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私は重と景の見分けもできないほどの人間です。

私は昨日から何か勘違いをしていたようです。

広重広重と連呼していましたが、私の昨日の投稿の話の中心は歌川広景”ひろかげ”でした、、!!!!

文字が似ていて区別がつかずゴッっっっっちゃごちゃにして偉そうに解説していました、、。恥ずかしい!!!!!

だから昨日解説した
”広重は『東海道五十三次』と『名所江戸百景』、『江戸名所道戯尽』を主に描きました!!!”
の旨を書きましたが、多分何もかも違う、、。

今日は広重と広景の違いをはっきりさせていこうと思います。。笑

【広重】
1797年から1858年に生きた人です。
1811年頃に歌川豊広の門人となり、有名になってくるのは1823年頃でありました。
広重は絵師生活の長い人ですね。
昨日の解説と違って!!!!
一番有名な作品である『東海道五十三次』は風景画。
これは合ってる。
この作品が制作開始したのは1834年頃。この年が丁度葛飾北斎の『富嶽三十六景』のシリーズが刊行完了したときと重なるので風景画を引き継いだように始められた作品群であると言われています。
東海道の各宿場を描いた作品で当時は相当な人気なシリーズだったようです。

広重はその風景を幕府の八朔御馬献上の行列に加わって上洛した時の写生をもとにして描いたと言われています。

その後にも五十三次シリーズをいくつか出しました。
『木曽海道六十九次』や『金沢八景』、『東海道五十三対』、『不二三十六景』、『名所江戸百景』、『冨ニ三十六景』などなどの風景がシリーズを残しました。


そして渓斎英泉の仕事を引き継いだそうです。
渓斎英泉についてよく存じ上げませんが、派閥に属せずに独立した立場を取っていた人であったそう。
大首絵を主に描き、凄絶と評価された生々しい色気の美人画をも描きました。

『美人東海道 原』という作品。
見せるところは見せて見せないところは見せないという色気の出し方。
こういう絵を描いていたのですね。ほんんんんの一部。
後に世の中で流行る風景画の波に乗り、この分野でも作品を残しました。

『木曾街道 続ノ壱 日本橋 雪之曙』です。
日本橋だ!と令和の私でもわかるほどキャッチーな絵で、当時の江戸の人にも人気だっただろうと思います。

上の日本橋の絵のシリーズである『木曽海道六十九次』は渓斎英泉によって始められましたが、それを広重が担当したということらしい!!

これもちゃんとみていきたいなあ。
新しいシリーズを知るたびに見ていきたいなんて言ってますね笑。


そうして広重は風景画が全盛期のまま、亡くなる直前まで大作を描き続けていました。

これが広重の略歴でした!!!
広景ではなくて!!!!


今日はここまで!
紅白見てケーキ食べてカウコン見て寝よう!!

今年四か月間、一つでも私の記事を読んで下さった方々、その上スキをしてくれた方々、大変ありがとうございます!来年ももちろん書き続けます!
浮世絵ー、大好きーー。(ハヅキルーペ)

#歌川 #広重 #広景 #東海道五十三次 #渓斎英泉


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