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『ゴッドファーザーⅠ,Ⅱ,Ⅲ』

『ゴッドファーザーⅠ,Ⅱ,Ⅲ」

『ゴッドファーザーⅠ,Ⅱ,Ⅲ』は1972年にⅠが作られ、実に18年後にⅢが作られた映画です。それぞれ見ごたえ十分で、一回や二回見たところで、「分かった」とは言えないだろうことは書く前から明らかです。しかし、一つの視点から書きます。

個人的なことを言えば、私はこの映画を通してロバート・デニーロとアル・パチーノを知り、大ファンになりました。

ゴッドファーザーとは、キリスト教(特にカトリック)の幼児洗礼の時に幼子に名を付ける人のことです。そこからも分かるように、背景に聖書があります。だからファーザー(父)の前にゴッド(神)が付くのでしょう。そして、そのゴッドファーザーとは肉の親とは別に、生涯に亘って大きな影響力を持つ存在のようです。

背景には『神の国』があり、人間は「神の子」であり、互いにファミリーであるという思いがあるでしょう。

この映画では二代に亘るマフィア一家(コルレオーネ家)の盛衰が描かれます。マフィアとはイタリア人(特にシチリア島)の組織犯罪者グループのことです。彼らの結束は強く、しばしば「ファミリー」と言われます。「ファミリー」を守ることが、ボスにとっては何よりも大切なことなのです。特に様々な移民からなるアメリカではファミリーの結束は不可欠なものだったと思います。

しかし、そうであるからこそ他のファミリーとの確執が生じる面もあります。また、ファミリーを大切にすることは、裏社会のビジネスで富を得ることにも繋がります。どんな社会でも、この富を巡って争いが生じるものです。

映画の主人公、ビトー・コルレオーネはファミリーを守るために、最後は裏社会から離れ、表社会でビジネスをしていこうとします。しかし、言うまでもないことですが、表社会にも富を巡っての偽善や裏切り、敵の抹殺などがあります。

主人公のビトーが若干の心配を持ちつつ自分の後釜にしようとしている男に一つだけ条件を付けることになりました。その条件とは、自分の娘と「別れる」ということです。それは、その男が自分の娘を恋人にしていたからです。ボスの立場をとるのか、捨てるのかを迫ったのです。その時、彼はこう言いました。「敵は愛する家族を襲う」。

ビトーは自分の娘から危険を遠ざけたかったのです。マフィアのボスをしている限り、危険は常にある。そういう危険から娘を遠ざけたかったのです。

しかし、表社会でビジネスを始めたビトーを殺そうとした殺し屋が撃った弾が娘にあたって、彼女はビトーの目の前で死んでしまうのです。

彼は「ファミリー」を守ろうとすることで、実の兄を殺すことになり、妻とは別れることになり、息子は自分とは逆の道に歩むことになり、娘を目の前で死なせることになってしまう。

ビトーが「ファミリー」を守ろうとすればするほど、「ファミリー」を失っていくのです。それは裏社会にだけある現実ではないでしょう。結局、裏社会にも表社会にも彼に平安はありません。

映画の最後は、シチリアに帰った老人のビトーが、庭の椅子に座り、うつむいている場面です。彼の周りには誰もいません。たった一人で庭の椅子に座っているのです。

思い出すことは苦いことばかりでしょう。ファミリーの結束を深め、ファミリーを守ろうとしてやってきたことが、結束を崩壊させるのです。兄弟を殺し、娘を死なせ、妻は離れていき、息子は別世界に行ってしまう。彼は完全に孤立していくのです。自分がやって来たことは何だったのか・・・・

人間を結び付け、守るものは何なのを考えさせられました。



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