見出し画像

『ドライヴ マイ カー』『クッドフェローズ』『ファイトクラブ』『そしてバトンは渡された』


『ドライブ マイ カー』

人は皆打算的でありつつ、自分でもどうすることも出来ない悲しみを抱えていたりするものです。見かけはどうであれ。

よく、「自分のことは自分が一番よく知っている」と言われます。「確かにその通りだ」とも思います。でも、「自分のことは自分も知らない」というのも事実ではないでしょうか。

ある夫婦がいます。嘗て幼い子どもを不慮の事故で亡くした夫婦です。彼らは、以後、子どもは作らないと決めています。しかし、夫婦の性の営みは継続している。その営みの後に、妻が見た夢を夫が翌朝聞き、その夢を基に劇の脚本を書き、演出もしているのです。

しかし、妻は夫が出かけた後、その劇に出ている若い俳優たちと肉体関係を持っているのです。そして、夫はそのことを知ってしまったのです。しかし、そこで感じた悲しみや怒りや苦しみなどを押し殺して、妻と関係を持ち、夢の話を聞き続けました。

ある日、妻が「今晩帰ってきたら話したいことがある」と言いました。でも、夫が帰った時、妻は家の中で倒れ、死んでしまったのです。

くも膜下出血でした。

その後、夫は地方の演劇の指導の仕事があり、その地方に出かけました。その時のドライヴァーが若い女性なのですが、抜群に車の運転が上手いのです。

次第に彼女の話を聞くことになりました。彼女は北海道の山村育ちでしたが、母親は町の水商売に雇われていた女性のようです。その母親は、まだ免許も取れない年齢の彼女に車を運転させて通勤したようです。

そして、少しでも揺らしたり、圧力がかかるような運転をしたりすれば、母親からとんでもない虐待をされたようです。

しかし、その反面、母親は彼女の腕の中で、彼女に背中を撫でられながら平安を得るという一面もあり、彼女はその時が好きだったのです。

彼女も母親も、少なくとも二つの自分があります。そして、その二つを相反する二つを調整できない。どちらの自分が出て来るか、自分でも分らない。そういう面があります。私たちは、誰でも地雷原のようなものがあり、それに触れられると違う人格が出て来る。そういうことがあります。

そして、主人公が彼女と共に、彼女の生まれ故郷まで来ました。そこで、彼女の家が火事になり、彼女の母親が焼け死んでしまう時、彼女は母親を助け出さなかったという話を聞きました。そして、その時、そういう自分であったことを、今の自分が受け止め切れていない。

彼は、そういう話を彼女から聞き、自分が内に抱え込んでいた悲しみ、怒り、苦しみを口に出来ました。そこで初めて、自分はこんなに悲しかったんだ、こんなに怒っていたんだ、こんなに苦しかったんだと自分の内面を知ったのです。

出来事としては過去のことでも、自分が抱えていた悲しみや怒りや苦しみは、口に出来た時に形が与えられるのだと思います。そしてそれは、自分の悲しみなどを口に出来る人と出会った時に、初めて可能になるのかもしれません。形が出来るまでは、悶々と苦しみ続けるのでしょう。そして、形が出来て以後も楽になる訳ではないと思います。でもえも言えぬ苦しみからは解放されるでしょう。

『グッドフェローズ』1990年

アメリカのマフィア映画です。ご承知のようにマフィアはアメリカのイタリア人(イタリア出身者)が中心となった犯罪者集団です。グッドフェローとは「いい奴」という感じの意味です。

1人の少年が、町のギャング(マフィア)に憧れることから物語は始まります。何故なら、彼らは町のボスだからです。他の人々は彼らの暴力を恐れて何も言えない。表面的なものではあったとしても、敬意を払われている。少年にはそう見えるのです。

実は、彼の家はアイルランドの出身です。私たち日本人には移民で出来上がった国であるアメリカのことはよく分かりません。そして、私たちにとってイギリスはイギリスです。しかし、あの島国はイングランド、スコットランド、アイルランド、ウエールズがあり、宗教や国家体制や民族?を巡って延々と争って来たのです。

だから、内部では激しい差別があるようです。以前『ナイチンゲール』という映画を観たことがあります。それは、イギリスがオーストラリアを植民地とし流刑地にしていた時代を題材にした映画でした。その映画の中で、イングランド人が現地のアボリジニ(「黒人」と呼ばれていました)を人とは思ってはいないことがよく分かりました。

そして、イングランド人はアイルランド人を差別しており、彼らはイングランド人を激しく憎んでいることがよく分かりました。そのことが、今に繋がっているのです。

先日、『ぼくはイエローで、ホワイトで、ちょっとブルー2』を読みました。著者は日本人女性であるブレディ・みかこであり、その伴侶はアイルランド人のトラック運転手で、所謂労働者階級です。

今のイギリスと、私などがイメージするイギリスは相当に違うようですが、今も貴族階級と労働者階級というものが歴然として存在し、両者の差は差別となって現れることがしばしばあるようです。

ある時、子どもが涙を流していたので、ブレディ・みかこが理由を聞くと、「お父さんがかわいそうだ」と言ったそうです。それは、父親が𠮟りながら「お前は、俺みたいになるな」と言ったというのです。自分の子に「俺みたいになるな」と言ってしまう父親の背後に、イギリスにおけるアイルランド人の現実が象徴的に現われている感じがします。

話が横道に逸れましたが、『グッドフェローズ』に出て来る少年はアイルランド人です。当然、彼の父親はアイルランド人です。そして、多分、アメリカでも豊かにはなっていません。きっと様々な差別をされており、荒んでおり、息子は成功して欲しいと願っていると思います。

お定まりのことですが、父親は子に対しては暴力的であり、酒とは切って切れない関係を生きているのだと思います。父親が息子に対して良かれと思ってやることが、息子との距離を広げて行き、彼らは両者とも居場所を失っていくのです。そして、子は家に帰らなくなっていきます。

必然的に、彼はマフィア組織の末端から暴力の力、窃盗などを覚えていきます。そして、逮捕され、裁判に掛けられても、決して共謀者の名前を言わないことで、彼は次第にグッドフェローになっていきます。その交わりの中に、自分の居場所を見つけていくのです。

そうやって彼は結婚もし、大人になっていき、愛人を持ち、商売として覚醒剤に手を染め、自らも薬を使い始めます。

しかし、彼や彼を可愛がっていた大物はアイルランド人でした。そうである限り、どんなに大物であっても、幹部にはなれないのです。マフィアはイタリア人の組織だからです。

しかし、彼らの親しい仲間であったイタリア人が幹部にされると誘われて家に入った時に、背後から頭を撃たれて殺されてしまいます。彼は非常に短気で、頭にくると相手を殺してしまうという面倒を起こすから、始末されたのです。

ついに、裁判で、犯罪に手を染めていたアイルランド人の大物や、イタリア人のボスの名を言うことで、彼は収監されませんでした。でも、彼は裏切り者ですから、自分の存在を抹殺した上で、生涯、隠れ家から出ることは出来ないのです。そこに彼の居場所はあるのでしょうか。

『ファイトクラブ』1990年


人間は、誰しも何らかの意味で二重人格者だろうと思います。普段の自分と、普段とは全く違う自分がいる。そういうことは、よくあると思います。人に見られない形で、普段は隠している自分を出したりすることもあるでしょう。

最後の方で分かってくるのですが、この映画の主人公はしがないサラリーマンですが、その内面では、世の中に対して激しい敵意を感じています。その世の中で働いている自分に対してもやりきれなさを感じてもいる。そういう極端な乖離があるのです。

そして、彼は相手と激しく殴り合っているのですが、実はもう一人の自分と殴り合っているのです。(ネタバレで言えば、それは映画の最後の方で分かってきますけれど。)

そして、各地に仲間が増えてくるのです。つまり、そういう二重性を抱えている人は彼だけではないということでしょう。そして、この世に溢れている金というものが、諸悪の根源だと彼は思っている感じです。

彼は結局、金融街に建つビルディングを軒並み爆破するという暴挙にでます。その時に、彼は自分の中にある二重性、幻影に初めて気づきます。しかし、既に時遅しという感じの映画です。

私は以前、「言いたいことを言い、やりたいことをやって来た」と言うようなことを言ったら、「言いたいことも言えず、やりたいこともやれない、のが普通ですから」と言われ、「なるほどな」と思ったことがあります。

私のような人間でも、抑圧している自分はあります。そういう自分を解放したいけれど出来ない。仕方なく、我慢しながら生きている。「これが人生さ」と諦めている。そういうことがあるような気がします。

しかし、何が本当の自分なのでしょうか。「自分で自分の全てを受け入れること」が出来るとすれば、「自分は全てが受け入れられている」と思えることが大切のような気がします。自分の全てを受け入れてくれる存在に出会うか否か、そこに居場所があるか無いかは掛かっているように思います。

『そして、バトンは渡された』2021年


なんでも文庫本で去年一番読まれたものが映画化されたようである。主人公はシングルワーザーが育てている小さな女の子である。産みの母親は、彼女を産んで程なくして死んでしまったのです。

その父親が勤めている会社に、病気の故に子どもが産めず、長生きは出来ないと言われている美人がいました。しかし、それは後半まで誰も知らない。彼女は、子どもを育てたいという一心でシングルファーザーと結婚する。

でも彼は、コーヒー豆に異常に執着する人であり、家族でブラジルに行くことを一人で決めてしまう。当然、夫の決断は妻の同意を得ることは出来ず、彼らは離婚し、彼一人でブラジルに行くことになります。

シングルマザーになった彼女は、主人公がピアノに興味を持ったということで、「ピアノを習える」という基準で年上の金持ち男性と結婚したり、1人勝手に出奔したり、東大出の生活が安定しているサラリーマンと結婚して、また離婚したりするのです。

高校生になっていた主人公は、このサラリーマンに一切合切の世話になっています。卒業後は料理学校に通い、自立していくのです。それから程なく、失踪して何処にいるか分からない母親から、ブラジルから送られてきた父親からの大量の手紙が届けられました。彼女が隠していたのです。そして、父親が今は青森でリンゴ農家をしていると知らされました。

彼女は、嘗てピアノとの関わりを作った同じ高校の男性と同棲しているのですが、彼と青森にいる父親に会いに行き、母親が隠していた父宛の彼女が書いた大量の手紙が送られてきたことを知ります。

母親は、それから程なくして死んでしまいます。そして、嘗て結婚していたお金持ちの家で花に囲まれた棺の中で横たわっているのです。

彼女は、要するに、美貌を武器にした、どうしようもない身勝手な女です。倫理的には間違っています。でも、子どもを育てたい、子どもが興味を持ったピアノを習わせたいという一心で生きてきたのです。

主人公はこう言います。「だって、私はお母さんが好きなんだもん。」

人間は「正しい」「正しくない」で生きている訳ではないし、相手がただ良い人だから付き合っている訳でもないと思います。そういう倫理的感覚も大事に違いありません。でも、決定的ではないような気がします。

「だって、好きなんだもん。」
そういう感覚は大事なもののような気がします。

私たちが、自分の中に、そして相手の中に感じたいこと。それは「正しさ」でもあるけれど、何より「好きだ」ということではないでしょうか。

自分の中に、そして相手の中に、「好きだ」という感情を確認できた時、私たちは安心できるような気がします。そこに自分の居場所があるからでしょう。こんなに怖いものは無いし、こんなに嬉しいものもないという感じがします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?