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定性的モデルについての考察

モデルで考える

これまで、私は社会のできごとを考えるときに、モデルを作って考えることを行ってきました。

栗田治「思考の方法学」では、モデルには定量的モデルと定性的モデルの2種類があり、定量的モデルは、物理法則のように論理的関係を数式で表します。一方定性的モデルは、社会科学で扱われているように、論理関係を言葉で詰めていきます。この2つのモデルのどちらが良いのかという議論は、扱われる内容により異なりまが、それぞれのモデルに限界があることも理解しておく必要があります。定量的モデルは、だれでも検証可能で客観性があるものとして扱われますが、前提条件を忘れては検証できません。定性的モデルは言葉を使って普遍的法則性を説明するため、その言葉が表す意味について共通の理解が前提になります。
これまで、私は定量的モデルで説明することを行ってきたため、定性的モデルの理解が不足していたと痛感しました。
以下に定性的モデルの考え方について私の理解している内容を紹介してみます。

文化人類学の視点

文化人類学については、全く知識を持っていなかったのですが、公共広報学会の講演で佐藤先生から広報の捉え方と文化人類学の捉え方を対比して説明して興味を持ち、いくつかの書籍を読んでみました。

内容が幅広く、とても纏められるものではありませんが、松村圭一郎「はみだしの人類学」に示されている文化人類学の捉え方が判り易く、その内容を紹介します。この本では、まず「わたし」から見た他人をどのように捉えるか、2つのつながりが紹介されます。1つは他人との差を強調して違うものとして捉えます。もう一つの捉え方は、交わるうちに生まれる共通性を意識して捉えます。この2つの捉え方は、学びによって生まれると筆者は説明します。特に1つ目の捉え方は、言葉のカテゴリと密接に関係しており、使う言葉の意味を十分理解しないで使うことの危険性を指摘します。
この問題は、参与観察という言い方がされるフィールドワークにおける注意事項に繋がります。文化人類学では、アンケートという形で多数の住民の意見を集め、定量化することに否定的です。一人の言葉を長期間接することにより自分の意識と住民の意識とが溶け合い、本質にアプローチする方法を採ります。筆者は、この本で我々の生き方に対するヒントを示すことで締めくくっています。

客観性の落とし穴

定量的モデルの問題点をしてきしたものとして村上靖彦「客観性の落とし穴」を紹介します。

村上さんは精神分析も行う先生ですが、定量化モデルの特徴である客観性の持つ問題点を指摘しています。歴史的に、自然科学で成功した客観性が、社会を類型化することで、客観的データとして比較可能になることに成功し、さらに心理学の分野まで客観化することに注意を向けていることに警鐘を鳴らします。筆者は、その客観データからこぼれ落ちたものとして「経験の価値」という言い方で、その重要性を紹介します。語りのディテールからダイナミズムを読み取ると言う指摘に、私は文化人類学の参与観察の視点と重なるように感じました。筆者は、心理カウンセリングという場面で、被験者と一体になって感じる重要性が紹介されています。

易経(変化の哲学)

最後に紹介するのは、東洋思想と言われる易経の考え方を紹介します。実は、私の父が易経の研究者でライフワークにしていたのですが、生前、学校教育を受けた者には易経の考え方は理解できないと、何度も言われてきました。ようやく、この歳になりようやく考え方にとりつくことができるようになりました。高田「易のはなし」をもとに紹介します

当初、使われている言葉の意味がさっぱり分からなくて、全くとっつけませんでしたが、文化人類学や客観性の落とし穴で指摘されている定性的モデルの考え方に近い点がありそうだ、ということでやっと整理することができました。
易経は、天体観測と密接な関係があり、そこから3つのルールを原則としましたが、この天体の動きを変化するものとして捉えた点が西欧哲学と根本的に違った点です。すべてのもの(現象)を変化するものとして捉える考え方が「乾坤」の考え方です。また、対象と本人とを区別しない自他非分離の考え方も西欧哲学と大きく異なる点です。そのため、客観という考え方が存在せず主観により世界を捉えます。従って世界の見える姿は一人ひとり異なるという考え方です。従って、共通のものを作るといった分野に易経は使われず、もっぱら個人の判断に使われることになりました。



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