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岡田拓郎オフィシャルインタビュー

OKADA TAKURO oidオフィシャルインタビュー
(序文/インタビュー/構成:柴崎祐二 撮影:廣田達也)


実は、このインタビューを収録したのはアルバムが一旦完成を迎えた3月の上旬頃だった。世界はその後本格的な新型コロナウィルス禍へとはまり込んでいくことになったが、今や、誰しもがウィルスと、そしてそれによって引き起こされる個々人や社会情勢にひたりよる冷え冷えとした恐怖に慣れきってしまったようにも思える。かような状況にあっては、もちろん我々リスナーも、音楽聴取への牧歌的な意欲を以前のままに据え置くことは叶わなくなってしまった。日々洪水のようにリリースされる音楽作品の大海を自主的にクエストしてくれる、かねてより音楽産業が理想的に要請してきた体力/気力/経済力を備えた聴取主体なぞ、一様にナンセンスな想像上の存在になりつつあると感じているし、作り手たる音楽家側にしても、平時に想定していた「ぼんやりと平和な音楽聴取」のイメージが霧消していく中、かつてないほどのドラスティックな意識転換を余儀なくされたようにも思う。

 今思うなら、2011年3月11日を起点としたある一定の時間においても、ここ日本では同様の空気が醸成されていたのにも関わらず、どういうわけなのか、この社会はそのときに漂っていた低温火傷しそうなほどの切迫を忘れ去ってしまい、なんとなく今日に至ってしまっていた、ように思う。言説は溢れ、ぶつかり、戦いあい、破れ、恨みに汚れ、いつしか背景に退き、亡霊的に私達の意識の基底層にわだかまることになった。「音楽に何ができるのか」、「音楽家がすべきことはなにか」、そういう悲痛な呼びかけが祈りとなり、祈りは嘆きとなり、黒いこだまとなり、最後にはどこか(意識の彼方…?)へ染み消えてしまったようにすら思われた。
 なぜなのか。なぜこうなるのか。様々な言説は日々掛け算的にインフレーションしていくのにも関わらず、様々な場所で喧々諤々、様々な議論が交わされ、データが提出され、そして新たな言説が生まれてくるのにも関わらず、なぜ我々はこうも問題の核心から遠ざけられているように思われて仕方がないのだろうか。
 個人的に、これまでも何度となく繰り返しされてきた「(ポピュラー)音楽に政治を持ち込むな」という議論への答えとしては「そもそも持ち込まないことなど不可能である」という立場であるが、この議論が発されたその瞬間から、その問いに隠された本質部を犯罪的なまでに単純化してしまおうとする趨勢にも、そろそろなにがしかの真摯な違和表明があってもいいのではないだろうか。要するに、「持ち込むか」、「持ち込まないか」の二項対立が問題ではないのである。「ポピュラー音楽すべてが内包する政治性を、どのようなレイヤーに切り分けて論じるべきか」が問題の核心へ接近させてくれるだろう路なのだ。

 岡田拓郎という音楽家と彼が作る音楽は、もしかするとこれまで「音楽に政治を持ち込むべきでない」陣営からするとハイコンテクストに過ぎ、「音楽を政治に持ち込むべき」陣営からすると鼻持ちならない音楽スノッブだったかもしれない。でもちょっと待ってみてほしい。少なくとも森は生きている時代から彼と接してきた身としては、彼ほどに、身を切るような切実な社会意識を内在化してしまっている音楽家はいないように思えるのだ。
 シャイでシニカルな彼は、いつでも自ら発する言葉は巧みに濁してきたが、自ら発する音楽については、眩しいほどの透明性を確保してきた。その透明度と光度は、同時代に浮揚する種々の音楽の「シミ」を透かし出し、その構造を再生産してきた様々な作為あるいは不作為を告発してきたように思う。事実私は音楽産業の端くれで口に糊するものとして、彼の作り出す作品に冷徹に見据えられ、心底からハッとさせられたことも一度や二度ではない。
いつでも彼の作品は「純音楽主義的」であったし、それがために、現代に於いて「音楽的である」こととは一体何なのかという鋭い問いかけを孕んできたが、この度登場する待望の新アルバム『Morning Sun』こそは、この時代にあって、より一層の切れ味をもって「音楽的であること」の奥部へと分け入った作品であるといえるだろう。前作EP『The Beach EP』で披露された、AOR〜シティポップ等への(『Youは何しに…』的な事象とは全く無関係で、ディープな)興味に下支えされた高品位の内容から連なる次の一歩は、いわゆる「ソング」への前進的回帰であった。フォーク・ロックやシンガー・ソングライター音楽が継承してきた繊細なサウンドと詩情を引き受けつつも、ロック・ミュージックが「取りうる選択肢の一つ」となった時代における、ここ日本で最初に実践されたもっとも精密(かつシンプル)でアクチュアルなポップ・ミュージックだ。

「本当はポップ・ミュージックなんてやりたくない」と嘯く岡田が送り出すポップ・ミュージックは、これまで以上に純音楽主義的であり詩的でありながらも、同時に、どうしようもなく社会的なものでもある。その理由は、以下のインタビューをじっくりと読んでみてほしい。「ポピュラー音楽すべてが内包する政治性/社会性を、どのようなレイヤーに切り分けて論じるべきか」。もっとも精密な切り分け方を彼と彼の作品が教えてくれるだろう。

この先、COVID-19の収束状況がどのように推移していくのか、あるいは第二波的再燃が待ち受けているのか……誰にもはっきりとはわからない。ただ一ついえるのは、多くの犠牲者への哀悼とともに、変わってしまったこの世界の空気をどう「保存」していくのか、あるいはどう変わってしまったのかを考え、その上で何を壊さなくてはいけないのか、何を守らなければならないのか、問題の本質部はいったいどこにあるのかを考えていくことは無益なことではないだろう、ということだ。
今、この作品を通じて、ポピュラー音楽の「内部」と、その発信/受容/再生産の構造へ真摯に分け入ってみることで、一つの勇気ある「闘い方」の姿が見えてくるかもしれない。ただただ美しい音楽には、美しいがゆえにそういう効能も強くあるというものだ。「音楽しか聴こえてこない音楽」をじっくりと聴くことで、音楽だけが照射する様々な希望が、かすかでも見えてくるだろう。まずは音楽それ自体と、自分自身と闘っていくこと……そう、そこから再び始まるのだ。

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―まず、前作の『The Beach EP』(2018年)から今作へ至る流れについて訊かせてください。前作はAORやシティポップ、バレアリック的なものを感じさせる作品だったように思います。当時を振り返って、なぜそのような音楽を作ろうと思ったんでしょう?

岡田:ここ数年、強いて言うなら2016年以降、歴史を継承しながらゆっくりでも新しい可能性や美学を模索してきたロックが、「新しい」言説を纏いテクノロジーを駆使した音楽に対して、到底追いつくことのできない時代遅れなものになってしまったような気がしていたんです。一方で日本に目を向けると、ちょっと古い音楽や海外の音楽をかじった若手バンド達が、なんでもかんでも雑に「シティポップ」と呼ばれていて(笑)。これは、本当に昨今の音楽ライターの手抜き記事が悪いとおもうけど……いや、話を戻すと、そういう状況の中で、徹底的に「本来の」シティポップをオマージュするというアイデアが生まれました。当初のそういうシニカルな思惑に反して、この制作は久しぶりに音楽を作ることを楽しめたんです。嬉しいことにリード曲「Shore」をはじめアヴァンギャルドな方法論で作った曲含めて評判も良かった。で、そのアイデアを更に押し進めて、オマージュから先に進んだ視点で取り組んだ優河ちゃんの「June」のプロデュースでとても良いフィーリングが得られたので、その流れを汲んで自分のアルバムも作ってみようというのが初期段階の計画でした。

―でも、でき上がった今作『Morning Sun』では、そういう音楽要素は希薄なように思います。

岡田:作りはじめてみて、そういった構造を持つ曲はいくらでも書けるのですが、自分の歌唱力でかつ日本語という拘束があるとどうしても歌が上手く乗せられないという問題に直面して。そんな中、色々な方法を模索しているうちに、時代性とかも関係なく、これまで自分がずっと好きだったもの、それを自分自身ができる力量の中で正直に表現した作品を作るという方向に舵を切ることになったんです。なので、当初からSSW的なサウンドを作ろうとしたわけではなくて、できる範囲のことをひとつひとつ模索していくなかででき上がってきたのがこういったスタイルだった、ということですね。

―なるほど。

岡田:これは後付けかもしれないけど、ヴァンパイア・ウィークエンドとディアハンターが2019年に出したアルバムを聴いて刺激を受けたっていうのもあると思います。北米にいれば、僕なんかよりもずっとうんざりするくらいトラップのビートとかエレクトロニックなヒップホップやR&Bにさらされていると思うんです。もちろんそういう音楽も素晴らしいし、僕も刺激を受けることもあったけど、そういう音楽がメインストリームになっている中、これまでバンドをやってきた人たちって自分たちがこの先どうすればいいのかわからない状況にあったと思うんです。でも、彼らはそういう流行に追従するのをいい意味で諦めたと思うし、自分にとっての「新しさ」を、自分の得意なことの中で更新していく地平に達したと思っていて。なので、久々に新しい音楽を聴いて感動したんです。
その間、アンディー・シャウフとかキャス・マコムスとか、音響偏重のパラダイムとは違った魅力をもったシンガー・ソングライターが地道に活躍していたり、魅力的な音楽は間違いなく生まれつつあった。そういう状況の中で、自分がどういう音楽を作るべきか改めて考えたとき、歌い方の試行錯誤含めて新しい道が見えた気がして。

―アンディー・シャウフやキャス・マコムスなどの音楽には、岡田さんが元々から好きだったオーセンティックなフォーク・ロックに通じるテイストもありますよね。自分の中で、「やっぱりこういう音楽が好きだ」と再発見したような感覚もある?

岡田:それはすごくありましたね。また2016年位の話ですけど、その頃って「新しいものを好きじゃなきゃいけない」みたいな感覚が音楽好きにはもちろん作り手にも広く浸透していたと思うんですよ。「君、いつまでニール・ヤング聴いてるの?」ってわざわざ言う話でもない、ってくらいに……。

―「ロックとそのフォーマットはまず乗り越えられるべきもの」という言説がもはや前提的なものになっていきましたよね。

岡田:そうそう。昔から好きな音楽に比較的忠実だと思う僕ですらその時期はシンガー・ソングライターとか聴く気にならないくらい切迫した雰囲気があった。でも、一方で、大多数の人たちにそういう意識が浸透していくにつれて、ただ状況を追いかけただけのような面白くない音楽も増えていったし、むしろ最近になってからはフォーク・ロックとかシンガー・ソングライター系の音楽がナチュラルにいいなと思えるようになった、というか。

―ロック的フォーマットや言説がポップ・ミュージックの覇権的位置から徹底的に引きずり降ろされたからこそ、そこに付与されていた神話性とか絶対性が剥奪されて、むしろ多様な音楽形態の中で魅力的な選択肢として再び浮かびあがってきたという感覚があります。

岡田:まさしくそうですね。

−今作において、これまでの曲作りのスキームから変化した部分はありますか?

岡田:はい。今回はなによりも、ちゃんと歌を聴かせられるメロディーのいい曲を作りたいというのがありました。もちろんいつもいいメロディーを目指しはするけど、メロディーをサウンドに溶かし込むのではなくて、歌が中心となる「いい曲」を目指しました。今まで歌は全体の中で3番手4番手くらいのつもりでやっていましたからね(笑)。それと今、サウンド・デザイン的に歌が小さい音楽はそれだけで古臭く聴こえてしまうっていうのもあるし。

―あ〜、はい。

岡田:日本語がうまく乗りずらいロックのビートに付随するメロディーをぼやかすために、ボーカルが小さくて、なんとなくテクスチャーとしていい雰囲気を放っているみたいな音楽に飽きたというか。そういう作り方は簡単だし、僕自身今までやってきたことでもあるんですけど…。

―たしかに、当初「歌が小さいミックス」っていうのはそれまでの王道的ポップスや歌謡曲的なものへのアンチテーゼとして機能していたわけだけど、小さいということが常態化してしまうと、一体何なんなんだろうっていう……。

岡田:そうそう。

―「日本語をメロディーに乗せる」という森は生きている時代から自覚的に取り組んできた課題へ、今回は更に深度を増して向き合ったということでもある?

岡田:そうですね。でも、「こういう雰囲気の曲でこういうメロディーでこういう風に歌うとなんとなく日本語が野暮ったく聴こえない」みたいなことって、セオリーがあるようでいて無い、というか。結局、即興的に生まれた断片を自分の持っているロジックとともに行き先を決めずに発展させたものが、最終的にボツにならず世に出せる事が多くて、今回もそういった形で楽曲を書いていきましたね。メロディーや歌詞も何回も書き直して……。うまく歌える/歌えないということにも増して、いい塩梅のところへ落とし込むための作業。歌唱法についても、たとえばこれまでのようにリヴァーブとかに頼りすぎるとかでなくて、限られた力量ではあるけど工夫して頑張ってみました。もちろんその一方で、繊細なイコライジングや定位の調整についてもいつも以上に細かくやっていきましたけど。

―タイトル曲「Morning Sun」は森は生きている時代からの盟友である谷口雄さんと共作したものですよね。これはどんな風に作っていったのでしょうか?

岡田:これまでずっとギターで曲を書いていたのですが、今回はギター特有の和声感とは違ったアプローチを試みたいというボンヤリとしたアイデアがあって。で、そこに意識的に取り組む中ではじめにできたのが「Morning Sun」ですね。作曲クレジットは谷口くんとの共作となっていますが、彼がなにか特定のメロディーを産み出したというわけじゃなくて、何度か僕の家で鍵盤的なアプローチの特性を解説する講義を開いてくれて(笑)。僕の頭の中で鳴っている和声感がどうやったら出るのかというディスカッションの中で、この曲ができたんです。

―シンプルながらこれまでにまして和音のふくよかさを感じます。

岡田:主に、ヴォイシングによるシンプルな和声の滲ませ方、ベース音の置き方について話し合いました。彼がいなければこの曲はできていないですね。ここを起点にして、同様の方法論を発展させて他の楽曲の制作も進めていきました。

―谷口さんは録音にも全面的に参加していますね。他には同じく元森は生きているの増村和彦さんがドラムに加わるだけのミニマムな布陣ですね。

岡田:こういうシンプルな編成に至ったのは、音数自体は少ないけれど、そのひとつひとつが多くの情報量を持った音楽にしたい、という思いからでした。ディティールのひとつひとつに輪郭を持たせる方が、生楽器を扱うにあたっては今日的なアプローチなんじゃないかと思って。そういう視点でニール・ヤングの「Out on the Weekend」や、ボブ・ディランの「Dear Landlord」を聴き返すととても魅力的に感じたり。

―気心知った仲間ならではのやりやすさもあった?

岡田:そこも大きいですね。いわゆるセッションマンというよりは、飲み屋やディスクユニオンで約束せずとも偶然会う地元の友達みたいな関係の人と作りたい、と思っていたので(笑)。それこそアンディ・シャウフやコナン・モカシンのバンドもそんな感じですよね。
そこで顔が浮かぶのはやっぱりバンドで苦楽を共にしてきて話の早いこの2人でした。ピアノに関してはヴォイシングのひとつひとつを、ドラムについてもキックの位置やフィルもすべて自分が指定したかったので、そういった意図を彼らなら汲んでくれると思ったんです。
そうなると、あまり沢山の人を呼ぶというよりはちゃんと時間を割いてくれる人にお金をしっかり渡したいと思って。インディーでやっていると「お金のことはまあいいから」みたいなのについつい甘えがちだけど、このご時世、できるだけそういうことはしたくないし……。まあ、夜中の3時とかに電話で叩き起こされても僕の相手をしてくれる人と制作したかったっていうことですかね(笑)。

―ははは。

岡田:結局、「今この人を呼んどくとアルバムは盛り上がるよね」みたいなの発想から離れたかったっていうのもあります。もちろん素晴らしいミュージシャンが沢山いることは知っているんだけど、それに流されると結局はシステマティックに動くメジャー・レーベルのおじさんが考えるプロダクションみたいになってしまうし。

―なおかつ、アルバムの音楽性に照らしても華やかな参加情報はいらない、と。

岡田:そうですね。

―編成はもちろん、でき上がったアンサンブルや音響の面からも削ぎ落とされた印象を強く感じました。

岡田:そこは明確に意図した部分ですね。USインディー、特にポスト・ロックからブルックリン系全盛期への流れもそうだったし、ある種音楽的なバラエティの行き詰まりを経たのちに、音のテクスチャーをポスト・プロダクション的にいじくることでどうにかするみたいな感覚がここ10〜20年ありましたよね。僕もその時代に多感な時期を過ごしたからそういう音楽にはすごく感化されたし、今でも魅力的だと思うけど、今回、そうじゃないアプローチをしたほうが明らかによりよい未来が待ってそうな気がして。さっきのヴォーカルの話と同じく、僕の音楽ってどうしてもテクスチャー的なところへ回収されてしまうことが多かったと思うし、実際自分もそういうのを強みにしてやってたけど、今回はそこから方向転換を図って、ただ「良い曲」に立ち戻ってみよう、と。テクスチャー重視でいけば「めちゃくちゃ頑張ってミックスして偉いアルバム」って言われたかもしれないけど(笑)、それは避けたかった。

―たしかに、いま話してくれたみたいな「音響の飽和」を経てどうするか、というのは今最も先鋭的な問題意識なように思います。それをもって「テクスチャーからソングへの回帰」といってみてもいいのかもしれないけど。

岡田:なんというか、最近では「テクスチャー」という概念が、ふわっとしたシンセのパッド音を潜り込ませたり、グリッチの音が尖ってるとか、そういう傾向を表す言葉に収束しちゃったようにも思っていて。だから正確には電子音や編集主導の「テクスチャ−」という概念の飽和、ということなのかもしれない。だからむしろ、一つ一つの楽器の音色、それこそを本来の意味での「テクスチャー」というとするならば、音色それ自体にフォーカスすることによって楽器自体の「質感=テクスチャ−」が立ち上がってくる、という内容にしたかったんです。

―ではマイキングからそのことを相当意識して……?

岡田:はい、普段よりマイクを沢山立てて、ひとつひとつの楽器の音をすごく丁寧に録っていきました。楽器の空気振動音の中から「質感」を探し出すイメージですね。

―そういう視点で聴くと、改めてエレピの音とかも相当にネイキッドだなと感じます。一方で雑というわけじゃなくて、すごく繊細な響きを内包している。

岡田:ぜひそこまで聴いてもらえたら嬉しいですね。

―今回もエンジニアとして葛西敏彦さんが参加されていますが、具体的にはどんな作業を一緒に行ったのでしょうか?

岡田:葛西さんにはドラム録音とミックスのお手伝いをやってもらいました。ドラムについては、葛西さん側も機材や環境的にかなり進化しているから積極的に新しい模索もしてくれて。これまでの制作経験も含めた密なコミュニケーションの関係が前提ではありますが、多くを話さなくても、自然と一個一個の楽器の音色をどうしようかということをすごく気にしながらマイキングしてくれて。スネアとか、普通の音に聞こえると思うんですけど、5本位マイクを立てたし、キックも3本以上立っているんです。プロツールス上でのエディットの可能性は残しながらも、録りの時点で奥行き感を意識してレイヤーをよりわけていくイメージです。

―なるほど。

岡田:ドラムの音って良くも悪くも時代感を反映させやすいので、とても注意して録音しました。増村くんにも録音の時点からプレイのタッチ自体もミキシングされた音を想定して叩いてもらいました。去年、ドラマーの神谷純平さんと一緒に録音する事が多かったんですが、マイク乗りの良い楽器の鳴らし方をするなーとずっと感心していて。大先輩ですが……(笑)。音楽のスタイルによりけりな所はもちろんあると思うんですが、神谷さんって、録音の時は生で聴くとかなり小さな音で叩くんです。そうすることによってマイクに負荷のない膨よかな音を集音できるんですよね。そういった話を増村にしつこく話したんので、プレイはもちろんチューニングや楽器選びに渡ってしっかり準備してきてくれました。

―それ以外は岡田さん自身で録音した?

岡田:そうです。Altec1592AとDrawmer1960という旧石器時代的なアウトボードを持ち運んで(笑)、自分で音を作りながら録音していきました。ギター・アンプは、Fender PrincetonとSilvertone1484を使い分けたり、時に同時に鳴らして録音しました。Princetonの音を軸に1484の歪みっぽい音を混ぜ合わせることで、コンプを掛けずにマイルドなフィールが出せたように感じています。逆に「Stay」と「New Morning」のギター・ソロは、Drawmer1960にギターを直結してプリアンプのオーバーロードで歪ませました。それを基本に、設定の違うアンプに何度かリアンプした音を混ぜて若干の空気感を作ろうと試みました。自宅で録ったライン録りのデモのテイクが良くて、なかなかそれを越えるテイクがアンプを使った本録音の際に出てこなかったので、それを生かすためにいろいろ模索していくなかで偶然行き着いた音色ですが、ユニークな結果が得られたので、今後このアイデアを発展させる事も出来そうだなと思っています。
ウーリッツァーも、すべてPrincetonから出しましたね。手間も時間もめちゃくちゃ掛かるけど、誰が演奏してもプリセットで同じ音が出るような楽器には興味が持てなくて。そんな気持ちもあって今回はシンセを一切使わず、再現性の低い指先の感覚で操られた楽器を丁寧に録音して、余計なエフェクトは極力控えてミキシングをしました。

―そういった録音方法が背景にあるからなのか、各人の演奏自体にもある種の緊張感が強く漂っているように思いました。

岡田:MIDIで誰でも音楽を作れるっていうことは素晴らしいと思うけど、僕はアナログな古い人間だからやっぱり違和感というか感動しきれない部分があって……。生演奏ならではの緊張感はかなり詰め込まれていると思います。

―岡田さん自身のギター・プレイも派手ではないけど、緊張感と切れ味がすごい。

岡田:だれが言い出したか知らないですけど、「ギターは時代遅れ」みたいなムードありますよね。そうするとかえってメラメラする性分なので(笑)、ギターをギターらしく鳴らすことには注力しました。

―単純に、更に演奏が上手くなっているな〜というシンプルな驚きもあったり。

岡田:たしかに僕含め、ドラムの人もピアノの人もバンドを一緒にやっていた頃よりは随分上手くなりましたよね……(笑)。これまでは、スタジオでまあまあなテイクが録れたら「後で家で編集します!」という椀子そばみたいなスタイルでサクサク録音したんですが(笑)、そうするといつも事後処理が大変で、何度も手が止まってしまうことがあって。今回は曲を作る段階でアレンジは組んでしまっていたので、迷わず演奏してもらえたように思います。それこそ、関わる人間が少ないので、気を遣わずにゆっくり時間をかけて録音できたのも大きいと思います。

―いわゆる「一発取り」的な単純な緊張感とも違って、もっと精密に全体が統御されている印象もあります。

岡田:実際、演奏はバラで録っているので、一緒には演奏していないです。ドラムや鍵盤をエディットしている部分もあるけど、あくまで音のレイヤーと奥行きの中で一緒に演奏したかのような緊張感を狙いました。
このところ注目されがちな音楽って、すべての楽器がMIDI的に打点がちゃんとグリットしていたり、グリッド線を基準にした揺らぎがループ的に反復するものが多いと思うんですけど、生楽器における緊張感って、打点が端正に並んでいかない揺らぎが残っているものにこそ感じたりしますよね。なので、DTMのモニター上での視覚的な揺らぎではない、もっと感覚的なところを第一に気にしながらエディットしました。ループは使わず、都度都度のプレイのタッチがリアルに感じられるようにするというのも気を遣った部分です。


―ミックスはどんな作業工程でしたか?

岡田:これまで通り、僕がある程度家でミックスした状態で葛西さんのスタジオに持っていって、赤ペン先生的にチェックしてもらうという形(笑)。プロのエンジニアじゃないとできないEQとかコンプとか、いろいろな技を施してもらって、その後細かい調整を自分でしていくという感じでした。歌処理も客観的に処理するのが苦手なので、葛西さんに意見を請いながら作業しました。それを2往復程。ほとんど無勝手流でバイブスだけでやってきたから、あらためてテクニックを教えてもらう機会でもありました。

―歌詞について。はじめてすべて自作詞になりましたね。

岡田:最初はいつもどおり増村くんにも書いてもらったりしてたんですけど、いざ自分で歌うとなると、他人の言葉では今回の音楽の時にどうもうまくハマらなくて……だから自分で書かざるを得なかったというのが真相ですね。

―歌詞を読んでいくと、ほとんどの曲で過ぎゆくものや失われゆくものへの視点が漂っている気がします。これは何故なんですかね?

岡田:うーん、なんでだろう、難しいですね……。今の時代の流れや大きい力への抗えなさとか無力感が自然とそういった方向に導いていったのかな……。物事はもう取り返しのつかない所まで来てしまっているんじゃないかという気持ちは、今すごく強く感じます。


―夜や夜明けをモチーフにした曲が多いようにも思います。

岡田:当初は特にそういったテーマを持って書きはじめたわけではありませんでした。今回も断片的なものも含めてアルバム2、3枚分くらいの曲を書いたのですが、その中で自然と見えてきたシチュエーションが、夜中や夜明け前だったんです。

―なるほど。

岡田:内省的な心情をそのまま内省的な言葉で書いても本当に大海原に砂を投げ込んでいるようだし……(笑)。一方で、ストレートな自分自身の言葉みたいなものはやっぱり書きたくなかったんです。でも、もう気がつけば20代も終わるし、これからどんどんいろんな事を諦めながら生きていかなければいかないと思うと、今の時点でのできるだけ正直な事を書いておきたい……そういう切実な逡巡があって。
そんな中、かつて経験した、まだ呑み足りない夜中の2時頃から親しい間柄の人と「家でもう少し呑もうか」くらいな感じで、アイ・トゥ・アイでちびちびお酒を呑みながら交わした静かな会話やそこで感じた機微を、僕じゃない「誰か」の視点に置き換えて書くという方法を見つけたんです。それこそ森は生きているの『グッドナイト』の制作中は、中央線沿いをほとんど毎日飲み歩いて、呑み足りないから、そのまま増村くんの家に行って、ずっと音楽とか小説とか身の回りのこと、制作のシリアスな話をしていました。そして明け方、毎回「ようやく雲を掴んだ気がする!」という手応えの中コタツで気絶してしまって、翌日目が覚めた頃には何も覚えていなくてただただ気持ちが悪いという(笑)。これは今までも言ってきたし何度でも言いたいんですが、そこでの雲を掴むような作業こそが、音楽を作る身として物事を見極める力を養うとても大事なものだったと思っているんです。それと、深夜2時〜早朝5時頃という時間帯には、社会的な体裁や活動とは多くの人が切り離されて、とても正直になれる時間であるとも思っていて。

―自分の中で意味やメッセージに落とし込む前の、実際に会話の中に漂っていた言葉を捕まえた、という感じ?

岡田:そうですね。

―夜の時間帯って、人にとってもある種の「意味性から降りる」時間帯でもあると同時に、モノにとってもそうですよね。誰もいない道で光っている標識とか、表示物としての目的や意味から開放されていて、異様な美しさを湛えたりする、っていう。

岡田:はいはい。

―言葉も一緒かもしれませんよね。昼間話していることって、純然たる意味のキャッチボールかもしれないけど、夜、宿酔の状態で言葉が実用的な意味から降りてみると、言葉の違う表情が出てくる、みたいな。

岡田:わかります。言葉自体がなにか一個の思考としてたしかな意味を持っているとか、あるいは自分が内実に秘めてきたこれぞという言葉とかじゃなくて、何かを思っているときにそのまま出てきた言葉。そういうのが歌詞になったら面白いなと思ったんです。

―内面吐露とか自分の精神を開陳するとか、ある種のロマン主義的なシンガー・ソングライター言語とは違う。

岡田:はい。明確に。

―その距離感は、まさに先程話していた音楽としてのシンガー・ソングライター・ミュージックとの俯瞰的関係に通じるような気がしますね。

岡田:言われてみればそうかも。でも、なんというか「人にわかられたくないけどわかってほしい」を繰り返している中で、まったく自分というものが反映されていないかといったら、明らかにされているとは思います。ただ距離の置き方をちょっと変えてみようと考えたんだと思います。

―ここで話題をガラッと変えて……。唐突ですが、自分の音楽が「地味だね」って人に言われるとしたら、どんな気がします?

岡田:いきなりですね(笑)。うーん、特に悪い気はしないですかね……そもそも日本語の音楽って、サイズ感みたいなものが小さければ小さいほどいい楽曲が多い気がしていて。こじんまりとした良さ。たとえばクイーンみたいに、華美な装飾がされるほど日本語を伴った音楽って歪になってしまう気がしていて。もちろん素晴らしい例もあるとは思いますけどね。
問題なのは、派手であることそのものというよりも、そういう装飾的で華美で変化に富んだ音楽がシステマティックな日本の音楽産業の中でミュージシャン自身の意図を超えた次元で作られてしまいがちってことなのかもしれないですが。

―いわゆる「J-POP環境」みたいな中で。

岡田:そうそう。

―「大人の事情が作らせる」みたいなものに加えて、ミュージシャン自身がそういう規範を無意識的に内在化してしまっているようなこともありますよね。

岡田:すごくあると思います。その辺のバランス感を見極めてうまくミュージシャンを誘導するはずの裏方も一切そういう規範を疑わずにずっとやり続けてきてしまって。それが今の「J-POP的過剰さ」というべきものにつながっていると思います。珍奇なエキゾチズムとして海外の人が見たら面白いって感じるかもしれないけど、そんな音楽の渦中でずっと生きてきていると本当に耐え難くもあって……。まあ、そういう意味では自分の音楽は地味でありたいかなと。

―そういう態度をアクチュアルな音楽状況からの逃避と捉えられたりもするかもだけど。

岡田:いやいや、むしろいつも創作に没頭することを通して戦っているつもりですよ。音楽を作ることは基本的に辛いことばかりで……本当にエスケープするなら、ずっとハワイとかへ行っていたいですよ(笑)。

―かつて、森は生きているのアルバムを評したあるレビューで、「良くできているけど音楽以外のものが聴こえてこない」といった趣旨のことを書かれたことがあったかと思うんですが。

岡田:ありましたね。懐かしい(笑)。

―社会的にアクチュアルなイシューと断絶した内閉的な音楽と捉えられてしまった、ということなのかもなと。

岡田:まあ、森は生きているのときはまだ22歳とかで、そこまで深いことを考えられていなかったし、世の中も今ほど難しい空気でもなかったと思うんですよ。年齢的にも単純に、音楽に没入することだけで忙しかったしそれで充実感があった。でも今考えれば、絶対にJ-POPみたいな音楽はやりたくないと思っていたし、そこからもっとも離れたものを追い求めていくってこと自体が、自分の社会的な立場を貫く意志だってことは何となくですが考えていたと思います。

―純粋に作家主義的であることで、当時の音楽とそれを取り巻く状況を批評していた?

岡田:批評っていう意味すらもわかってなかったと思うですけど、実際にあの頃やりたかったのは、音楽を通して音楽自体の内部告発みたいなのをしたかったというのはあったと思いますね。

―そこは今回も変わらないというか、よりシャープになっている気がします。

岡田:やっぱりある程度年齢も行って更に自覚的になったんだと思いますし、世の中もどんどんひどくなっていると思うし。そもそも本心をいうなら、社会的な立て前みたいなものとは関係ないところにいたいし、周囲の状況に全く左右されない純粋な意味での音楽を作っていたいという気持ちもありますけど……。90年代に生まれて、かつてあったらしい社会のポジティヴなムードを知らずに今の時代を生きていると、社会的な問題に対して、どうしても人ごとではいられないし、もちろん腹も立っちゃいますよね。

―うんうん。

岡田:とは言え、そんな気持ちを元に、音楽を「使って」アジテートすることも、暴力的とすら言える「J-POP的感傷」をもって誰かの感情を煽るような事も、ただただ多くの人とは違う意見を提示するだけの逆張りみたいな事も絶対にしたくなくて。政治の腐敗もレイシズムも、加速主義も、ややこしくこじれた色々な問題や思想をネットニュースサイトの2行だけのトピックみたいに歌にして伝達することは不可能だし、ややこしい事柄を伝えるにはそれ相応のややこしさを持って伝えなければその問題が抱える本質的な状況が絶対に見えてこないと思います。いまミュージシャンが社会的な方向に向かっていることは僕もいいことだと思っていますが、そういう姿勢が「音楽外」の情報としてたやすく単純な文脈に回収される時代にもなっているのが恐ろしいと思います。
そうした中で、森は生きているから変わっていない僕の音楽を作るスタンスですが、普段感じている違和を重層的な詩のイメージとして連鎖させていくことが、今の時代に対して何か意味を持つことになれば……という気持ちはあります。集団的な熱狂の危うさを歴史が証明しているのであれば、人々が内省的に成熟していくしか世の中が良くなる方法なんて僕は見つからないと思う……。そもそも、こういうインタビューで勇気ある事やショッキングなことを言うために音楽を作っているわけではないですからね。当たり前だけど(笑)。

―なるほど。

岡田:それと、今の新型コロナ・ウィルス禍に対しての政府の対応とかをみるまでもなく、社会全体がこういう状況なのだから、自分たちが活動する音楽の現場でも、直近の経済的実損に限らず、末端的影響が構造レベルで沢山積み重なってきたと思っていて。映画なり小説なり他の表現現場でもあるとおもうし、一般の企業の中でも社会の縮図としてそういう歪み起きまくっているはず。音楽産業のシステムにおいては、J-POP的な感受のあり方の無反省なインフレ−ションこそがそういう歪みの最もたる現れだと思うし、遡って考えても、それをちゃんと批判してこなかったからこそ日本の音楽産業がここまでヒドイものになってしまったんだと思う。自分にできることはたかが知れているかもしれないけれど、正攻法で「自分の創作」に忠実に良質であるものを追求することでその状況へ少しでも違和感を投げかけたいんです。

―一人の作家として、自らの音楽的信念にあくまで忠実であること、それを力強く訴えかけていくことが、鮮烈なアンチテーゼになる、と?

岡田:そう。たとえば、政治的なメッセージに賛同できたとしても、結局音楽自体がめちゃくちゃ普通だったり、J-POP的な規範の範囲に留まる限り、そのアーティストは本質的なカウンターにはなりえないじゃないかとじゃないかと思うんです。僕の意見としては、循環的で自明的な音楽観から逃れられていないポピュラー・ミュージックが世の中に対して真にオルタナティブであることなんてないとおもうけど、お手軽なSNSジャーナリズムみたいなものに象徴的なように、多くの聴き手も論じる側もそんな矛盾は二の次で、ミュージシャン本人たちですら気にかけてない、ということがすごく多い気がする。

―まさに今こんなインタビューをしておいてなんですが……(苦笑)、岡田さんは、音楽に付随する外側の言説への肥大を常に警戒しているように感じていて。

岡田:はい。

―音楽的審美眼が涵養されていないのにも関わらず、外側の言説ばかりが肥大していくのは不健全である、と?

岡田:そう、ものすごく違和感があります。

―でも、もしかしたら伝わりづらくてややこしい音楽的含蓄や修養を捨て去ってまで、外側の言説を肥大させることによって、社会構造へ一撃を加えようっていう戦略もありうるかもしれないですよね。

岡田:もちろん、各人が表現者としてそういう戦略をとるのは自由だと思うんですけど、受け取る側がやたらとその外側の言説ばかりを最も重要なトピックとして便利に称揚するのはどうなんだろう……、という。創作と社会的な要素は相関的なものだというのも理解しているけど、僕たちはなによりもまず音楽家なのであるなら、「社会が抱える問題の話をします。音楽はまあ大体こんなもんでしょう」っていう曖昧さは危うい話だと思います。

―社会的実践性を伴った姿勢に賛同するとしても、まずは持ち場として硬直した音楽産業の歪みを、あくまで音楽創作行為とその作品性そのものによって突き崩すべきだ、と?

岡田:うーん、僕はそう思いますね。音楽に対するスタンスが曖昧であるなら、社会に対しての貫通力を保持する事が出来ないと思ってしまう。


―音楽の「外側」ばかりがクローズアップされて内容それ自体への語りがおざなりにされるなら、もしかしたら音楽が本来持つ社会的パワーを相対的に減殺することにすらなるかもしれない……?

岡田:そうですね。

―では、そうした構造化において、改めて自分の作家性に誠実であること、それを仮にいわゆる「インディー」的な姿勢ということだとすると、どういう戦略をとっていければいいと思いますか?

岡田:それはまさしく僕も知りたいですね(笑)。うーん、なんだろう、ちょっと大きな話をすると……。オノ・ヨーコとジョン・レノンが“War is Over If You Want it”という広告を出した時の話なんですけど、彼らが抱いていたのは、一般的なイメージとは違っていわゆる理想主義的なものじゃなくて、額面通りに『War is Over』や『LOVE AND PEACE』というスローガンを全面的に信仰するわけじゃなく、ただこの時代に自由であることや平和であることに「チャンスを与える」ためにああいう広告を打った、というのをどこかで読んで。誰しもが望む平和っていうのは、考えてみれば人間皆が成熟すれば簡単に起こりうることなのにもかかわらずそうなっていない。だから、平和でないことはあくまで問題の「現れ」であって、いつまでたってもほんとうの意味の成熟が現れないこと自体が問題の本質だ、と。

―なるほど、説得力がありますね……。

岡田:だから、個人であること、ここではそれを「インディーであること」と言いかえるなら、ある種の成熟や冷静さみたいなこととそれは強く連関しているものだと思っていて。

―一方で、インディーという概念を牽引してきたポピュラー音楽たるロックは、冷静の反対側にある熱狂をカンフル剤にして支持を得ていったというのもありますよね。

岡田:たしかに。

―そのロック的熱狂っていうのは、「若者の反乱」というのと同時に、資本主義体制下における商品経済的熱狂ともいえるかもしれない。

岡田:そうですね。

―冷静や成熟を独立的な作家主義だとして、熱狂を資本主義的要請だとしたら、そのふたつの極で引き裂かれるのが、ポピュラー音楽やロックというものの固有的特色なんじゃないかと思っていて。たとえばブライアン・ウィルソンとか。あんなに作家主義的なのに、異様なほどにポップ(大衆的)ですよね。

岡田:なるほど。

―本来、そんなに資本主義が嫌なら非商業的なアヴァンギャルドを極めればいいわけだから。けど、ポピュラー音楽というのは、むしろその引き裂かれの度合いが強いほど、他に得難い緊張感と歴史的耐久性を獲得するんじゃないかなと、と。つらつら話してしまいましたが、岡田さんの音楽からはまさしくそういう魅力を感じるんですよ。

岡田:ははは。たしかに引き裂かれている気がしますね……だからこんなに日々辛いのかな(笑)。さっきも言いましたけど、本当は世の中に何の不満もなかったら、ずっと家で一人歌のない音楽を作って、純粋に音楽としてこんなの聴いたことがないというものを追求していたいんですけどね。周りの音楽とか、周りの世の中とか全然気にせずひきこもって。けど、やっぱりどうしてもそうなれない自分もあって。
でも、今のようなシステムの中だとやっぱりどうしても思うことがあるし、自分がジョン・レノンやルー・リードとかの音楽を聴く中で体験してきた感動もあるので、自分でもポップスをやりたくなってしまうということなのかもしれません。もちろん、キャッチーな旋律や綺麗なハーモニーとか、ポップスの音楽要素それ自体にも魅力を感じているということだとは思うんですが。

―ルー・リードだって、あんなにひねくれているのならグラマラスでポップな音楽をやらなくてもよさそうなのにも関わらず、結局ずっとロックを作り続けていたわけで。

岡田:そうですね。『メタル・マシーン・ミュージック』の作者でありながら、ドゥ・ワップのシングル・コレクターであるっていう。すごくシンパシーを覚えますし、その両面があるから彼の音楽は素晴らしいんだと思います。
まあでも、もっと牧歌的に、ポップスというものの定義が「とにかく良い曲の音楽」みたいなことだと考えるなら、そういう引き裂かれの状態こそポップスの魅力っていうのも音楽をとりまく選択的な言説の一つ、と思えてしまったりもしますね。

―少し話題を変えます。ポピュラー音楽において、絶対的な審美性というべきものって存在すると思いますか?「この曲は正しい、美しい」あるいは「この音楽は間違っている」「この音楽はダサい」とかを決する絶対的な価値基準というものがあると思うかどうか。

岡田:うーん、僕の個人的な好みとしてはもちろんはあるけど…それを絶対的なものとして強要したいとかはないですね。この音楽は「本質からして」かっこ悪いものだ、みたいなのはあまり感じないですかね。

―なるほど。で、話が少し戻りますが、あらためてそういう相対的な見方を前提とする中で、J-POP的なるものを強く忌避する理由ってなんなんでしょう?

岡田:僕がJ-POPに違和感を感じているのって、みんな判を押したように構造的に似たようなものを量産していく規範性みたいなものだと思うんです。「A、B、サビ、間奏、A〜」みたいな再生産されてきた構造を対象化しているか、あるいは取り込まれてしまっているか、音は大抵パッと聴けば明確にわかる。まあ、そこの違和感をスルーしてしまっている音楽って、J-POPじゃなくてインディーの音楽でもたくさんあると思けど、僕には耐え難い。アレンジやメロディー、音像や言葉の扱い方にも言えると思う。
たとえばダーティー・プロジェクターズを聴くけどJ-POPも好きですみたいな感覚の人って少なくないと思うんだけど、僕にはその二重基準がよく分からない……。

―でも、「ポップスは沢山の人に聴かれなければ意味がない」「良い音楽は売れる音楽」みたいな言説もありますよね。

岡田:あ〜……そういう言説については、別に何とも思わないですかね。ポピュラー音楽って、純粋な人たちからは猥雑な広告的世界からは離れた神聖なものとして感受されがちだけど、そこでの大衆的な熱狂状況を、マーケティング的な視座からおこがましくも操作的に作り出そうとする業界的な思惑が渦巻く状況こそが、この数十年とくに日本においてポップスをここまでつまらないものにしたと思っているから……今更なにを言ってんだ?と思ってしまいますね(笑)。

―そういうマーケティング的再生産構造が自明のものとしてあるJ-POPが気持ち悪いと思うかどうかという話は、芸術的次元としてどちらが高尚かっていう議論ではなく、ある種の受容論における議論だ、と?

岡田:そうだと思います。もちろん「J-POP」という文化が地球上からなくなって欲しいと言っているのではなくて(笑)、あくまで日本のポップスが歩みうる別の道についてちゃんと考えたいという話しです。その上で改めて、いまのJ-POP的再生産構造に象徴されるような短絡的で硬直した思考の状態は、今の社会全体における閉塞感とただただ密接しているように感じるという話ですね。

―なんというか……そういう思考を促してくれるという点でも、この作品は面白いと思います。

岡田:でも商業的には、こういった音楽から世の中で淘汰されていきますよね……(笑)。

―いや、長期的には淘汰されないんじゃないでしょうかね。

岡田:そう望みますが……。

―今後はどういう音楽を作っていきたいですか?

岡田:今は本当にナイーブな気持ちで……、何も考えられないモードに入っていて、とにかく非ポップスで歌のないものを作りたいと思っています。

―アンビエントとか?

岡田:いわゆるアンビエントとも違う、もっとディープに音楽としての外郭ギリギリのところに立ち入ったものを作ろうと思っています。すごく長くて、音像的にも空間があって時間的にも間があって、メロディーやビートもない。ある時間内での空気の振動が音楽であるなら、その要件を極端に純化しただけ、みたいな曲を作ろうと思っています。

―もしかしたら今回ポップスであることに自覚的に取り組んだことを経て、精神の自浄を求めているのかも…?

岡田:もう周りを気にしながら音楽を作るのが辛くて……。本質的な意味で社会から隔絶されたものを作り出せるのかどうかという興味もあります。だから「音楽しか聴こえてこない音楽」の究極系を目指せるかどうかという話でもあるかと思います。

―そういう試みを理論サイドから突き詰めていくとおそらく現代音楽的方法論に重なっていくと思うんですが、岡田さんの場合、身体的快楽性や美しさといった視点からアプローチしていくのかなと予想するんですが、どうでしょう。

岡田:そこはやっぱりそうなると思います。楽器演奏者だし、元々ブルース・ギタリストなので。どういう音楽になるか、今のところ自分でも予想がつかないんですが。

―期待しています。

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