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怖い話をすると幽霊が寄ってくるという話、それに関わる下らない体験

度々耳にするのだが怖い話をするとオバケが寄ってくるらしい。
確かに怖い話を聞くと少々胸中がざわつくように感じる。

しかし最近たくさんホラーなコンテンツを摂取した結果、このざわつきについて少し違った見方が生まれた。

まず、怖い話を聞いて怖くなる。
すると普段は無視する家鳴りがやけに大きく感じられるだとか、つい暗い場所に目を凝らしてしまうだとか、そんな感じになってしまう。つまり恐怖を受信するアンテナが立ってしまうのだ。
恐らく人間は、少なくとも私は普段恐怖心に蓋をしている。

人間はその想像力の強さゆえに恐怖の浸食を受けやすい。
なにせ存在しない上位存在や超自然的な化物を創作して恐怖するほどだ。闇の中に怪異を思い描いて恐怖することなど造作もないだろう。

これは天敵などの致命的存在を事前に察知する思考回路だと考える。人類に天敵なき今、この原始的思考が想像力と組み合わせられて架空の天敵を生む。
そして理不尽な死や最悪の未来を空想し恐怖することが出来る。

もっとも、こんな考え方は非常に疲れるので、普段は蓋をしているというわけだ。
しかし一度恐怖を与えられると恐怖を見出す目が開いてしまう。

つまり、怖い話をしても感覚と想像力が強化されるだけで何かが寄ってくる訳ではない。
元来そこにあったものが急に見えたものだから、寄ってきたように見えるだけなのだ。


茂みを何者かが揺らした、水たまりを何者かが踏んだ、そういう小さな気配を感じ取り、恐怖し、備える。
この天敵に適応するプロセスが怪談と寄ってくるモノにまつわる不思議な感覚を生み出すのだろう。
しかし本物は恐怖に蓋をしている人間が気付く間もなく傍らに現れるものではないだろうか。

私は怪奇現象の実体験を切望している。
死ぬまでに一度はオバケというものを見てみたいものだ。

しかし残念なことに一度も見たことがない。
手相に仏眼という 霊感バリバリあるよ! という相があるにも関わらず一度もない。どういうことだろう。
確かに黒い影は度々目にするが、明らかに疲労や飛蚊症から来るものだ。もっとこう、ババーーーン! と来てほしい。四時間しか寝てない日に視界の端を影が走るようなサッパリしたのではなく、リングや呪怨のようなチャーシュー5枚ゆで卵付き豚骨こってりラーメンみたいなのが欲しい。

もっともそんな二郎系幽霊が来たら死んでしまうのは確実だ。
残念なことにこってりホラー映画で私のようなキャラが出てくると面白いほどサクサク殺される。ふざけてお札を剝がしては何かを見て発狂するし、一人で便所に行っては血まみれで発見される。そういう星の下に生まれたのだ。
きっと見た時は死ぬとき、ならば死なない程度にほんのり超常を垣間見たい。

そんな願望を少しだけ満たした経験を蛇足ながら加えておこう。



私は畜産に携わっている。
具体的には牛を飼育する職場に勤めているのだ。

効率化された牛舎というのは大抵長い。
真ん中に長い通路が敷かれ両脇に牛房が並ぶ形になる。牛房の通路側に飼槽が置かれていてメシの時間になると寝ていた牛たちが一斉に顔を出して大きな頭をずらりと整列させるのだ。

牛というのは頭の横に目が付いている。
そのため鼻先は死角であり何かを見る時は横顔で見る、と思われがちだが、時と場合による。鼻先にあるモノは鼻先で探るし、少し離れた場所は正面を向いて注視する。

確か17歳の秋頃だ。
実家でも牛を飼っていて当時学校帰りに牛舎へ寄って少し仕事をしてから家に帰るというのが常だった。

午後6時。まだ日は長く、牛舎の外は仄暗い青色であった。
私の仕事は主に牧草を与えてから通路の床を掃除すること。食欲旺盛な牛たちは牧草を両手に抱える私をガン見して早く寄越せと訴えかけてくる。そして草を与えると一心不乱に食い始めるのだが、これが実に可愛いもので、昨年苦労して集めた牧草を牛がドカ食いしている姿を見ると大学近くで飯屋をやってる主人の気持ちが少しわかるような気がした。

7割くらい牧草を与えた時だったと思う。空っぽの飼槽に牧草を落としたのだが牛はそれを食わなかった。私に横顔を向け、入口に鼻先を向けている。
牛というのは少なくとも私より耳が良く、牛舎への来客は人間より先に察知する。

誰か来たのかと思い振り返るとさっきまで草を食べていた牛たちが一頭残らず口を止めて入口を見ていた。

しかし何もいない、誰も来ない。
それなのに牛たちは虚空を見つめている。

牛は基本的に何を考えているのか分からない顔をしているが、あっぱらぱーの私よりずっと注意深く世界を観察している。
そんな牛の視線を散々浴びてきたから理解した。
今、彼らは確かに何者かを見ている。
そして多分、私もそれを見てしまっている。

どうしたら良いか分からなかった。
異様な光景に固まることしか出来ない。

腹の底から滲み出る恐怖が思考を麻痺させた頃、牛たちは再び草を食い始めた。
居なくなったのか、或いはまだ居るが無害だと判断したのか。

何も分からないまま私は爆速で牧草を残りの飼槽へ放り込み掃除を放棄してマッハで帰った。

時は過ぎ25歳になった今も牛と共に暮らしている。
あれから不可視の気配を感じた場面は一度もない。だが牛と共に生きている以上、機会はあるはずだ。
このことを思い出す度に何故か私は幽霊との邂逅を切望し失禁するほどの恐怖を求めてしまう。

多分怖い話をしたとて幽霊が寄ってくる訳ではない。
眼が開かれるか、あるいは自ら近寄ってしまうのだと思う。

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