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『ミナリ』『ノマドランド』『ステージマザー』-人間の居場所ー

  私たちは自分が生きている、あるいは生きていくことの理由を探していると思います。その理由が見つからない時、所在がなくなるものです。自分が何のために生きているのか分からなければ、自分が分からない、自分を受け止められないことになります。

 自分を受け止められない人間は、他人を受け止めることなどできようはずもありません。結局、孤立するほかにないのです。表面的には愛想よく生きていたとしても、内実は孤立を深めている。そういうことが、よくあります。

『ミナリ』

ミナリとは韓国語ではセリのことで、繁殖力が強く、2代目以降に繁栄するらしい。そのミナリがこの映画の中で象徴的に使われている。

 カリフォルニアで十年間も工場に通って、ひよこの性別を検査するという単純作業を生業としてきた韓国人夫婦と、10歳くらいの娘、それに心臓に重い病を持つ7歳の息子の家族が映画の主人公である。

 父親は、子どもたちに成功した姿を見せたいと思っている。それは、自分も現在の自分に納得しておらず、意味を見出せないことを意味している。

 結果として、彼はアメリカ南部のアーカンソー州の草原に移住し、そこで韓国野菜を育て、韓国からくる移住者に販売するという夢に向かって邁進していくことになる。

 妻は、街から離れてど田舎に暮らし、夫は未経験の農業をすることには反対である。そして、電線や都市ガスなどとも無縁のトレーラーハウスに住むことも気に入らない。まして、7歳の息子には病があるが、田舎に病院などあるわけがなく、街まではるばる行かねばならぬことも心配なのである。

 言うまでもなく、夫婦の間にはいさかいが生じてくる。夫と妻、双方とも現況に満足していないし、今の自分が本来の自分でもなく、なりたい自分でもないことにイライラしている。

 夫が買った土地は、以前の持ち主が作物が取れずに自殺した土地であることが、ひょんなことから息子は知ることになる。

 そういう中で、この苦境を乗り切るために、韓国(ソウル)から妻の母親を呼び寄せ、共に住むことになる。夫は田舎育ち、妻は都会育ち、そういう違いがあることも次第に明らかになってくる。

 しかし、一家の祖母に当たるお婆ちゃんは、優しい祖母のイメージとは程遠く、花札大好きで下品な言葉を平気で使うな女性であった。病気持ちの孫は当初祖母に懐かない。

 父親が雇うことになった男は、日曜日には重たい十字架を担いで道を歩く狂信的と言っても良いクリスチャン。普段も何かとイエス様に感謝したり、天に向かって神様に感謝を捧げる。父親は理性を重んじる宗教嫌いなのに。

 しかし、同胞であるべき街のスーパーで八百屋を経営する韓国人に、農作物を購入すると約束されながら直前に裏切られたりする。

 そういう中で、妻の母が軽い脳卒中が原因で夜に失禁してしまう。しかし、そのことも一つの原因で、次第に孫の男児との距離が縮まったり、エクソシストまでやるクリスチャンと妻の距離が縮まったり、男児の心臓の病が良くなったり、と色々ある。

 また妻や子どもたちが教会に通い始めたりする。妻が「韓国人教会を作ったらいいのに」と仕事中に同僚の韓国人に言ったら、「この地にいる韓国人は韓国人教会から離れたくて来ている人が多いから…」と言われる。

 そして、街の病院で息子の心臓の病が不思議と良くなっていると知らされ、車で家に帰ると、祖母がゴミ箱でゴミを燃やしている時に、誤って農作物の貯蔵庫に火が燃え移ってしまったことが原因でその小屋が全焼してしまう。

 夫婦は命がけで、まだ火がついていない農作物を懸命に運び出す。しかし、夫婦そろって、全焼する小屋を座り込んで眺めるしかないのだった。

 祖母は自責の念に駆られ、暗闇の中、とぼとぼと家とは正反対の方向にあるく。しかし、子どもたちに止められて家に向かっていく。

 最後は息子に連れられて祖母が見つけた群生しているミナリを、父親が見て、「ミナリを見つけたのは、おばあちゃんのお手柄だ」という場面で映画は終わっていく。

多様性と一致

 父親は、成功した自分の姿を子どもに見せたいという夢を持っている。母親は、貧しくとも、病院の近くで家族で暮らすことを願っている。彼らは、結婚前はそれぞれの個人で生きていた。

 しかし、結婚した後は、妻や夫という役割が増え、子どもが生まれた後は、父親とか母親という役割が増えてくる。祖母が来れば、義息子や娘であり、移民であることから韓国とアメリカ南部の文化の違い。

 キリスト教と言っても、実は様々な違いがある。リベラルとファンダメンタルでは大きな違いがあるし、ファンダメンタルの中でも違いがあり、一つになれない。韓国人教会も一つになれない。

 そういう現実の中で、私たちは理想の自分になりたくて苦闘している。そして、自分に、また自分たちに、何が必要なものなのかを探し求めているのかもそれない。

 そして、それは少なくとも直ぐに分かるものではないのだろう。ミナリのごの如く、世代を越えて示されていくのかもしれない。

『ノマドランド」

 ノマドとは流浪(の民)を表す。だから、ノマドランドとは流浪の民の土地を表すのだろう。それは、境を持たない土地ということであり、更に言えば、ノマドとして生きるということは、自由に生きることを表すのかもしれない。

 大企業が倒産し、住民は皆その企業に勤めていた街は廃墟になり、郵便番号も消えた街に生きていた女性の話である。彼女はその街で代用教員などもしてきたようだが、基本的には仕事一筋に生きた夫の妻として生きてきた。

 その夫も死んでしまった。その時から、彼女の自分探しが始まったのだろう。家財道具などを売り払いキャンピングカーを買い、幾らかのものは貸倉庫に収めて旅に出る。

 その準備をしている時、嘗ての教え子と大型店舗の中で会った。生徒は「先生はホームレスになったの?」と訊くと、彼女は少し考えながら「私はホームレスになったのではなく、ハウスレスになったのよ」と言う。ホームとハウスの違い。それは大きい。

 キャンピングカーで荒れ野を流浪する生活でもガソリン代は掛かるし、食料品だって買うのだから、現金収入を得るために時折様々な所で働く。

 ある時、仕事仲間と昼食をとっている時、全身入れ墨みたいな男の一つの入れ墨に「ホームは自分の心の中にある」とあり、彼女は深く納得するのだった。

 荒れ野には何人ものノマドがおり、集会をしていた。その中心人物は「現代人は貨幣の奴隷になっている。ノマドはアメリカの歴史に深く根差したものだ」と言っていた。(ネイティヴアメリカンのことを思ったが、今は触れない。)

 奴隷か流浪(自由)か、これは確かに大きな問題に違いない。そして、ある時、彼女はその集会の中心人物と話すことがあった。

 彼は彼女に、「今日は息子の誕生日だ。彼は3年前に自殺してしまった」と言った。恐らくその時から彼の流浪は始まったのかもしれない。そして、このことは、滅多に話して来なかったのだろう。

 それを聞いて、彼女は「夫は会社にすべてを捧げていた仕事人間だった。彼の存在を残すために、私は生きているような気がする」と言った。

 その他にも色々あるが、彼女は住んでいた町に帰り、住んでいた空っぽの家に入り、第所の窓から見える荒れ野に昔から心惹かれていた自分を確認したのだろう。貸倉庫に入れてあったものも全て処理し、新たな旅に出る。

奴隷と自由 ホームとハウス

 現代人は、「貨幣」という自ら作り出したものの奴隷として生きているのか。人生は一回きりだ。私たちは生涯、貨幣の奴隷として生きるのか。

 私たちは、貨幣経済の束縛から完全に自由なることは出来ないし、貨幣の束縛から自由になることが、人として自由に生きることとぴったり重なる訳ではないだろう。

 いずれにしろ、自分は何のために生きているのか。そのことを考えることのない人生、大金持ちになることが目標であるかのような人生は、たしかに奴隷の人生のような気がする。

 ホームとハウスは違う。そのことを勘違いしてはいけないと思う。自分のホームは何か、何処か。そのことが分かる。それは大事なことではないか。

 ハウスにしがみつき、そこにホームがあると錯覚したままでは、安定は得ることが出来るが、自由は手に入れることが出来ないのではないか。しかし、何もかも捨てて、流浪の旅に出ることが誰にとっても自由を意味することなのか。

『ステージマザー』

 かつて「総論賛成」「各論反対」ということを書いた。大体のことは、そういうことだと思う。

 この映画は、アメリカはテキサス州の夫婦に生まれた子が死ぬことから始まる。

 その子はドラアグクイーンの同性愛者だった。ドラアグクイーンとは、女装した同性愛者のことのようである。ドラアグは、一説によるとスカートの裾を引きずる(drag)から来ているようである。薬物(薬物はdrug、ドラッグ)に依存している女装した男という意味ではない。

 ドラアグクイーンは、この国でもまだまだ受け入れられてはいないだろう。だから当人は激しい苦闘をすることになるし、その親は言うに言えない苦悶に陥らざるを得ない。隠すべきことではないのに、隠さざるを得ないのである。

 テキサス州では、今も尚、男尊女卑的感覚が強く、男性はこうあるべきだ、女性はこうあるべきだという固定観念が強いと言われる。そして、男性と女性の結婚が当然のこととされる。そして、えてして男性は集まってスポーツ番組を見、その家の女性は家政婦よろしく様々な接待をするというモデルが、まだ生きているらしい。

 私も根底的には固定観念があると思う。だから、「自分の息子がドラアグクイーンでなくてよかった」と、胸を撫でおろしながら映画を観ている。

 母親は当然のことながら男の子として息子を育ててきたし、可愛くて仕方がなかった。しかし、息子は次第に自分の中にある「自分らしさ」に気づき始め、自宅にいること、テキサスにいることが苦しくなってきたに違いない。

 誰だって、自分には決して合わないサイズの服を強制的に着させられたらたまらない。彼にしてみれば、家の価値観、テキサス州の価値観はサイズの合わない服だったのだし、その服を我慢して何年も着てきたのだろう。

 しかし、ある日、彼は家を出て、そちらの面では自由なサンフランシスコに行ったのだと思う。そして、ある男性を内縁の夫として共に暮らし、「パンドラの箱」(蓋を開けたら大変)というゲイバーを経営するまでになる。

 そういう彼だが、違法薬物にはまり、結局、ステージで具合が悪くなり死んでしまう。

 薬物の力を借りなければ消せない悲しみ、怒りが彼にはあったのだろう。愛する両親に認められず、もう何年も会っていない悲しみ、社会においてもテキサス同様の感覚が大半であり、ドラアグクイーンは異常なものとみられている悲しみがあったのだと思う。

 父親は、典型的なテキサスの男であり、息子を恥じている。自分が思い描いた理想とは真逆の道に進んだ息子は、最早息子でもない。子育てを母親に任せていたことを悔いてもいる。

 母親にとって、息子のとった道は理解も出来ないし、応援する気になどなれっこない。しかし、息子の葬式にすら参列しないというのはあんまりだ、ということで、彼女はテキサスからサンフランシスコに飛んで行く。

 そこから物語が始まり、色々あるが、結局彼女は息子が残したゲイバーの共同経営者として息子の内縁の夫と共に働き、ドラアグクイーンになった息子を許せない母親に会い、息子の歌を聞いて欲しいとショーに誘ったりする。

 彼女は、テキサスでは教会の聖歌隊の指導をしていた。その特技を活かし、ドラアグクイーンのショーを格段にレベルアップさせていったのだった。

 一時期、夫の愛?にほだされてテキサスに帰り、自宅に帰ったが、そこに於ける夫の態度を見て失望する。彼にとって、ドラアグクイーンになった息子の姿やゲイバーの経営は隠すべきでことなのだ。

 そして、息子がドラアグクイーンになった原因は彼女の育て方にあると断言し、男が集まってスポーツ番組をテレビで見る時は、女は接待すべきだという固定観念から一歩も出ていないし、出る気もないことを知る。

 その夫の姿を見て、彼女はサンフランシスコのバーに帰る。そのステージで彼女は白い服を着て他のクイーンたちと歌うのだ。彼女の白い衣には、ドラアグクイーンとして歌っていた息子の映像が映るのである。

本当の自分らしさ

 息子が死んで、その後始末で始めたことが、彼女が隠し持っていた彼女らしさを刺激する。そして、それを彼女自身が発見していくことになる。

 彼女の生きる場は、テキサスではなくサンフランシスコの「パンドラの箱」なのである。テキサスもサンフランシスコ、それは単なる地名ではない。古い価値観に縛られていた自分と、自分らしさの象徴でもある。

 男も女も、体は男で心は女も、その逆も、人間は自分らしさを発見し、そのことを互いを認め合い、愛し合うこと。それがどんなに素晴らしいことか、と思わないわけにはいかない。

 しかし、そういう世界はまだまだ出来ていない。人間が、自分らしく生きるとはどういうことか。それには、まだまだ多くのものを捨て、多くのものを断念する必要があるのだろう。そういう自分に出会うことの「幸い」と「不幸」を思う。

山梨教会ホームページ

 

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