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捨てる〜鬼子母神堂 満願会を経て

一昨日、中目黒 正覚寺の鬼子母神堂の満願会へ、パートナーと行ってまいりました。

うまく書けるかわかりませんが、新月のこの日、自分への宣言として、大切なことなので書いておこうと思います。

正覚寺さんは、シルクロードジャパンの活動をはじめ、私たちを支えてくれた大切な場所。4月18日は鬼子母神の御縁日で、鬼子母神に感謝を捧げるご祈祷が毎年行われています。

木剣を用いた日蓮宗のご祈祷は本当に素晴らしいものです(これはぜひみなさんに一度体験していただきたいです)。

その日も来れて良かったなあと思いながら、帰途につきましたが、その後から翌日ずっと、すっかり寝込んでしまいました。

その時に感じたのは、「大塚惇平は1回死んだ」ということでした。

「己を捨てる」

そのことを身をもって体感させていただいたように感じました。

言葉にすることはとても難しいのですが、

「己を捨てなければこの声の活動は出来ない」

ということ。

「己を捨てよ」

ほんとうの意味でのdevotionとはどういうことか。

深く深く、教えていただきました。

ほんとうの「宝」をいただいたと感じました。

結局、言葉になりませんね。笑

4月17日、40歳の節目の誕生日でした。

「不惑」

この時にほんとうに大切なことを教えていただけたことに深く感謝しています。

日本画家 彩蘭弥さんによるオリジナル散華も素敵でした

もうひとつ大事なことを。

このご祈祷に力を与えている「祈り」の力。

それは、この祈りを繋いできた僧侶の方々一人一人の想い、人知れないところで、日々、数々の命のために祈りを捧げてきた幾億の日々の集積がそこに存在しているということです。

日蓮宗のご祈祷は荒行を行った僧侶でないとできないそうです。荒行の最中に写経をし、水行をするのですが、それはお経の持つ力「経力」を身体に染み込ませるためだそうです。

その経力というのは、経典に示されるある種の「真理」の力に加えて、はてしなくつながってきた「祈り」の力なのではないでしょうか。

それを支えるのが、「伝統の力」なのだと思います。それはきっと、一人の力ではできないこと。

他ならない私たちの「命」も、そのような成り立ちをしているのだと思います。

私たちは「伝統」という命を繋ぐ「かたち」「システム」から切り離されてきていて、おそらくそこに元のような形で戻ることはできないかもしれません。

私自身も、宗教的な伝統に対しては、"not religious but spiritual"- 特定の宗教には所属しないけれど、「普遍的な何か」を感じるし、信じている立場です(それが自分自身の声の活動でもあります)。

けれど、いやがおうにも命は連綿と繋がっており、私もその中に紛れもなく存在している。

そのことに意識的になりながら、自分自身に今、命を繋ぐことの中で、何ができるのか、その中で、ほんとうの意味で献身するということが、どのようなことなのか。

それを、日々の中で発見していくことができればと願っています。

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