異常と正常、正論ビンタ

「あなた変わってますね」という多数派の脅迫と、
「あなた普通ですね」という没個性の軽蔑にもはや耳を貸す必要が無いのは明らかなのだが、あえてこれを考えてみようと思う。

何故かというと何か考えたかったからだ。
これは金魚が小石を口に含んで吐き出す行為に等しい。
全くもって無味乾燥、コンニャク級に栄養のない駄文になるであろうがnoteの淀みに流れ着いた金魚の皆様においては是非一緒に小石を食ったり吐いたりしてほしい。私とともに無駄な師走を駆け抜けようではないか。



こと思春期の少年少女においては普通というものに酷く惹かれる傾向があるように思う。
惹かれるといっても普通であることではなく、普通という概念に、である。

普通とは何か、普通でいるべきか、何をもって普通とするのか。

普通に考えて学生の求める普通とは殆どが目立たないということ一点に集約するのだが、閉鎖空間で孤独に思考を巡らせた場合この問いが暇つぶしに丁度いいことは言うに及ばず。人間関係の悩みを解決するにあたって頭の中でこういった問題を考えると一時の満足感を得ることができるのだ。

過去の自分を嘲笑するのはこの辺にしておこう。
今の自分は一歩進んで
「普通」
という言葉を好んで使うヤカラに対し石を投げていこうと思う。


普通という言葉が足裏にひっついた砂粒じみてストレスを与えてくるのは普通の価値が人それぞれで分かりにくいからに他ならない。

「あなたちょっと変ですね」
という言葉が
「天邪鬼気取ってクッソ痛いですね」
「世間に迎合しないスタイルが素敵ですね」
という真逆の意味で使われることすらあるだろう。

要するに普通という感覚は味覚や匂いのように好き嫌いがある主観的感想であると言ってもいいのではないだろうか。
そんなだから何も考えずに普通という言葉を使うと怪訝な顔をされることも多い。


例えば自己紹介するとき
「自分は普通の人間である」
或いは
「自分は変わっているとよく言われる」
などと言おうものなら反応は十人十色、そのうち最低でも一人は発砲してくるだろう。無難な自己紹介をしたはずが不可思議な攻撃を食らい、反射的に上司の頬を張ってしまった新社会人も多いのではないだろうか。

普通に属す 属さない
異常に属す 属さない
普通を好む 嫌う 興味を持たない
異常を好む 嫌う 興味を持たない

ざっとこれくらいの要素があり、いろいろと組み合わさっている。それも明確な境は無く、グラデーションのように曖昧な位置に属していたり、その日の気分で属する位置が変わったりすることもある。

つまり「普通の人間である」に対し無数の反応が予想されるということだ。
否定的なものとしては

「どの辺が普通なのか」(排他的普通)
「つまらない人間だ」(普通の否定)
「だからどうした」(興味なし)
「普通の人は普通って言わない」(逆張り天邪鬼)

みたいな意見が出てくるだろう。
「変わっていると言われる」の方は尚のこと、社会不適合者のレッテルを貼られ社内のニンジャに命を狙われるハズだ。


なぜ普通という概念が自己紹介に関わると排他的、攻撃的な人が発生するのか。
それは相手の普通観を侵害しているからだと私は思う。

つまり、お前が普通かどうかは私が決める。
お前が私の普通を決めるな、ということだ。

ゆえに初対面の人間が普通か否かをアピールしてくると無意識的にイラっとするのだろう。
普通というのはそれに価値を見出す人にとってはマウントポジションを取ることが出来る大切な人間関係の要素だ。

例えば誰かの行動を制限するとき、
「普通はこうする」
「普通そんなことしないから」
という言葉が使われることからもよくわかるだろう。

普通でいることは主流であることであり、異常と敵対した際に有利な立場をとることができる。この立場を侵害し、我こそは普通を決める者也などと言おうものなら
「じゃあ君の言う普通って何?」
「いやそれはちょっと普通じゃないよね」
「普通っていうのは云々」
という微笑ましいマウント奪還論争が巻き起こることだろう。
少なくともこんな争いを見るくらいならザリガニの喧嘩を見ていた方が楽しいのは確かだ。



下らぬ論争だと一蹴するのは容易いことだが、それは少々勿体ない考え方である。
知的生命体たるもの人間の生態をしっかり理解し、それを活用した悪辣な処世術を編み出し、そっと胸に仕舞っておくくらいが紳士的であると言えるのではないだろうか。

折角ここまで普通に関わる価値観を推察したのに、胸やけを起こしながら普通を愛する者たちの例文を考えたのに、
「普通なんてクソくらえだぜ! Foooo!」
が結論ではあまりにも普通だろう。

この普通への執着とマウントポジション、その他もろもろを練り合わせて普通という言葉の活用法を考えてみよう。


まず普通という言葉の持つ性質を考える。

肯定 
 無難 安全 問題無し 

否定
 つまらない 凡庸 有象無象

普通という言葉にはこういう雰囲気があり、良くも悪くも突出していないことを指し示す。
つまり突出していないことをやんわり肯定、または否定する際に「普通」は適している。

例えばクソ不味いと噂のお菓子が不味くなかったとき、
或いは面白いと噂の映画が面白くなかったとき、
普通ですねと言うのが適切だろう。

だがこれはあまりに一般的だ。
人をイラつかせるにはもっと深い所をつつかなければならない。


そのためにはやはり聞き出しと否定が効果的だろう。
何のことはない、一般的なパワハラ問答である。

普通、あるいは異常なことを誇っている人に
「どのへんが普通/変なの?」
「ふーん、そっかぁ、俺はちょっと普通/変じゃないと思うけどなぁ」
という問答を吹っ掛けるだけだ。
相手の否定を前提とした問答である。

対して肯定を前提とした問答もある。
上のパワハラ問答に
「でも俺は良いと思う」
と付け加えるだけだ。

客観的には望む性質と相容れない性質であることを伝え、しかし自分は理解者であることを主張する。
孤立させ、不安をあおり、そこへ付け込む話法である。肯定しているだけ優しいようにも思えるがカルト宗教の洗脳とほとんど変わらないのでパワハラ問答より悪質だと言える。

文字だけで見ると絶対引っかからなそうな落とし穴なのだが、落とし穴というのは暗い熱帯雨林の中にひっそりと仕掛けられるからこそ恐ろしいのだ。
実生活でこのメゾットを活用している人が居たら朝ごはんの話でもして切り抜けよう。



さて、普通という概念が使いようによっては便利であることを儀礼的にアピールしたところで結論を出そうと思う。
まず、普通という言葉は便利であることに疑いは無い。適材適所、便利に使うべきだ。
そして普通という概念は主観を通してみると大体面倒くさいことになるので触れないのが吉だ。

間違っても
「変わっている/普通だ」
という言葉を真に受けて自分をそのようにアピールし、
「いや、全然?」
という否定を真に受けて普通/変のアピールを逆転させ、さらにそれも否定されて逆転させてというストレスを溜めるだけの環状構造に取り込まれることだけは避けた方がいい。
特殊なマゾヒストであるなら快適な空間かもしれないが常人であれば発狂するだろう。
私もこのタライ回しに片足を突っ込んだ時は仲のいい人だろうと大きめの鍋にぶちこんで煮てやろうかと思うくらいストレスを溜めたものだ。

私の場合、普通である、異常であるということを表明するのは自身の異常性、凡庸な点を許容してほしいという下心が多分に含まれる。
その用法で普通、異常を使って自己紹介して殺意の風が吹き抜けるというのが常だった。
お陰様で人間の性質を邪推して暇をつぶす程度の情報は得られたわけだが、今やもうどうでもよい。私の異常性を目の当たりにして勝手にドン引きしてろ、期待外れに失望してろ、私はお前に期待しないしドン引きするほど興味もないから、というストロングスタイルを貫こうと思う。



さて、私はこれから先日支給されたボーナスを浪費して変な骨董品を買いあさる作業があるので、頭の体操はこの辺で終わりにしよう。

最後に、
「この程度で異常って言っちゃう?」
「それ割と普通だよね」
のようにわめく似非アーティスト地雷を踏んで心にストレスを抱えた人へは奇行チキンレースをお勧めする。
手始めに子牛の睾丸を料理してレシピと食レポを送り付け、
「まあ、全然普通なんだけどさ・・・」
みたいなことを言ってみよう。

そいつは奇行を際限なく許してくれる存在だ、全力をぶつけても壊れない玩具だ。
全力で壊しに掛かろう。

以上、冬の日の走り書きである。

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