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小説【ブレインフォグの明日】③

「いやもう、このコロナ禍で業績が芳しくなくってね」
 美那が聞きもしないのに、課長は開口一番そう言った。彼が話す度、ウレタンマスクがもごもごと動いて鼻が現れる。
 
 私物を会社に取りに行ったついでに、お見舞金十万円と未消化の有給換算三万六千円が手渡された。課長が精いっぱいやらせてもらうと言っていた答えがこれだ。

 案の定、退職金は出なかった。一年ごとの契約社員には一円もないのだ。改めて示された契約書にそう書かれていた。十万円の見舞金は、事業主の都合による退職ではなく自己都合の退職にしてほしいとの含みらしい。こうなった以上、離職票が届いたらすぐさまハローワークに行かなければ。

 ゴールディンウィークももうすぐ。
 町には陽光が降り注いで、季節はどんな時でもごく普通に巡っているというのに、自分を待っている明日が読めないままでいる。七月開催の東京オリンピックは、美那にとっては遠い外国で行われることのように現実味がなかった。

 ハローワークのコンピューターの画面をスクロールする。思うような仕事はなかなか簡単には見つからない。焦る。
 経理事務に就きたくて、これまで九社にエントリーしたが、そのうち六社は書類選考で落ちてしまった。面接にこぎつけた三社も、若い男性が優先されたり反対に自分よりうんと年上のおばさんに負けたりと、なかなか思うようにいかなかった。
 
 もう職種を選んでいる場合じゃないのだろうか。いや、もう少し粘ろう。今度は契約社員じゃなく、正社員として勤めたい。失業保険の給付も四月で終わる。危機感が美那の胸に押し迫る。

 ハローワークの帰り道、自転車を漕ぐ。本当は、まだどことなく怠くて頑張りがきかない。いったい、いつになったらすっきりするのだろう。

 いつもなら通り過ぎる、線路沿いの小さな公園の脇で自転車を降りた。お昼のお弁当、といってもおにぎりだけだが、ここで食べようと思い立つ。

 中途半端な三角形の公園は酷く荒れていて、細かな雑草がびっしりと地面を覆っていた。所々に犬の糞が転がっている。澄ました顔の飼い主が、ここではマナーは要らないと後始末もしないで放置したのだろう。
 申し訳程度の遊具がある。最初の緊急事態宣言の時のまま、遊具にロープが張り巡らされていた。あの時、子どもたちが遊ばないようにとかけられたものだ。

 そのロープが巻かれたジャングルジムの中の方に、隠れるようにしてひとり漫画本を読んでいる女の子がいた。一番下の鉄のバーに腰かけている。彼女が、小さい身体を潜り込ませるのに、通せんぼのロープは何の役にも立っていない。
 
 美那は、小さな女の子がたったひとりでいることに、胸が騒いだ。ジャングルジムに近付き、中を覗き込み声をかけた。
「そんな所にいたら、危ないよ」
 返事がない。
「出ておいでよ、危ないよ」

 女の子は、美那をじっと見ているが黙ったまま。胸にポケモンのキャラクターの付いた薄緑色のトレーナーを着て、膝までの半ズボンを穿いている。   着ているものだけ見ると男の子のようにも見えるが、髪が伸びていて女の子には違いない。花柄の小さな布マスクが可愛らしい。

「何年生?」
「三年生」
 そうなのと返事を返したが、印象は一年生くらいの感じだ。

「学校は?」
「休み」
 ふうん……。休校なのか、欠席したのかどっちなんだろうと思う。

「あそうだ、ね、今からお姉さん、おにぎり食べるんだけど、一緒に食べない?」
 美那がそう言うと、その子は暫く固まっていた。
「あのね、たくさん作りすぎちゃったの。一緒に食べない?」
 笑いかけると、彼女はそもそと動いてジャングルジムの奥から這い出してきた。

 目の前に立った女の子は、身長が百二十センチあるかないかで、美那の胸のところに頭があった。長い髪は伸ばしっぱなしで先が細り不揃いだった。 ポケモンのトレーナーが、汗ばむほどの明るい日差しの中では暑苦しい。
 胸に、読み込まれたマンガ本を抱いていた。

「ベンチに行く? あ、私は美那、あなたは?」
「しえる」

「え? シエル? どういう字書くの?」
「ポエムの詩に空」
「ぽえむのしにそら?」
 美那がおうむ返しに言うと、その子はしゃがんで地面に〝詩空〟と書いた。
「へえ、詩に空と書いて、しえるって読むんだ。おしゃれ!」
 詩空は、少しだけ笑った。
「名前を聞かれたら、ポエムの詩に空って答えなさいって。でも私は嫌い」
「どうして?」
「普通が良かった」
「ふうん、しえる、可愛いと思うよ、私は」

 結局、ふたりで立ったままおにぎりを食べた。ブランコもベンチも滑り台も、座れそうなところは全部ロープが巻き付けられていたからだ。

「家は? この近く?」
 詩空は、公園の前の道を挟んだところに立つ、二階建ての古いコーポを指さした。

「あ、真ん前なんだ。じゃ、大丈夫か。いや、変なおじさんに声かけられると危ないなってお姉さん思ってさ」
「家にパパがいるけど病気だから、静かにしないといけないから。ママが帰ってくるまでジャンプ読んで、ここで待ってる」
「そうなんだ、詩空やさしいね」
「それに、お兄ちゃんもいるから」
「そう、じゃ、よかった」

 その服、お兄ちゃんの? 
 と言いかけて口を噤んだ。半ズボンは膝まであって、詩空を余計に小さく見せているのだった。

                           ④につづく


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