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海に行こうと思って。

「人間は考える葦である。」フランスの思想家のパスカルはこう言っているが、考えすぎな葦はどうなのだろうか?
今日はそんな考えすぎな葦の僕のある1日を読んでいただきたい。

「海が見たい。」
なんだこいつ病んでるのかと思われるのかもしれないが、まあまあ元気なので心配は無用だ。もちろん1人で行く。

僕は始発に乗った。
4連休だけどこんな朝早くから海を見に行く人なんて僕の最寄り駅には1人もいなかった。誰もいない車両に乗り込み窓に映る眠い目をこすって無理矢理起きた腫れぼったい顔を見ながら鎌倉を目指す。
読みかけの小説を進めようと前日意気込んでいたが、案の定睡魔には勝てずまぶたを閉じた。

おぼろげな状態のままなんとか鎌倉に降り立った僕は地元の人々の生活の空気が流れていることに少しの感動を覚えた。普段は絶対に見れないであろう光景を見ることができて優越感に浸った僕はGoogle先生を頼りに一直線に海に向かった。

残念ながら朝日は曇って見えなかったが、念願の海を見ることができた。普段全然写真を撮らないのだが頑張って写真を撮ってみた。我ながら気持ち悪いなと思うが、がんばって海まで来たのだからと言い訳をして載せておこう。

海に足を踏み入れると外見よりも暖かい水が僕の足にまとわりついた。なんとも不思議な感覚だ。そして海はやっぱりいい。普段から考えすぎな僕の脳みそをいったんリセットしてくれるような気がする。どうせこの鎌倉の海を背にした途端余計な考えまでごちゃごちゃ考えてしまうのだが、海を見ているこの時間だけは何も考えていない自分がいることを後に気づく。あー海の近くに住みてー。この日だけで数十回は思った。

十分なリセットを終えて海を後にした。いきなり実行したこの気まぐれも自分の仕事や人生にきっと意味があると言い聞かせて横須賀線に乗り込む。

帰りの電車でふと考える。好きな音楽や映画を自分を飾るためのファッションだと言い張る人もいる。でも僕にとってはそんな大層なものじゃない。もはや常備薬だ。趣味や娯楽を振り回し、ただ生まれて死ぬ過程のなかで、まともに自分と向き合うと疲れてしまう。考えすぎな僕だからこそ今日みたいな端から見たら痛いような行動しないとやっていけないのかもしれない。ただ何かによって、現実の輪郭を少しだけでもぼやけさせながら生きるってのもアリなんじゃないかと思った次第だ。

以上考えすぎな葦のプチ旅行でした。

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