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医療不信の源 なぜ私は「アレ」に反対するのか③

ネットなんかなかった時代でも、人は「自分好みの」情報に触れればそれを追求してしまい、結果、信じ込んでしまうというのはあった。私のような根っからの天邪鬼は、常識とされていることを疑うような内容だとむしろ惹かれたものである。

だからこれから書いていくことはたぶん思い切り私の勝手なフィルターがかかったことであり、それをむやみに人に対して説得したりはしない。私が信じている(信じようとしている)ことを自分のためにまとめようとしているだけである。とはいえ、客観的になろうとそれなりの努力はしている。
 
ようするに、母が壮絶に苦しんで亡くなったことは、「治療」の失敗なのだということである。しかし医師や病院を恨んでいるとか、訴えたいとかではない。母は最終的に東大の癌研病院に入院していたので、それなりに「当時の最先端の治療」をしてもらっていたはずだ。それでもあれだけ苦しんで亡くなった、というのは残念ながら当時の限界であったのだろう。

だが私はその後、いろいろなところで「がんと戦わない」系の論説に触れ、その内容に深く納得するようになった。
手術、放射線、抗がん剤、のいわゆる「標準治療」に疑問を持つようになった。

とりあえず母について言えば、おそらく最初の時点で手術して全摘しなければ、たとえいずれガンで亡くなったとしても、あそこまで苦しむことにはならなかったのではないか、と思っている。

胸にしこりが見つかったとは言え、そのときまでピンピンしていて、なんの問題もなかったのだ。ところが手術してしまったがゆえに彼女の人生は一変した。
少なくとも、あのひどく浮腫んでしまった腕のために辛そうにしている姿は、手術しなければなかったはずのことである。

若くして片方の乳房を失ったことによる精神的な苦しみもいかばかりだったか。とにかく彼女は多大なるストレスの真っ只中に放り込まれた。

私は、過度のストレスこそが万病の元だと思っている。

もちろん結果論であり、たらればであるから分からないけれど、そのストレスがなかったらあるいは彼女のガンは転移などしなかったかもしれない。

転移するといけないから、とリンパ腺を切除したのも大きな間違いだと思う。リンパ転移があると全身に回るから予防的に切除する、とがん治療のサイトなどには書いてあるが、ここからして私は疑う。リンパ腺を切除しても身体には何も影響ありません、とまで書いてあるサイトも有る。んなわけあるか!

リンパ節はむしろ、免疫機構の設置した「関所」だとも言われる。ここでまず、癌細胞が全身に回らないように防ぐ、と。
とはいえそれに失敗するとリンパ節自体で癌が増殖するから、場合によっては切除する、と医療系サイトには書いてある。
だが、癌細胞がリンパ節で見つかること自体は、関所であるから当たり前なのである。今の医学ではそれと、リンパ節で増殖しているという状態がちゃんと識別できるのだろうか、それは私にはわからない。
だが母の場合はたぶん安易に取ってしまったのだろうと思う。取ったからこそ全身にまわってしまったのではないかとも疑っている。今更調べようもないことだが。だが少なくとも異常に浮腫んだ腕は彼女に苦しみを、ストレスを与えたことは事実だ。



そういえばかつて盲腸も無用の器官と考えられていた。だがその後の研究で、盲腸は大腸の腸内細菌叢の維持に必要なリンパ組織であると分かった。つまり免疫機構にとっての重要な存在だったのだ。それなのに、要らないから、とひどいときには盲腸炎以外の開腹手術でも「ついでに」「予防として」切除してしまうこともあったらしい。

そうはいっても虫垂炎を放っておくのは命にも関わるだろうから場合によっては切除せざるを得ないのだろうが、最近はさすがに、有無を言わさず切除、ではなくなってきているようである。


ここで言いたいのは、体の仕組みなんて最近だって、実は医者にだってよくは分かっていないのだということである。目に見える働きだけが働きではない。とくにこの虫垂のように、免疫系のバランスを司る、などという役割は本当に分からない。盲腸を取ってしまった人も普通に生活しているだろうが、長期的な影響はわからないし、そもそも例えば後年になってなにか身体の支障が起こったときにそれが盲腸を取ってしまったことが間接的に影響していないとも言い切れない(が関係あるという証明も難しいだろうが。免疫系の不全であると症状は多岐にわたるだろうし)。

だが、ここで言いたいことのさらなるコアな論点は、「分かっちゃいないのに、分かったような気で処置をする」ことの傲慢さのほうである。かつ、生きた身体というものの神妙ですらある「仕組み」への崇敬。

今(までの)医療に足りなかったものが、この神妙さへの崇敬である、と言うのが私の根本的に言いたいことだ。人間の浅知恵でどうにかできる、どうにかしようと思ってしまうこと。
 
もちろん医療を全く施さずに自然に任せよ、と言うつもりはない。
けれども「立脚点」の問題である。

ちなみに言うと、分析に統計的なデータを重視することは大切である。
だがデータには現れてこないことも多々あるのである。ホリスティックな視点に立つとますますそうで、風吹けば桶屋が儲かる、というのを統計的に証明せよと言ってもせんないことだ。いや、ある程度の「傾向」は見て取れるかもしれないけれどね。だから統計的な、数値的データばかりを重視する人も私はいささか近視眼的だと思ってしまう。ホリスティックな世界観では1+1が3や10になったり、2-1がゼロになったりするのだ。

しかし統計に見て取れる「事実」まで無視するってのはさらにどうかと思うけどね。まあその事はまたあとで書くだろう。

画像はほぼ無関係のダミー。でも今日のたなくじがこれだから私も勇気をだして、書きたいと思ってたことを書く。



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