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自然調和への自己進化

あめつちの便り「土の音」🌺
【自然調和への自己進化】

ここ 二、三年のうちに、自然保護という言葉がマスコミをはじめ選挙運動にも大きくとりあげられるようになった。ほんの十数年前と比べてさえ隔世の感がある。しかし同時に何が変わりつつあるのだろうか。

文明先進国では環境にやさしいと銘打つ物品が確かに増えている。そして発展途上国と言われる土地の、緑を守ろうとする動きもないではない。

これまで資源を搾取するばかりであった国が、今度はこれらの社会的被害をこうむってきた人々に対し、すべての技術がそうでないにしても、彼らが昔から行なってきた自然再生が可能な程度の資源の利用における、つつましい緑との共存生活さえ否定するような管理のあり方をなかば強制崎出しつつあることも事実である。

アマゾンの自然保護地区の土地の住民に対し、これまでわずかの草木とささやかな小動物の犠牲、そして森の精に対する彼らの祈りと献身的生活によって生態系の均衡が成り立っていた社会の代わりに、わずかの補償金を与えて近代的食生活を強要したとしても自然保護になり得るはずはない。

周辺では依然、熱帯雨林の伐採が続いており、文明の恩恵を貧しい人々に、といった発想ではもはや地球は救われないことが明らかである。

世界的大戦争が実況中継される現在、すでに語るべきことは語られ、知り得ないことはないに等しいほどである。あとは我々一人一人の良心における実践次第であるといえまいか。

少なくとも自称文明人が自然と共に生きる人々に対して指導的立場をとれるはずはなく、できることがあるとするならば、文明の失敗経験を伝え、彼らの生き方、死生観を自ら学んで、自己変革すること以外に何があるだろうか。
    開発援助をするどころか、自己衰亡阻止のため救われねばならないのは自称先進国側なのである。

大自然から隔離されたような生活の中では自然の恵とその中に生かされている自己が見えず、過剰な情報に迷い、自ら本当に求めているものが見えなくなるほどに、生態的感覚と判断力が乏しくなりがちだが、生物的本能の最奥でその危険性に気付いている人や気付く可能性を秘めた人は多くいらっしゃると私は信じたい。

環境問題の解決は本当に複雑で困難なのだろうか。     
    私には超電導現象の存在や、目下追試が行なわれている低温下における核融合現象の発見のように、案外単純なきっかけによって生き方と死に方の発想が大いに組み変わる可能性があるように思われてならない。

一ヶ月にいくらの収入があれば生活できるか――を極言すれば、一秒間に何度呼吸すれば生きられるか――ということにもなる。

一日中このような計算をして生活する人は、よほどの病人を除いてまだおられないだろうが、このような計算なしに自然の中の豊かな乱雑性や意志、そして恩恵を微妙に感知することで、何万年にもわたって人類の肺は動き生命活動が折り重なるように連なってきた実積がある。

自然共棲生活技術が茶の湯でいう作法や型とすれば、その心に近づくためには、少なくとも型の修業を実体験し、その延長が日常生活の空間を満たしてゆけばよいことになる。

自己の良心の発掘と実践は、甘い文明にとっぷりひたった現代人にとって大洋に船出しようとする小さな小舟にも似ているかもしれない。
    私には好運にも小さな帆船を作り、無線機もなく単身トンガ王国へ渡航して住民と生活を共にし、彼らの生き方を学ぶと共に、往復約一万凛 (カイリ) の海上帆走生活を体験させて頂く機会があった。

これは人間社会のみから見れば孤独な旅と映るだろうが、実はまことににぎやかな生活であった。
    物理的には独りだとしても、そもそも人は生まれる時も死ぬ時も一人であり、個に撤することは重病人と同様に生死のはざまにある状態ではないだろうか。

しかもダイナミックかつ繊細に移り変わる大自然を実感できる生活の中では自己が拡大視されつつ、個即全体といった意識のつながりが持てるようであり、そこではさみしさどころか、ある意味で人間社会のみの狭く處像的なストレスに対し、凪や嵐、海鳥やイルカとの遭遇、潮騒や風の音や匂い、波や天体の動き、夜の闇などを含めた尾を引くことのない変化に富む豊かなストレスが、自己の生命にプラスの刺激を与えてくれる。

そしてこれらの計り知れない自然の力と自分の意志との微妙な調和の存続によって、いつの間にか運ばれていたというのが航海の実感だった。

その懐に飛び込んでしまえば大自然はすべてを与えてくれる。
    神が与えてくれる生死を含めた恩恵に感謝し、結果を求めない行為が、逆に生や死の文字さえ存在しない自然の現実そのものに楽しく創造的に生かされる瞬間の連続を可能にしてくれると信じる所以である。

そして、そんな意識を内包するようなトンガの人々の豪胆で優雅、繊細かつ楽天的な生活がそれを証明していることを私は体感することができた。
    信仰心の強い彼らと祈りながら、信じることは大自然の恵みへの感謝ではないか。感謝の気持ちに包まれることほど幸せなことはない。

その喜びを発見し、持続するためには、より多くの生命の"種"と共に生き、共に犠牲になり合おうとする積極的な自然調和への発想が不可欠であり、それを可能にする社会的生態的環境を守り、育むことが急務であるだろう。

目ざめた時はすでに自然はなかったのでは笑い話にもならず、まずは自然体験へのきっかけを得る機会の多い社会的背景をつくるために自然保護意識の自覚を持つことであり、大自然の中の実体験を通じた自己把握をしながら自然調和への自己進化をしてゆくことが、環境問題をはじめとする人類の悩みを解決する糸口に違いない。

それはいつどこでも誰もが可能な広き門なのだから。上村 彰 記(エコロジスト) 
〔 波流(ハル)14号\1991.6\(株)はる書房 〕

    ───────────
【土の音】(食育のグリーンノート & 土の音工房)
http://green17.crayonsite.net
◉メールフォーム(お問合せ、行事等)
https://x.gd/ExowQ

あめつちの便り「土の音」🌺
【自然調和への自己進化】

ここ 二、三年のうちに、自然保護という言葉がマスコミをはじめ選挙運動にも大きくとりあげられるようになった。ほんの十数年前と比べてさえ隔世の感がある。しかし同時に何が変わりつつあるのだろうか。

文明先進国では環境にやさしいと銘打つ物品が確かに増えている。そして発展途上国と言われる土地の、緑を守ろうとする動きもないではない。

これまで資源を搾取するばかりであった国が、今度はこれらの社会的被害をこうむってきた人々に対し、すべての技術がそうでないにしても、彼らが昔から行なってきた自然再生が可能な程度の資源の利用における、つつましい緑との共存生活さえ否定するような管理のあり方をなかば強制崎出しつつあることも事実である。

アマゾンの自然保護地区の土地の住民に対し、これまでわずかの草木とささやかな小動物の犠牲、そして森の精に対する彼らの祈りと献身的生活によって生態系の均衡が成り立っていた社会の代わりに、わずかの補償金を与えて近代的食生活を強要したとしても自然保護になり得るはずはない。

周辺では依然、熱帯雨林の伐採が続いており、文明の恩恵を貧しい人々に、といった発想ではもはや地球は救われないことが明らかである。

世界的大戦争が実況中継される現在、すでに語るべきことは語られ、知り得ないことはないに等しいほどである。あとは我々一人一人の良心における実践次第であるといえまいか。

少なくとも自称文明人が自然と共に生きる人々に対して指導的立場をとれるはずはなく、できることがあるとするならば、文明の失敗経験を伝え、彼らの生き方、死生観を自ら学んで、自己変革すること以外に何があるだろうか。
    開発援助をするどころか、自己衰亡阻止のため救われねばならないのは自称先進国側なのである。

大自然から隔離されたような生活の中では自然の恵とその中に生かされている自己が見えず、過剰な情報に迷い、自ら本当に求めているものが見えなくなるほどに、生態的感覚と判断力が乏しくなりがちだが、生物的本能の最奥でその危険性に気付いている人や気付く可能性を秘めた人は多くいらっしゃると私は信じたい。

環境問題の解決は本当に複雑で困難なのだろうか。     
    私には超電導現象の存在や、目下追試が行なわれている低温下における核融合現象の発見のように、案外単純なきっかけによって生き方と死に方の発想が大いに組み変わる可能性があるように思われてならない。

一ヶ月にいくらの収入があれば生活できるか――を極言すれば、一秒間に何度呼吸すれば生きられるか――ということにもなる。

一日中このような計算をして生活する人は、よほどの病人を除いてまだおられないだろうが、このような計算なしに自然の中の豊かな乱雑性や意志、そして恩恵を微妙に感知することで、何万年にもわたって人類の肺は動き生命活動が折り重なるように連なってきた実積がある。

自然共棲生活技術が茶の湯でいう作法や型とすれば、その心に近づくためには、少なくとも型の修業を実体験し、その延長が日常生活の空間を満たしてゆけばよいことになる。

自己の良心の発掘と実践は、甘い文明にとっぷりひたった現代人にとって大洋に船出しようとする小さな小舟にも似ているかもしれない。
    私には好運にも小さな帆船を作り、無線機もなく単身トンガ王国へ渡航して住民と生活を共にし、彼らの生き方を学ぶと共に、往復約一万凛 (カイリ) の海上帆走生活を体験させて頂く機会があった。

これは人間社会のみから見れば孤独な旅と映るだろうが、実はまことににぎやかな生活であった。
    物理的には独りだとしても、そもそも人は生まれる時も死ぬ時も一人であり、個に撤することは重病人と同様に生死のはざまにある状態ではないだろうか。

しかもダイナミックかつ繊細に移り変わる大自然を実感できる生活の中では自己が拡大視されつつ、個即全体といった意識のつながりが持てるようであり、そこではさみしさどころか、ある意味で人間社会のみの狭く處像的なストレスに対し、凪や嵐、海鳥やイルカとの遭遇、潮騒や風の音や匂い、波や天体の動き、夜の闇などを含めた尾を引くことのない変化に富む豊かなストレスが、自己の生命にプラスの刺激を与えてくれる。

そしてこれらの計り知れない自然の力と自分の意志との微妙な調和の存続によって、いつの間にか運ばれていたというのが航海の実感だった。

その懐に飛び込んでしまえば大自然はすべてを与えてくれる。
    神が与えてくれる生死を含めた恩恵に感謝し、結果を求めない行為が、逆に生や死の文字さえ存在しない自然の現実そのものに楽しく創造的に生かされる瞬間の連続を可能にしてくれると信じる所以である。

そして、そんな意識を内包するようなトンガの人々の豪胆で優雅、繊細かつ楽天的な生活がそれを証明していることを私は体感することができた。
    信仰心の強い彼らと祈りながら、信じることは大自然の恵みへの感謝ではないか。感謝の気持ちに包まれることほど幸せなことはない。

その喜びを発見し、持続するためには、より多くの生命の"種"と共に生き、共に犠牲になり合おうとする積極的な自然調和への発想が不可欠であり、それを可能にする社会的生態的環境を守り、育むことが急務であるだろう。

目ざめた時はすでに自然はなかったのでは笑い話にもならず、まずは自然体験へのきっかけを得る機会の多い社会的背景をつくるために自然保護意識の自覚を持つことであり、大自然の中の実体験を通じた自己把握をしながら自然調和への自己進化をしてゆくことが、環境問題をはじめとする人類の悩みを解決する糸口に違いない。

それはいつどこでも誰もが可能な広き門なのだから。上村 彰 記(エコロジスト) 
〔 波流(ハル)14号\1991.6\(株)はる書房 〕

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