。この浮かれ、そわつき、ぼーっとする感覚。そりゃ世の中の人間のどいつもこいつもハマる訳だ。自分があまりにもテンプレートな感情をなぞることに成功していることに、安心と寂寞を抱く。無論万事が上手く行くなどとは思っていない。どこかで思いがけないすれ違いや新事実の登場、あるいは決断力の不足などで、期待された未来を得られない可能性もある。それでもこれを実際に味わえているという事実が、中田にとってどれほど革命的なことか。軽快な足取りでコリドー街を歩く。野良の酔っ払いの千鳥足と交差し、回避のステップを取るとそれがフラメンコのようにタタンタンとリズミカルな靴音を鳴らした。身が一層軽やかになるのを感じ、雄叫びを上げたくなった。ぶつかりそうになった相手である某通信会社の次長は怒鳴り散らそうとその臭い息を溜め込んでいたが、中田の笑顔を見て毒気を抜かれ、それを目の当たりにした同行者の爆笑に、次長もいよいよ笑って許すほかなかった。金曜の夜に、関係性の進展した女性から呼び出される。期待することを辞めるようアラサーの童貞に求めるのは、幾ら令和の趨勢を鑑みても極めて困難であった。
 有楽町駅に着き、ふと自分が何かを取り落としているような、そんな喪失感を感じた。テンションが不必要に上がりすぎたとき、しばしばそうした不安か立ち上り、大体そういう不安は的中するものだ。もし落としたとすれば間違いなくあのフラメンコのときだ。軽やかになったのは比喩ではなく物理的な事実だったということか。まず最優先で確かめるものは、私用スマホ、業務用スマホ、財布、社員証、業務用パソコン。いずれもある。とりあえず一安心。では何を落としたのだろうとリュックの中やポケットの中を確かめる。しかし、何も失くしていなさそうだ。どうやらただの杞憂だったらしいと分かると途端にトイレに行きたくなった。近くにある商業施設に入り、便器の前でチャックを下ろす。その時違和感が最大となった。やはり何かがない。それでも中田は小便を出そうとして、そして遂に気付いた。リュックでもなくポケットでもなく、彼の下着の中から、中田は喪失していた。あんなに暴れ、彼を苛ませていたというのに。
「嘘だろ」
 金玉がなかった。

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